小さく見える宝剣山荘と宝剣岳を背に、「聖職の碑」の碑のある方に向かいます。
約100年前(99年前)の大正2年、地元、箕輪の学校登山の遭難は新田次郎によって「聖職の碑」として小説化されました。
11名が命を落としたこの木曽駒ケ岳登山は、奇しくも8月26日、
私達の今回の木曽駒ケ岳登山と同じ日でした。
生還者のうち2人は岩陰で難を逃れた・・・らしい岩陰は
駒ケ岳と将棊頭(しょうぎがしら)山のほぼ中間にある「濃ケ池」(標高約2600メートル)付近。
・・・他の方のブログでこの岩が確定されたと記されていました。
濃ケ池の北東側で、登山道から少し外れた場所にあったと・・・。
「二つの岩が両方からもたれかかるようになっており、そこにほぼ三角形の空洞ができていた」
と聖職の碑には書かれています。
この文章を読んでいて思い出した事がありました。
一昨年、濃ヶ池に友人のご主人の追悼登山に来た時教えてもらった、彼が濃ヶ池付近の調査の道具を保管してあった岩穴。
もしかしたら、そこは2人の学生の命を助けた岩陰だったのかもしれないと思いました。
「一、二人が入れる大きさだった」
「朝目が覚めると東側に太陽が見えた」・・・確かに。
彼が知っていたか、知らずか、それは分からないけれど・・・。
稜線に出ると景色はいいけれど、本岳までは結構遠い。
この稜線を37名の学生が暴風雨の中歩いたんだ・・。
私達の時代は中学3年で木曽駒登山を経験しました。
私はこの木曽駒登山から山ファンになったのですが、その頃にこの聖職の碑の事を聞いたような気がします。
途中、聖職の碑の碑がある案内板が立っていましたが、私は辛くなるので見たくはありませんでした。
一緒に登った娘に「聖職の碑」の話をしながら息を切らせて本岳山頂を目指します。
昼近く、ようやく山頂に登頂。
濃ヶ池付近にはほとんど人がいなかったのですが、山頂には大勢の登山者がいました。
本岳から中岳を越え、又最初の宝剣岳、宝剣山荘が見えて来ました。
霧の中に見えるのは天狗岳です。
濃ヶ池経由で本岳に向かう事を思うと何て帰りは楽なんだろう・・・と思いながら千畳敷に向かいます。
ロープーウェイの待ち時間は約2時間半。千畳敷までの下りの登山道も渋滞でした。
やっとロープーウェイの順番が来た頃には、夕日が駒ケ岳の向こうに沈んで行きました。