Genの思いつ記(Gen建築設計所)

人はいろいろであります。いろいろな日常を思いつくままに記録していく建築設計事務所のブログです。

講習会一日目

2010年11月30日 | 建築、設計
今朝は起きれず、見に行きたい建物を見に行けず。。。余裕を持って出かけたにもかかわらず、道に迷い結局ギリギリの会場入りだった。今日は新橋、虎ノ門、霞ヶ関の辺りを歩いた。やっぱり、ビルがデカイです。ま、霞ヶ関にいったのも道を間違えた結果ですが。。。

東京の地下鉄は深い。位置が深度が深い。エスカレーターが長い。あれじゃあ、階段みたいに登るのはしんどいのであるので、じっとしてました。(笑)

肝心の講習会はハードであった。昼の休憩も取れないくらいなのだ。ちょっと落ちこぼれになりそうな気配なので、今から今日の復習するのだ。何としてもモノにしなくてはー。


東京さ来た

2010年11月29日 | インポート
東京さ来た
明日からの講習会に備えて、東京へ前日入りした。昼すぎに着いたので東京見学。ホテルに荷物を預け、まずは六本木を目指す。

東京ミッドタウンで、サントリー美術館を探したら建物の中だったのてがっかり。知らなかった。。。気を取り直して黒川紀章設計の国立新美術館へ。ちょうど、ゴッホ展があったので絵画をゆったり観に入った。つもりが、人だらけで。。。

それでも、またもや気を引き締めて建物探し。結局、六本木から乃木坂、表参道を通って渋谷まで。ずっと歩いた。かなり疲れやした。

今日は早く寝よう。明日の講習会のために(笑) 明日は、朝早くでて建物見に寄り道しようと企んでいるのだ!


サッカーをしてた頃頃

2010年11月28日 | スポーツ

あまり、集団生活にはなじめないのですが、集団競技は好きです。スポーツではサッカーとまたの機会にアップしますが、ラグビーぐらいですかね~。野球は近所の子供があつまってするくらいで本格的にはできなかった、というか少年野球に入りたかったけど入れなかったという感じです。さて、この前のサッカーの話の続きです。

 

せっかくですからココに記憶しておきます。今はどうか知りませんが、当時は体育会系というのは非常に上下関係が厳しく、まず、どこで出会っても先輩に会ったときはどこであろうと、必ず挨拶をするというのが基本です。その挨拶も大きな声で元気よくというのが最低限の挨拶の仕方です。しかも「ちわー」とか省略して何を言っているのかわからないような挨拶なんですね~。

 

これが基本にあって、クラブ活動も「声出し」がタイヘン評価されました。クラブが始まって最初にランニングがあり、その後、柔軟体操 場合によってはブラジル体操(ブラジルの選手がやる動きながらの柔軟体操)をしてからボクたち1年生は練習に入れず、球拾いということとになります。先輩方が、練習しているところを囲むようにして円形に並び、来たボールを拾うだけです。このときの声だしが1年生の役目であり、声の大きいやつが練習に参加できるのです。なんとも理不尽なことですが、それが集団のルールだったのです。恥ずかしがりのボクもなれとともに、大声をだして認めてもらおうと努力しました。

 

書き出したら、とめどなくあるので、簡単に書きますと、声を張り上げて、練習に参加できることになったのですが、技術力不足をまざまざと感じ、自分で地道に努力するという結果が待ってました。ボールを購入して家の近所で壁にむかって蹴ったり、家のなかでも小さなボールを買って蹴っていたり。。。小さなころより、やっている人たちに追いつこうと必死でした。

 

大体のスポーツがそうであるようにサッカーにおいても同様で、いかに幼い頃からやっているかで技術力は雲泥の差がでます。、サッカーなどのボールコントロールにおいては著しく差がでます。これをカバーして負けない、試合にでれるような選手になるにはどうすれば、いいか。これは考えました。。。そして結論は体を張って勝負できるバックスしかないかと。相手から攻められたときに体ごとぶつかっていって止める!それならできそうな気がしていた。本当はもっといろいろな要求があるポジションであるが基本はバックスなので失点を許さない、それが一番重要なことなのである。

 

ボールタッチが下手なボクは、3年間かけてバックスを目指しました。その中でもサイドバックが好きでした。足の右利きというのは多いのですが、左利き、いわゆるリフティというのはあまりいませんから、左足でゴール前にボールをあげれれば商品価値は上がるかと(左足でセンタリングをあげるだけです)。左サイドバックのポジションを獲得するため、左足で蹴る練習はかなりしました。今思えば、自分のポジション、自分の位置がわかっていたのですね~。今、仕事をしていて、それがあやふやになっているのは、どういうことなのだろう。。。

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サッカーをやったおかげで、たくさんのことを学んだ。今思いおこせば、精神的は変わっていない気がするのだが、行動的には明らかに積極性がかけている。心改めて奮起せねばと思う。ということで、サッカーの話を書きながら自分にカツを入れようと思う。のでもう少し続けます。」:


テレビ寺子屋20101128

2010年11月28日 | テレビ番組

今週は 竹下和男さんが講師でのお話でした。小学校、中学校の3つの学校の校長先生を勤め、「弁当の日」を提案し、現在では39都道府県、630校が「弁当の日」を実施しているという。「弁当の日」とはどんなものかというと、子供が自分で台所に立ち、ご飯を炊くことから全て自分でやり、弁当をつくって学校に持っていって昼に食べるという日なのである。ここで起こるいろいろなエピソードの話である。

 

最初のお話は、小学1年生の男の子のお話。男の子が目玉焼きに挑戦して、目玉焼きを5つつくりました。そのうちキレイに完成したのは1つだけ。後の4つは黄身がつぶれたり、白身が焦げたりとまともに出来ませんでしたが、1つだけ真丸い白身の中の中心にキレイに丸い黄身がのったのができた。家族はおじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、お父さんと男の子の5人。一人1つずつになるのであるが、キレイに完成した目玉焼きは誰のお皿に盛り付けたでしょう?

 

○○○○○

 

正解は男の子のお皿。なぜ、男の子は自分のお皿に盛ったのでしょうか。大人たちは見栄えは悪くても子供がつくった目玉焼きを「おいしい、おいしい」といって褒めながら、食べていたのです。しかし、男の子は目玉焼きを食べなかったそうです。男の子は、キレイにできた目玉焼きを横から見たり、持ち上げてみたりと・・・食べません。ただ1つキレイにできた目玉焼きを永久保存にしたくて(記念にとっておきたくて)誰にも渡さず、自分なら食べずにおいておけるので自分のお皿においたのです。これは自分もやったらできるという、達成感と大人と同じことができたという手応えとを子供が感じたのです。

 

他のエピソードもありましたが、感動がうまく表現できないのでココでは書きません。話の中ででてきたのは「子供が健やかに育つ3つの大切な時間」というのがあるということ。くらし・あそび・まなび、という3つ。重要度はピナミッド状になっており、くらしが底辺で中があそび、三角の先の部分がまなび。子供はくらしという基盤があり、あそびという社会性(コミュニケーション)を育む時間があり、それらが基礎となり、まなぶという時間があるということ。まなぶというのは勝ち負けがあり、ストレスがたまるのであるが、そのストレスをくらしあそびの時間が吸収しているのでバランスがとれる。くらしの時間というのは「子供が台所にたつ」ことによって、一緒に料理をつくることによって充実した時間を過ごせる。親子がお互いを理解できる時間がもてる。食べることの大切さとつくることの面白さを経験できるのではないだろうか。。。

 

今日は徹夜になってしまった。取り合えず、今から寝ます。。。。。


サッカーしてた頃

2010年11月26日 | スポーツ

最近は友人からの連絡はすっかりメールになった。ボクは18才まで京都の学校に行っていて、その当時の友人などは、こまごましたメールなどしないと思っていたのであるが、時代の流れというか皆しているのですね~。相手もボクのことをそう思っていたかも知れませんが。。。そんな友人から12月に集まるので来れるか、というメールが入ってきたが、残念ながら予定が入っていて行けない。

 

今でもずっと定期的に会うような友人というのは(もう滅多に会えませんが)、小学校の友人よりも中学校から付き合いからという悪友が多いので30年以上も連絡を取り合っているということになる。ん~30年か。。。その中でも特に高校のときに一緒のクラブで活動したときの友人が多い。

 

思い起こせば中学生のときは「水泳部」であった。3年間、ミッチリ泳いだのでその当時はそれなりに泳げた。だから今でも~モチロン、スピードでは勝負できませんが、浮いている?ことなら得意???です。(笑) 体力、筋力がありませんので、プカプカ浮くぐらいなら~できます!え~今でこそ太っていますが、20才までは、いくら食べても太らないという今では考えられない体質でした。当時は太りたかったぐらいですから。。。

 

高校へ進学して4年目という新設校だったので学校にプールが無かった。もう少し、その時代の京都の公立高校の状況をいいますと、今のように選択肢がなく、小学校制のようなものがあり、この小学校の人は普通科はココだけ!というすごく乱暴な進路決定がなされていたのです。まだ人口増加の社会だったので新しい学校をつくり、予算が無いのでプールか体育館のどちらかしかつくれませんと、これまた中途半端な方針のため、行く先を決められた子供たちにはどうしようも無いのであった。そして毎日10kmぐらいを自転車で通学するという不便なことまで京都市に決定されたのであった。ま、これはこれで知り合えた友人達がたくさんいるので今更どうこう言うつもりもないのですが。。。

 

そして高校から「サッカー部」に入った。今でこそ、Jリーグやワールドカップやらで盛り上がっているスポーツですが、その時代はやっぱり野球が花形でサッカーなどマイナーなスポーツの部類に入るなくらい世間では盛り上がっていないスポーツであった。が、しかし~ボクらの学年だけで40名弱も入部し、いきなりランニングするだけで巨大砂埃ができるくらいのマンモスクラブになった。部員数だけは。。。

 

そんでもって3年間しっかりサッカーやりました。クラブから帰ってきても友人と夜の公園へボールを蹴りにいったり・・・思えば熱中してモノゴトに取り組むというのは人生であの3年間が初めてだったろうなぁ~。長くなったので、今日はこの辺りで。。。ちょっとなつかしいのでサッカーをやっていた頃をまたアップします。。。