その少年は小学校2年生から少年野球に入部した。
それまでは、父親と公園で野球を楽しんでいた。
最初は豚皮のグローブだとバカにされたので、いいグローブを買いに行き、
そこから彼は野球に没頭した。ただし、豚皮のブローブをバカにされたことを
彼は気にしていなかった。
途中で、飛ぶバットなどを購入しながら、彼はキャッチャーという
ポジションに自分の定位置を求めた。
6年生になった彼は自らキャプテンに立候補したが、惜しくも敗れて
副キャプテンになった。
中学では部活に入らずにボーイズリーグのチームに入った。
そこでも3年間、野球に没頭し、3年ではキャプテンを務めることになった。
中学3年生の頃、高校から誘いがあり、そこの高校に友人と一緒に行くことを
選択した。まだ、新たらしい高校であったが、甲子園に行ったことがある
岡山の高校であった。
寮生活で自分で洗濯したり、いろいろとあったようだが、3年間、野球をやり続けた。
ただし、3年になったばかりのころ、将来を見て、勉強をしようと思い、選手を辞めて
マネージャーとして記録する立場に変わった。
それまでの彼はすべり症等、怪我とも戦っていた。自分の思い通りにいかないことが
あることを実感していたはずである。
高校3年生の最後の夏、彼の高校は甲子園に行けることになった。
ただし、彼は選手ではなく、マネージャーとしてベンチ入りすることになる。
ただ、彼のキャッチャーとしての緻密な記録と地道な努力が買われて、
そのスコアは、チームの中では好評だったようである。
午前中、授業を受けて、午後から野球。そんな生活を3年間続けたが、
野球推薦でいけるのは文系だけで理系には行けない。それが嫌で3年生から
勉強しようと思ってマネージャーになった。そして、大学を受験したが、
合格できず、専門学校へと進路を決めた。
両親が建築関係の彼にとって建築とは何なのかということは幼いころから思いが
あったかもしれない。進路を選択する時に姉が、無理に建築を選択しなくても
いいよと言ったが、彼は自ら進んで建築の道を選んだ。
専門学校では体育会系の積極性が、評判よく、各先生方に可愛がってもらえたようだ。
就職の先生にもいいところに出来そうですよということで簡単に決まると思っていた。
ところが、コロナ禍で面接もまともにできない状況になり、心配していたのだが、
今回、無事に中堅のゼネコンに就職が決まった。親として一安心。ホッとしている。
やっぱり、運を持っていると感心した。彼が、どこまでモノづくりに関心があるのか
わからないが、モノを作る世界を選択したということはそれなりの思いがあるはずだ。
ないかも知れないけど、働くうちに芽生えるはずだ。
彼を採用した会社は、数年後、採用して良かったと思えるはずで、一つのことを
課すると応えてくれるはず。そんな性格のようだ。ここからは会社との相性もあるから
一概に言えないけれど、いい上司に出会えれば、人として成長できると思う。
ダメだったら、さっさと辞めて次に向かって行ってほしい。固執する必要なない。
そんな世の中になってきていると思う。