Genの思いつ記(Gen建築設計所)

人はいろいろであります。いろいろな日常を思いつくままに記録していく建築設計事務所のブログです。

ケンチク的視点-5

2016年07月26日 | 日記

ケンチク的視点-5
 
今回は少し話題をかえて就職活動の話などをしようと思います。


そもそも就職したところに定年までいるような気はなく、仕事を覚えて独立しようと考えていたので

就職活動も真面目にしていたわけではなく、どうにかなるだろうぐらいの活動でした。
 


学生の頃はアトリエ事務所に憧れていたので、求人をみてそれらしいところに会社訪問を

して面接試験を受けるという具合でした。


今から思えば学校の求人を観る時点でアトリエ事務所などに入れる訳はないのですが、

当時、何も知らなかった専門学生は、就職といえば学校にくる求人から選ばないといけないと勘違いしていました。
 

 
1つ受けて不採用になり、のんびり構えていたのですが、友人が受ける設計事務所に一緒に会社訪問に行こうと誘われ、

その流れで面接まで受け、落ちたと思っていたら受かってしまった、といういい加減な感じで就職を決めました。

こういうもんは縁ですね。だから、今、就職活動をしている学生には就職試験で落ちたら、向こうのみる目がなかったんや、

などと嘘ぶいています。(笑)

 
 
結局、5年間その設計事務所にお世話になり、次の5年間は紹介でアトリエ事務所に勤め、その後、

偶然、9カ月くらい有名建築家の事務所でアルバイトをし、事務所を開設するということになります。
 
建築の世界で働きだすといろいろわかってくることがあるのですが、そういうのを的確にアドバイスして

もらえる人に会えなかったというか、そういう人はいたのですが、自分から飛び込めなかったような気がします。

 
 
今の若い人たちには、本当にしたいことがあるのなら、若いうちにチャレンジしたほうがいいと

アドバイスしたいですな。お金に変えられない貴重な経験が出来、それが自分の思想にかなりの影響を

与えると思うからです。
 

ある友人からは事務所を開設して夢をかなえたね、などと言われましたが、とんでもない。

夢は事務所を開設することではなく、いい建物をつくりたい、楽しんで仕事を続けたい、それが社会の役立つのだと

自信をもって設計活動を出来ることだと思っています。設計事務所って好きな職業ですが、経済的に厳しい職業でも

あるんですね~。まあ、儲けている人もいますが。。。

  
ケンチクは奥が深い。まだまだ知らないことや、やらなければいけないことがたくさんある。

そんなところです。想像力を掻き立て、提案し、形になって世の中に解き放たれる。その醍醐味は素晴らしい。

そんなことに憧れて今も仕事を続けています。

  
次回は学生の頃の話に戻します。。。


ケンチク的視点-4

2016年07月18日 | ケンチク ウラ話

え~、3回目ぐらいから このシリーズを読んでもらえる人は少なくなったのですが、

めげずに書き続けます。一人でもいたら書きますので、面倒な人はスルーしてください。(笑)

 

専門学校の2年間というのはケンチクを学ぶには本当に少ない時間だと思います。

2年間授業はありますが、どうしても技術的なことに時間を割かれるため、思想とか考え方というのに

時間がなかなか取れない。それでいいという人もたくさんいるし、それが目的という人もいると思います。

ただ、ケンチクの醍醐味はその辺りだと思うので2年で終わるのはもったいないのです...

 

その分、働きながらいろいろと吸収していかないと面白味がわかってこない気がします。

まあ、それは後日に書くとして少し2年間の時間の使い方を考えてみたいと思います。
 
大学のように一般教養からなどではなく、4月から、いきなり構造や材料のことを学びながら、

歴史や意匠も同時に学び、2年になると早々に卒業設計という一大イベントに取り掛かります。

ですから、本当は1年の間にもっとスケジュール的なことを学生に話し、心構えを教えておく必要が

あるような気がします。

これはボクの体験上の話なので、そんなのはわかってますよ、と言われるかもしれないけど、

その当時は多くの学生が課題をこなすのに追われて先のことまでなかなか考えられない状況だったと思います。
 
それくらい2年間で一気に学べるという利点はありますが、他のことを考えるという時間的余裕がなくなります。

後は社会に出てから興味ある人だけやればいいというのも有りだとは思いますが~。


ある意味、大学を出ていても同じことがいえると思います。


ただ、社会にでて他の人と比べて自分の武器を持てる(ボクは技術や資格は社会で戦う自分の武器という表現で

学生に教えています)という利点をどう生かすかが、大切だと思っていました。

 

まあ、そう思いながら中々できない自分を情けなくも思った時もあります。実は技術や思想以外にも人生には

大切なことがたくさんあって、そのたくさんある中で自分が何を選択して何を目指していくのかが苦しい時に

踏ん張れる力になっていく気がしています。

 

話は、それてしまいましたが、短い2年間の中で最も充実した自分と向かう時間を過ごすのが

卒業設計ということになります。今はどんな風に進めているのか、わかりませんが、当時は

手を抜こうと思えばできたような気もしますし、真剣に取組めばいくら時間があっても足りない!

そんな感じだったと思います。

 

ただし、締切というものがある限り、必ず終わらせなければならないのです。

どんな仕事でもそうですけどね。ここまでという期限があるから終われるのだと思います。

話はあまり進みませんでしたが、長くなりすぎると読むのも書くのも疲れるので、

続きは次回からに書いていきます。(--)
 


ケンチク的視点-3

2016年07月16日 | ケンチク ウラ話

専門学校で2年間建築をケンチクを学ぶことになったのですが、実は現在、この学校の非常勤講師をしています。

まあ、部分的にしか知らないのですが、昔と今では大違いですね。今はやっぱり丁寧に教えてファカルティなど

学生から各科目のアンケートをとったりします。その評価をみてどうこう思いませんが、そんな時代になったんだなぁ~と思います。

 

さて続きの学生生活ですが、授業料は親に払ってもらいましたが、学校への交通費、課題の材料代等は全て自分で用意しました。

高校3年のサッカー部を引退してから新聞配達をしていて、専門学校の2年間も引続きやっていました。

そのお金で、小遣いも含め自分で都合をつけていました。こんな風に書くと苦学生みたいですが、そんなことはなく、

朝の2時間くらい少々眠いだけで苦にはなりませんでした。授業料出してもらっただけで親に感謝でした。

下に3人の兄弟がいたのでお金かかるやろな~と思ってましたので...

 

さて、学生時代ですが、はっきり言って真面目に不真面目でした、いや、不真面目に真面目かな。2年間でとれる単位の内、

2単位(1教科)以外はすべて取りました。1年の前期の試験が終わったとき、壁に貼りだされた試験結果をみてサッカー部の

先輩から教えろと声がかかり、以後、自宅へ勉強を教えに行くことになります。その時はたまに野球部の先輩も一緒に。。。
 

それだけならいいのですが、試験前にはノートをとっていないのでH君のノートのコピーを取りまくり(自分の分も含めて3人分・・・)、

先輩が授業も出ずに雀荘に行っているので勉強の時間なので呼びに行き、課題が出たら先輩ができないので仕方なく、

先輩の分までやり、ほとんどの課題は2人分以上やったと思います。さすがに卒業できた時は「おまえのおかげや。ありがとう。」

と言われましたが、まあ、どうにかなったので、良かったかなと思います。

 

何となく課題に追われた2年間という感じでした。その中でも講師の先生の実務的なことには非常に興味があり、影響されました。

こんな建物がある、みてみた方がいい、など言われ、H君と一緒に車で東京へ建物見学に行ったのも専門学校時代です。

本当に初めての首都東京で初めての新県築(最新の建築を紹介する有名書籍)の建物を観て感動し、「こんなんが出来るんやぁ~」

という驚きと感動と興奮で帰って来たのを覚えています。勝手に入って警備員の人に怒られたりしましたが。。。

これは建築を目指す人は必ず通る検問かと(笑)

 

そして学生時代のメインイベントのである卒業設計に没頭していくことになります。
 


ケンチク的視点-2

2016年07月10日 | ケンチク ウラ話

ケンチク的視点-2

18歳になったばかりの3月に高校を卒業し、4月には、希望に満ち溢れた気持ちで専門学校に入学しました。

ケンチクのことなど何一つわからず教えられることをとにかくやるだけの日々が過ぎました。

当時、設計というのは2種類あって、設計製図Ⅰ、Ⅱとあり、考える設計というは設計製図Ⅰになります。

設計製図Ⅱというのは所謂、製図を書くというものです。設計製図Ⅱはどうも苦手で評価は普通という感じでした。
 
しかしなぜか設計製図Ⅰは最初の課題から評価が良かったのです。

忘れもしませんが設計製図Ⅰの最初の課題は「自分自身のための空間」というもので図面と模型を作成するという課題でした。...
提出した時、なぜか評価が高かったのです。
 
当時の評価は松竹梅での評価でM(松)T(竹)U(梅)で松の手前はDMで(ダメ松)という感じで

松竹梅の中でも細かに評価されてました。そしてその初めての課題でなぜか松の評価をもらいそれが自分自身での

2年間のモチベーションにつながりました。


書く方はそこそこでも発想はいいものがあるのだと。自分自身でそんな勘違いをすることになりました。

その評価をしていただいた先生がT先生でその後、いろいろとお世話になることになります。
 
ざっと当時の専門学校の状況を言っておきますと、1学年はA~Hまでの8クラスくらいあり、1クラスが約40人、300人以上が

1学年という感じでした。そしてその当時、そのまま卒業できるのは100人くらい、約1/3ぐらいという、ある意味スパルタ的な感じの学校でした。

若者が少なくなった、今では考えられないことですが、当時はそれが普通でした。
 
そんな中、入学した時、クラスを見渡してびっくりしたのは、高校の先輩が二人いたことです。

一人はサッカー部の先輩で進学できずに同級になった方と、野球部の方で浪人して大学をあきらめで専門学校に入ってきた方です。
 

お互い高校の時に面識があったので挨拶は、しましたが、後にべったり2年間様々なところでかかわりあうことになります。


 
他にも今だに悪友?と思われる友人に出会うことになります。そんな濃い2年間を過ごすのですが、その辺りは次回にお話しします。


ケンチク的視点-1

2016年07月03日 | ケンチク ウラ話
設計事務所を立ち上げて早20年になります。その前の10年間の事務所勤務を
含めると「祝」30年ということになります。
30年もたったので「ケンチク」への思いを少しずつ書いていこうかと思います。
 
そもそも、建築の世界を目指そうとしたのは、高校生の時、進路を選択するのに考えた結果です。
両親が職人であり、サラリーマンにはなりたくなかった少年であったようで、何か手に職をもって
勝負できるような人生を歩みたいと思い、いろいろ考えた結果、建築の世界に行こうと決めました。
 
もともと小学生の頃は絵をかくのが好きであったし、そろばんを習っていて算数も得意でありました。
数学が得意ということで、高校生の時に理系という進路をとり、その中で絵的センスも求められ、
理系的センスも必要な職業というのは自分に合っているのかなという感じでした。
 
そして様々な職業を調べていくうちに、調べていた本の中に「一級建築を所得すれば独立も可能」
という一文に惹かれ不純な動機で選択したのを覚えています。
今から思えば、そんなに甘いものではないのですが、当時の自分には輝く未来が待っているような
気がしました。そんなことで選択したのが「大阪工業技術専門学校」です。なぜ、京都に住んで
いながら、大阪の学校を選んだというと京都から離れたかったのです。今から思えば、京都のことも
ろくに知らないのに大阪に行くのかという感じですが、当時は自分を変えたいという気持ちが
強かったんだろうと思います。
 
思い起こせば常に自分を変えたいという願望があったように思います。今でも思っていますし、
それが今も落ち着いた生き方ができていない原因かもしれませんが。。。
ふっとした事がきっかけで人生って決まるようなものかもしれません。
 
まだ、ほんのさわりですが、ゆっくり続きを書いていこうと思います。