「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (17)

2015年03月10日 20時32分09秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者の織り成す世界の ひとつの魅力とは、
 
純粋なるものへの 激しいまでの渇望である。
 
ただし、 その世界においては、 現実と折り合いがつくことはない。
 
折り合いがつかないからこそ  〈生きづらさ〉 を感じるのだが、
 
そのとき、 現実のほうが間違っている 可能性もあるわけである。】
 
 確かに、 僕が心子に惹かれた 大きな理由のひとつは、 彼女のピュアな心根でした。
 
 でも心子の純粋さは  「現実離れした純粋さ」 で、
 
 それが社会に馴染まないために 傷ついてしまうわけです。
 
 僕自身も若いときは 純粋な世界を求めていたので、 苦悩の体験もありました。
 
 そして、 大いなる挫折の時期を経て、
 
 否応ない現実というものを認識し、 より広くて深い 人生観を築いていきました。

 それが 人間としての成長でした。
 
 現実の中で通用しうる、 強さを持つ純粋さを身に付け、
 
 実現を目指していくことが 大切だと思います。
 
 本音と建前を使い分けたり、 長いものに巻かれたりして、
 
 妥協や世間擦れすることを 良しとするわけではありませんが、
 
 自分の純粋さだけに留まっているのは、 狭い価値観であり 未熟ではないでしょうか。
 
 心子の純粋さというのは、 そういうレベルのものだったと考えます。
 
 従って、 生きづらさを乗り切っていくには、
 
 自らが成長を求め、 努力していく必要があるでしょう。
 
 つまり 純粋さによる生きづらさは、
 
 不純な社会の問題だけでなく、 個人の問題でもあると思います。
 
  「水清ければ魚棲まず」 「清濁併せ呑む」 とも言いますが、
 
 世の中は 単純に無垢なだけではなく、
 
 複雑で猥雑なところが 人間臭くて、 面白さであるとも言えます。
 
 どんな世界が 興味深いと感じるかは、 その人の価値観そのものが 関わってきます。
 
 BPDの人の 生きづらさを解消するために、
 
 社会が BPDの人の純粋さを 受け入れていくべきだとは、
 
 必ずしも言えないのではないでしょうか。
 
 ただし、 社会も不正義を改め、 より成熟したあり方を求めていくべきなのは、
 
 言うまでもありません。
 
(因みに、 心子のような潔癖さを、
 
 他の多くのBPDの人が 持っているとも限らないでしょう。)
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 


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