「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (13)

2015年03月05日 21時12分29秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者は、  「世の常識に染まることがない」 ゆえに
 
 〈生きづらさ〉 を感じる
 
(中略)
 
だとすれば、 次のような稲本の叙述は不可解である。

《ボーダーの人は、 本来発達するべき人格が できなかったと言える。
 
(中略)
 
子供に適切な愛情を 与えられない親が増加し、
 
子供の健全なメンタリティの発育が 妨げられることと 関係しているかもしれない。
 
現代は 父親や母親の役割をはじめ、 世の中の伝統的な 価値観の枠が揺らぎ、
 
確固として人格の形成が しにくくなっている。
 
境界性パーソナリティ障害は、 ボーダーレス時代の 象徴的な心の障害だと思う。
 
(中略)
 
ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった 個人の問題に
 
還元させてしまい、  「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
また、 「伝統的な価値観」 が、  「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
 
むしろ伝統的価値観に基づいた  「父親や母親の役割」 は、
 
社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
 
フェミニズムが指摘してきたとおりである。
 
BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。
 
(中略)
 
個人の問題に焦点を当てることは、
 
社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。
 
また、 言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
 
BPD患者の責任でもなんでもない。
 
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
 
何ごとかを決定する段を ふまえないからこそ、
 
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
 
つまり、  「主張の否定が人格の否定ではない」  ということを、
 
社会に根づかせる必要が あるということである。】
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 


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