1月21日(月)晴れ。昨日は大寒の入りなれど今日は寒気やや緩む。
19日(土)の夜、BS1でドキュメンタリー「毛沢東の遺産~激論 二極化する中国~」を視た。
この番組を視て直後に感じたことは前回のブログに記した。しかし、それとは別に見終わってじわじわと思い立ってきたことがあった。
それは、いつの革命も同じだなとの思いである。すなわち、革命の成果は、いつも誰かに都合よく盗まれるものなのだなということである。
私は、昨年、ふとしたことから水上勉著の明治時代、大逆事件で処刑された「古川力作の生涯」を読んだ。
これを読んで、今まで漠然としか知らなかった「大逆事件」なるものが、いかにおどろおどろしく残酷かつ恐ろしい明治国家権力犯罪だったかということを知った。
私は、これを契機に明治という時代がほんとうはどういう時代だったのか改めて知りたくなった。
先ず大逆事件の首謀者とされて、第一番目に絞首刑にされた幸徳秋水の「帝国主義」を、その師である中江兆民の「三酔人経綸問答」を、横山源之助の明治30年代の底辺労働者男女の実態を克明に活き活きと記録した「日本の下層社会」等々を。
その結果、知ったのは、明治という時代が、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いたような、光輝溢れる日本史上まれにみる栄光のその陰で、いかに多くの人民の怨嗟と苦患に満ち満ちていたかを知った。
その欺瞞の象徴が、明治天皇が亡くなる直前、明治国家権力によってでっち上げられた空前絶後ともいうべき国家権力犯罪としての「大逆事件」だったのだ。
そしてその首謀者は、明治時代最後の元勲といわれた山縣有朋なのだ。そしてさらにこの山縣のお先棒を担ぎ、「思想を断罪する」として、大逆事件のシナリオを書き無実のしかも困っている人民を何とか救えないものかとそれぞれの場で一生懸命とりくんでいた有志の人々を断罪したのが、後に総理大臣にまでなった山縣の忠実無比な子分、平沼騏一郎(維新の会、平沼赳夫の義理の祖父)なのだ。
明治維新、それは、心ならずも抗するかたちとなった徳川慶喜、小栗上野介、さらには両者の仲立ちの役割をした勝海舟らの働きや、そのほか、無数の有志の活動家の力が結集して、迫り来る欧米列強帝国主義の侵略を跳ね返して幕藩・封建国家体制から近代立憲国家体制への転換劇であり、その結果、日本が外国に侵略されることなく無事生き延びることができた一大エポックメーキングだったのだ。
そして維新当初、日本は、今後どのような国家体制をめざしていくのか様々な選択肢があったのだ。
なかでも五箇条のご誓文は、まさに近代民主主義国家建設への夢を国民の多くに与えたのだ。
しかし、国家早々のみぎり、廃藩置県、武士の家禄の召し上げ等、明治維新革命の手足となって血汗を流したにもかかわらず報われぬ層が多数生じ、その憤懣が西南戦争へとなった。
だが、時代は大きく変わり、新たに組織された国民皆兵による徴募兵(多くは農民子弟)に武士を主体とする西郷軍は敗北した。
これを契機に国家権力に対抗するには、武力ではだめだとさとり自由民権運動が勃興した。
このとき、明治維新草創の中心的世代だった西郷や大久保、木戸が相次いで亡くなると、その政治的遺産を伊藤や山縣ら第二世代がつぐことになった。
これから以降の日本国家のあり方を大きく変えていく中心となったのが、山縣有朋なのだ。
彼こそは、幕府から奪った政権を絶対に他に渡すまいと決意したのだ。彼の目にあるのは国民多数の幸福なんかではなかったのだ。
彼は、欧州に視察にいき、そこでフランス革命などを見聞し、人民に言論や集会の自由等を与えれば、いかに権力が無力なることを骨の髄まで学習したのだ。
このため、帰国して政府の中枢に座るようになると次か次へ、いかに国家権力を自己のもとに固く掌握するかに腐心するようになる。
そのために天皇制を最大限に利用すすることにしたのだ。天皇の官僚としての文武官僚の試験採用。わけても憲法制定にあたっての軍事に関してのて天皇の統帥権の絶対性。これは軍事に関しては、総理大臣さえもその関与を排除するもであった。
「政権は銃口から生まれる」と嘯いた毛沢東よりも先に、山縣は政治権力の保持には武力の掌握が絶対不可欠であったことを骨身に沁みて承知していたのだ。
徳川家康でさえも戦を始めるとき、老臣に相談もなくはじめはしなかっただろう。侍大将なんて幕府の職制上他の奉行職と並列されていたのだ。
このこと一つ見ても、天皇の統帥権というものが国家行政組織上いかに異様なものであったかがわかるではないか。
これは、時代の流れの中で国民大衆の世論を議会開催という方向で無視し得ない状況を見据えての苦肉の策でもあったのだろう。
だが、制定当初はともかく、一度これが憲法の条文となるや、予想もしない威力を発揮し後の昭和軍部の暴走を招き明治憲法国家体制の破綻を招くにいったたのだ。
つまり、山縣は、国家権力を自己の息のかかった子分共を中心に永久に保持しようとせんがために天皇制という強固な基盤を築きこれを都合よく利用する中で、明治維新革命期にあった明るい国民の未来を暗転させ私したといわざるをえないのだ。
中国の今もまたこの明治日本と同じことが起きているようだ。それは現在の政権中枢に居座る一部の利権集団が、共産党革命の理念・理想を忘れ、それを捨て去りながらもスローガンだけは、今もれいれいしくたてならべながら、その陰では、国家権力を保持していくために、軍隊を国家の軍隊とせず、共産党人民解放軍として自己の権力の暴力維持装置を絶対的に手放そうとしないところに如実しめされているではないか。
いまや、全人民が同じ釜の飯を喰い、土の中に穴を掘って雨露をしのいだ長征は、はるか昔の伝説と化し、その夢を信じてついていった多数の庶民は、自分たちがただの権力奪取の道具でしかなかったことを思い知らされるにいたったということではないのか。
中国といわず日本といわず、人間一人ひとりが、権力の単なる道具とならないためには、自分を大切にし、いかなる権威権力にもひるまない自主独立の気概と自分なりの考え方をもち、同じ考えを持つ人たちと連帯して、その思想を切磋琢磨して行く以外に、未来への真にひらかれた明るい平和な社会への展望はないのではないだろうか。
―追記―
「大逆事件」については、
1970年に三一書房から刊行された絲屋寿雄著「大逆事件」が、事件の背景、事件も概要、公判の様子、判決文、再審請求の経過と却下の判決等が好くまとめられている。
なお、大逆事件により、無実の罪で刑死した12人と死刑を宣告されながらも減刑されて無期または有期刑に処せられた被告たち本人ならびにその縁者のその後をめぐって、2010年、岩波書店から刊行された田中伸尚著「大逆事件―死と生の群像―」に詳しく記されている。
戦後、新憲法が公布され大逆罪が廃止されたにもかかわらず、しかもその後の研究で大逆事件が菅野、宮下ら4人を除いては、事実無根であったことが明らかにされている。
戦後、その中で唯一人存命して無罪の再審請求をした坂本清馬に対して、最高裁はにべもなく却下した。
山縣有朋の天皇制絶対の権力独占の亡霊は、今なおこの国の根深いところで息づいているようだ。
しかも今、安倍政権(山縣の系譜に連なる長州藩閥)によって、天皇を元首とすることをはじめ現憲法を戦前の大日本帝国憲法をなつかしむかに改正しようと摺動をはじめているのだ。
19日(土)の夜、BS1でドキュメンタリー「毛沢東の遺産~激論 二極化する中国~」を視た。
この番組を視て直後に感じたことは前回のブログに記した。しかし、それとは別に見終わってじわじわと思い立ってきたことがあった。
それは、いつの革命も同じだなとの思いである。すなわち、革命の成果は、いつも誰かに都合よく盗まれるものなのだなということである。
私は、昨年、ふとしたことから水上勉著の明治時代、大逆事件で処刑された「古川力作の生涯」を読んだ。
これを読んで、今まで漠然としか知らなかった「大逆事件」なるものが、いかにおどろおどろしく残酷かつ恐ろしい明治国家権力犯罪だったかということを知った。
私は、これを契機に明治という時代がほんとうはどういう時代だったのか改めて知りたくなった。
先ず大逆事件の首謀者とされて、第一番目に絞首刑にされた幸徳秋水の「帝国主義」を、その師である中江兆民の「三酔人経綸問答」を、横山源之助の明治30年代の底辺労働者男女の実態を克明に活き活きと記録した「日本の下層社会」等々を。
その結果、知ったのは、明治という時代が、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いたような、光輝溢れる日本史上まれにみる栄光のその陰で、いかに多くの人民の怨嗟と苦患に満ち満ちていたかを知った。
その欺瞞の象徴が、明治天皇が亡くなる直前、明治国家権力によってでっち上げられた空前絶後ともいうべき国家権力犯罪としての「大逆事件」だったのだ。
そしてその首謀者は、明治時代最後の元勲といわれた山縣有朋なのだ。そしてさらにこの山縣のお先棒を担ぎ、「思想を断罪する」として、大逆事件のシナリオを書き無実のしかも困っている人民を何とか救えないものかとそれぞれの場で一生懸命とりくんでいた有志の人々を断罪したのが、後に総理大臣にまでなった山縣の忠実無比な子分、平沼騏一郎(維新の会、平沼赳夫の義理の祖父)なのだ。
明治維新、それは、心ならずも抗するかたちとなった徳川慶喜、小栗上野介、さらには両者の仲立ちの役割をした勝海舟らの働きや、そのほか、無数の有志の活動家の力が結集して、迫り来る欧米列強帝国主義の侵略を跳ね返して幕藩・封建国家体制から近代立憲国家体制への転換劇であり、その結果、日本が外国に侵略されることなく無事生き延びることができた一大エポックメーキングだったのだ。
そして維新当初、日本は、今後どのような国家体制をめざしていくのか様々な選択肢があったのだ。
なかでも五箇条のご誓文は、まさに近代民主主義国家建設への夢を国民の多くに与えたのだ。
しかし、国家早々のみぎり、廃藩置県、武士の家禄の召し上げ等、明治維新革命の手足となって血汗を流したにもかかわらず報われぬ層が多数生じ、その憤懣が西南戦争へとなった。
だが、時代は大きく変わり、新たに組織された国民皆兵による徴募兵(多くは農民子弟)に武士を主体とする西郷軍は敗北した。
これを契機に国家権力に対抗するには、武力ではだめだとさとり自由民権運動が勃興した。
このとき、明治維新草創の中心的世代だった西郷や大久保、木戸が相次いで亡くなると、その政治的遺産を伊藤や山縣ら第二世代がつぐことになった。
これから以降の日本国家のあり方を大きく変えていく中心となったのが、山縣有朋なのだ。
彼こそは、幕府から奪った政権を絶対に他に渡すまいと決意したのだ。彼の目にあるのは国民多数の幸福なんかではなかったのだ。
彼は、欧州に視察にいき、そこでフランス革命などを見聞し、人民に言論や集会の自由等を与えれば、いかに権力が無力なることを骨の髄まで学習したのだ。
このため、帰国して政府の中枢に座るようになると次か次へ、いかに国家権力を自己のもとに固く掌握するかに腐心するようになる。
そのために天皇制を最大限に利用すすることにしたのだ。天皇の官僚としての文武官僚の試験採用。わけても憲法制定にあたっての軍事に関してのて天皇の統帥権の絶対性。これは軍事に関しては、総理大臣さえもその関与を排除するもであった。
「政権は銃口から生まれる」と嘯いた毛沢東よりも先に、山縣は政治権力の保持には武力の掌握が絶対不可欠であったことを骨身に沁みて承知していたのだ。
徳川家康でさえも戦を始めるとき、老臣に相談もなくはじめはしなかっただろう。侍大将なんて幕府の職制上他の奉行職と並列されていたのだ。
このこと一つ見ても、天皇の統帥権というものが国家行政組織上いかに異様なものであったかがわかるではないか。
これは、時代の流れの中で国民大衆の世論を議会開催という方向で無視し得ない状況を見据えての苦肉の策でもあったのだろう。
だが、制定当初はともかく、一度これが憲法の条文となるや、予想もしない威力を発揮し後の昭和軍部の暴走を招き明治憲法国家体制の破綻を招くにいったたのだ。
つまり、山縣は、国家権力を自己の息のかかった子分共を中心に永久に保持しようとせんがために天皇制という強固な基盤を築きこれを都合よく利用する中で、明治維新革命期にあった明るい国民の未来を暗転させ私したといわざるをえないのだ。
中国の今もまたこの明治日本と同じことが起きているようだ。それは現在の政権中枢に居座る一部の利権集団が、共産党革命の理念・理想を忘れ、それを捨て去りながらもスローガンだけは、今もれいれいしくたてならべながら、その陰では、国家権力を保持していくために、軍隊を国家の軍隊とせず、共産党人民解放軍として自己の権力の暴力維持装置を絶対的に手放そうとしないところに如実しめされているではないか。
いまや、全人民が同じ釜の飯を喰い、土の中に穴を掘って雨露をしのいだ長征は、はるか昔の伝説と化し、その夢を信じてついていった多数の庶民は、自分たちがただの権力奪取の道具でしかなかったことを思い知らされるにいたったということではないのか。
中国といわず日本といわず、人間一人ひとりが、権力の単なる道具とならないためには、自分を大切にし、いかなる権威権力にもひるまない自主独立の気概と自分なりの考え方をもち、同じ考えを持つ人たちと連帯して、その思想を切磋琢磨して行く以外に、未来への真にひらかれた明るい平和な社会への展望はないのではないだろうか。
―追記―
「大逆事件」については、
1970年に三一書房から刊行された絲屋寿雄著「大逆事件」が、事件の背景、事件も概要、公判の様子、判決文、再審請求の経過と却下の判決等が好くまとめられている。
なお、大逆事件により、無実の罪で刑死した12人と死刑を宣告されながらも減刑されて無期または有期刑に処せられた被告たち本人ならびにその縁者のその後をめぐって、2010年、岩波書店から刊行された田中伸尚著「大逆事件―死と生の群像―」に詳しく記されている。
戦後、新憲法が公布され大逆罪が廃止されたにもかかわらず、しかもその後の研究で大逆事件が菅野、宮下ら4人を除いては、事実無根であったことが明らかにされている。
戦後、その中で唯一人存命して無罪の再審請求をした坂本清馬に対して、最高裁はにべもなく却下した。
山縣有朋の天皇制絶対の権力独占の亡霊は、今なおこの国の根深いところで息づいているようだ。
しかも今、安倍政権(山縣の系譜に連なる長州藩閥)によって、天皇を元首とすることをはじめ現憲法を戦前の大日本帝国憲法をなつかしむかに改正しようと摺動をはじめているのだ。