遍路の心

鮒の里.四国遍路19番立江寺近く.お接待処.民宿

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-04-30 08:58:39 | Weblog
    義経伝説と遍路道

 四国霊場、18番恩山寺より19番立江寺までの遍路道に「弦張坂、弦巻坂」をお遍路さんは歩いてくる。
 お遍路さんは何かわからないうちに通りすぎて来ているみたいだ、18番恩山寺の遍路道は義経が平家軍を追って、今の大阪、摂津、渡辺の浜を船出した義経主従が、翌日の明け方ごろに到着した地点であると記してある。
 この地で義経主従が軍勢を勢揃いしたことに因む地名であると古くから伝えられている「勢合」と呼ばれている、勢合から恩山寺に至るまでの間にある「弦張坂、弦巻坂」は、義経主従が敵勢を警戒して弓に弦を張ったところ、また、敵勢の姿がみえないため安心して弦を緩めたところと伝えられている。
 四国遍路道はその時代、その世の中の歴史を物語っているように思う。
    
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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-04-29 08:03:44 | Weblog
   戦国期から藩政初頭の四国遍路

 戦国期以来の四国霊場には、つねに遍路修行の人びとが往来していたようである。阿波藩祖の蜂須賀家政は、関ヶ原合戦の直前に当たる慶長3年「1598」に領内八ヵ所の真言宗寺院を駅路等に指定し、寺領10石を与えて領内を旅する者に宿泊の便を提供することを命じている。
 その最初に「遍路」を挙げている、宿泊を求める者にはそれぞれの身分を確かめたうえ似合いの馳走をするようにとも命じている。
 八ヵ寺のうち「長谷寺、瑞運寺、梅谷寺、打越寺、円頓寺、」五ヵ寺はいずれも遍路街道沿いの寺院であった。家政は寺僧に不穏な宿泊者の動向を監視し村役人に通報することも命じていることから、旅行者の保護というより軍事目的が優先していたことは明らかではあるが、当時においては遍路姿で様々の目的で遍路旅をしていたことを知ることが出来る。
      
              徳島県の歴史より
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魚眼で見る遍路.......鮒の里より

2009-04-28 08:11:34 | Weblog
    遍路の功徳

 四国霊場の寺院には大願成就の証として、病気や怪我が全治した遍路たちが、松葉杖やコルセットなどを奉納しているのが見られる。とくにけ結願寺とされる88番の大窪寺には、おびただしい数の奉納品があふれている。また22番の平等寺本堂には、いくつかの躄車が奉納されている。それらの奉納物には由来が記入されていていずれも当寺の門前までたどりついたとき、うそのように足が動くようになった。これこそ同行二人の旅の功徳と記されているがそのように功徳が得られるには、医学的証明できる確かな理由もあったと思う。
 それにしても遍路修行の御利益が得られた人々が数おおくいたことは確かなようである。その動機が信仰であれ、また別の理由でも世俗から解放され澄んだ空気のもとで修行すれば、体はもちろん精神的にも回復することもあり得たと思う。

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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-04-27 13:05:06 | Weblog
   接待と善根宿
 
 四国霊場の旧道には至る所に茶堂が立っていた。いまでは倒壊したり改築されたものもあって、その数は激減している。これらの茶堂は在所の人びとの寄進によって建てられた小庵で、春秋の遍路シーズンには接待が盛んに行われた。接待というのは遍路たちに金品を提供し、無事に霊場巡拝が終えられるように手助けし、その苦業を励ますための慈善的な行為で、接待をすれば遍路と同じ功徳が得られると信じられていた。それと同時に接待処における在所の人々と遍路の会話のなかに、諸国の情報が得られるという、またとないコミニュケーションの場となっていたこともこの接待が盛んに行われた重要な契機となっていた。
 また善根宿とはどのようなものかというと、宿を施そうとする家では最寄りの札所に行って、宿を乞う遍路をわが家に連れ帰り接待をする。
 宿を乞う遍路は草鞋を脱ぐと、その家の仏壇の前に坐り、読経して祖先の冥福を祈った後、家族たちととの会話に時の経つのを忘れることもある。
 このように接待や善根宿の慣習がそれを施す側にとってもさまざまな功徳を得ることが多くあった。
 遍路がもたらした技術や様々な知恵を定着させ、地域の産業や文化の発展に大きな役割を果たした、徳島県の旧遍路道の村々には遍路たちが伝えた加持祈祷や特効薬の数々、瓦の製法や駄菓子の作り方、灸治療、特殊な農作物の栽培法などを伝えて行った。
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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-04-26 10:12:47 | Weblog
    四国遍路の源流
 
 四国の札所寺院を巡拝しながら修行する遍路の起源については、そのための断定的な史料はない、ただ空海の生誕地が讃岐の屏風浦であり19才のとき阿波の大滝嶽や土佐の室戸で求問持の法を修したことが、その自著「三教指帰」に書かれている。その後空海の弟子たちがその足跡を訪ねて、四国の山野を巡りながら修行することが、いつしか定着くしたようになったようだ。
 平安末期になると「梁塵秘抄」に我等が修行せし様は忍辱袈裟をば肩に掛け、又芨を負ひ衣はいつとなく潮垂れて四国の辺道をぞ常に踏む、とあり、また「今昔物語集」にも四国辺地を僧侶たちがめぐっていたことが語られているように、中世までは僧侶たちの厳しい修行の道場であったといえそうである。
 四国霊場が今日のように、八十八札所を巡拝するコースとして定着したのは、旅僧の真念が「四国遍礼道指南」を刊行した頃からである。

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魚眼で見る遍路...立江川の鮒、光潤より

2009-04-24 09:29:30 | Weblog
  発心の道場、「阿波の近世仏教」ーーー河出書房新社、「徳島県の歴史より」
 
 阿波の近世は天正13年「1585」に蜂須賀家政が入部したときに始まる。蜂須賀家は臨済宗で、家政の兄である東嶽や顧問僧の泰雲などの禅僧を重用したことから、菩提所の興源寺をはじめ妙心寺派の教線が領内に伸張し、南山、春叢、玉澗などの名僧を輩出し、とくに興源寺の玉澗は文字禅の巨峰といわれ、諸国の雲水「修行して歩く僧」によって禅堂は活気にあふれたと伝えられている。
 しかし、阿波は伝統的に真言王国といわれ、約600寺のうち450寺ほどが真言宗であった。
 戦国大名の三好長治が自ら信仰していた法華宗を阿波一円にひろめようと、他宗寺院を折伏して法華寺に改宗させようとしたものである。
 そんな阿波における真言寺院の圧倒的な数が、四国霊場第一番の札所を霊山寺と決定するうえで、大きく働いたことは確かなことである。
 この順拝コースを確定するのは四国霊場
を20回以上も踏破し、「四国遍路、道指南」という案内記を刊行した真念大師だとされているが、この真念大師がコース決定のうえで影響を与えたものと考えてよいだろう。
         次回は阿波藩のへんろに対することがら、
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2009-04-22 06:10:38 | Weblog
  やっと現れた、民、百姓を救える指導者「橋下大阪知事」
 大和朝廷より長い日本の歴史、文化のながれの中で数々の政治家、仏教の指導者が生まれているが、民、百姓が本当に困窮し、明日の生活に困る時代が来なければ優秀な指導者がこの世に現れていないのが今までの日本の歴史が物語っている。
 橋下知事が当選したときに、私は今風の若者が人気だけで当選したのかと危惧しましたが、橋下知事の今までの政治、行政に対する改革を見ていると今の政治屋ではどうにも出来ない行き詰まった問題を根本から改革しているように思える。
 何百年に一度の地球規模の様々の問題が出てきた今日の世の中に現れた優秀な神がかり的な天才かも知れない気がします。
 若いから経験不足なんていうのは、年寄りの考えで、持って生まれた能力こそ本当の実力だろう、お大師さんが四国へんろ道を修行したのも青年の頃だった。
 我々団塊の世代も若者を見直すことが寛容ではないだろうか。
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2009-04-19 18:17:40 | Weblog
    バスケの天女さんへ

 黄檗宗の僧侶の服装で高齢の禅僧が歩行が困難になったときに使用することが許される。杖に枝が蔓のように巻き付いているのが、「触頭杖」しょくとうつえ、と
いいます。何もついていない杖は「淨頭杖」じょうとうつえ、といいいます。
 仏教は、お釈迦さんの教えが基本となって、その時代が求めた優秀な僧侶が宗派を立てて庶民に教えを説いてあります。何千年の歴史の中から生まれた宗派は数多く有ります。
 ただ言えるのは仏教の教えは世界の様々な宗教よりも寛大であるということです。来たる者は拒まず、去る者は咎めず、相手を否定しないことだと思います、
 完全な平和主義だと思います。
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2009-04-17 10:41:12 | Weblog
     落花の風情、空即是色、

 遍路道のさくらも散ってしまいました。茶道の静寂という言葉ではありませんが、まさに空しさ、無の気持ちです、咲いた花は散るもの、風がなくても咲いた限りは必ず散るものですが、その運命を感じて次ぎの新しい新芽の出てくるのを楽しみに頑張っていくのが人生の遍路道そのものかも知れませんね。

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魚眼で見る遍路...立江川の鮒、光潤より

2009-04-15 18:00:33 | Weblog
   遍路道に必要な杖は何故、四角形なのか

 金剛杖は上部は五輪「地、水、火、風、空」を表し、弘法大師の加護により、遍路道の無事を守る杖。大師の故事から橋の上では杖をつかない。宿に着いたら杖の先を洗い、杖納めか床の間に立てておくと教えてある。
 へんろ杖はお遍路さんの墓標でもあるので、杖の4面に般若心経の266の文字を写経しているのがいいらしいです。
 本来、杖というものは頼りにする、あてにする、など人が一番信頼できるもののようです、何故四角なのかといわれると、勉強不足でお答えが出来ませんが、よく調べておきます。ちなみにお坊さんが持つ杖は丸いのが多いですね、ご高齢の禅僧か゛歩行が困難になったときに使用することが許される杖は拄杖といいます。
 触頭杖と淨頭杖が有ります。
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