戦国期から藩政初頭の四国遍路
戦国期以来の四国霊場には、つねに遍路修行の人びとが往来していたようである。阿波藩祖の蜂須賀家政は、関ヶ原合戦の直前に当たる慶長3年「1598」に領内八ヵ所の真言宗寺院を駅路等に指定し、寺領10石を与えて領内を旅する者に宿泊の便を提供することを命じている。
その最初に「遍路」を挙げている、宿泊を求める者にはそれぞれの身分を確かめたうえ似合いの馳走をするようにとも命じている。
八ヵ寺のうち「長谷寺、瑞運寺、梅谷寺、打越寺、円頓寺、」五ヵ寺はいずれも遍路街道沿いの寺院であった。家政は寺僧に不穏な宿泊者の動向を監視し村役人に通報することも命じていることから、旅行者の保護というより軍事目的が優先していたことは明らかではあるが、当時においては遍路姿で様々の目的で遍路旅をしていたことを知ることが出来る。
徳島県の歴史より
立江川の鮒より
戦国期以来の四国霊場には、つねに遍路修行の人びとが往来していたようである。阿波藩祖の蜂須賀家政は、関ヶ原合戦の直前に当たる慶長3年「1598」に領内八ヵ所の真言宗寺院を駅路等に指定し、寺領10石を与えて領内を旅する者に宿泊の便を提供することを命じている。
その最初に「遍路」を挙げている、宿泊を求める者にはそれぞれの身分を確かめたうえ似合いの馳走をするようにとも命じている。
八ヵ寺のうち「長谷寺、瑞運寺、梅谷寺、打越寺、円頓寺、」五ヵ寺はいずれも遍路街道沿いの寺院であった。家政は寺僧に不穏な宿泊者の動向を監視し村役人に通報することも命じていることから、旅行者の保護というより軍事目的が優先していたことは明らかではあるが、当時においては遍路姿で様々の目的で遍路旅をしていたことを知ることが出来る。
徳島県の歴史より
立江川の鮒より
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