四国遍路の源流
四国の札所寺院を巡拝しながら修行する遍路の起源については、そのための断定的な史料はない、ただ空海の生誕地が讃岐の屏風浦であり19才のとき阿波の大滝嶽や土佐の室戸で求問持の法を修したことが、その自著「三教指帰」に書かれている。その後空海の弟子たちがその足跡を訪ねて、四国の山野を巡りながら修行することが、いつしか定着くしたようになったようだ。
平安末期になると「梁塵秘抄」に我等が修行せし様は忍辱袈裟をば肩に掛け、又芨を負ひ衣はいつとなく潮垂れて四国の辺道をぞ常に踏む、とあり、また「今昔物語集」にも四国辺地を僧侶たちがめぐっていたことが語られているように、中世までは僧侶たちの厳しい修行の道場であったといえそうである。
四国霊場が今日のように、八十八札所を巡拝するコースとして定着したのは、旅僧の真念が「四国遍礼道指南」を刊行した頃からである。
徳島県の歴史より
立江川の鮒より
四国の札所寺院を巡拝しながら修行する遍路の起源については、そのための断定的な史料はない、ただ空海の生誕地が讃岐の屏風浦であり19才のとき阿波の大滝嶽や土佐の室戸で求問持の法を修したことが、その自著「三教指帰」に書かれている。その後空海の弟子たちがその足跡を訪ねて、四国の山野を巡りながら修行することが、いつしか定着くしたようになったようだ。
平安末期になると「梁塵秘抄」に我等が修行せし様は忍辱袈裟をば肩に掛け、又芨を負ひ衣はいつとなく潮垂れて四国の辺道をぞ常に踏む、とあり、また「今昔物語集」にも四国辺地を僧侶たちがめぐっていたことが語られているように、中世までは僧侶たちの厳しい修行の道場であったといえそうである。
四国霊場が今日のように、八十八札所を巡拝するコースとして定着したのは、旅僧の真念が「四国遍礼道指南」を刊行した頃からである。
徳島県の歴史より
立江川の鮒より