遍路の心

鮒の里.四国遍路19番立江寺近く.お接待処.民宿

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-29 06:03:18 | Weblog
    不垢不浄

 不垢不浄とはどのように汚く見えるものでも、必ず美しいものが宿っていることを実感することです。俳人放哉の「いれものがない、両手で受ける」の句のようにすなおな柔軟さで受け止めるところを、私たちが持っているのだと気がつくと、物体や現象を見る目が、少し違ってくるように思います。
 今日、四国遍路道を世界遺産になんていってる人達もいるが、そのために遍路道を整備し遍路道の道ばたに様々な生活の廃棄物が散乱しているので、そのゴミをなくさなければと、ある物書きの遍路が文章にしてあった。しかし、御大師さんが遍路修行に来たときでも、道なき道を歩くのだから、そこに住んでいる人達の生活のゴミも当然あったと思います。だからゴミを道ばたに捨てていいものではありませんが、その時代の人間の生活を感じるのも遍路道のように思います。
 遍路道をお遍路さんの便利なように、美しく公園化してしまっては本来の遍路道の意味がなくなってしまうと思います。
        
                   立江川の鮒より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-27 16:22:52 | Weblog
   名誉も非難も一刻の幻
 自分の一つの言動や行動に対し、第三者が賞めようと、そしろうと、その実績は増えも減りもしないでしょう。
 ところが、実際は釈尊の教えには、第三者の無責任な言葉を気にするようになる。それらの言動に執着する限り、心の池には増減の波が立つのです。
 それらの言動を気にしていると、恨みが生まれる、第三者の無責任な言動が気にならなくなったとき、増、減の波がおさまると教えてある。
 どうすれば、他からの批判攻撃を空じるのには、どうすればよいかといえば、釈尊は「ただ、一向にそしらるる、ただ、一向に賞めらるる、かかるもの、過ぎゆきし日にはあらざりき、今もまたあらざるなり、やがて来ん日にもあることなからん」と説いてある。
 皆が、賞めたり、皆が、そしりもしないのだから、現象だけで一喜一憂すると感情は疲れてしまいます。

             般若心経入門より
                       立江川の鮒より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-26 08:09:20 | Weblog
      無想流の人生
 鳥は空を飛んでも跡が残らない、魚は水の中を泳いでも跡は残らない。
とかく、人間という生物は跡を残したがる、仕事をすれば私がしたという、この家は僕の家、あの土地は俺の土地、あげくの果てに勲章をほしがる。
 鳥や、魚のように何をしても跡を残さないのが無想の生きかただと思う。
どんなに人様に善事をしても、跡を残さないように、自分が行ったことを自分の心にも残さないように願うのが仏の教えらしい、また、その願いも否定することが無願の願いである、「空」と説いてある。
 色は空に異ならず、すべての存在を否定するのだから、私がした、僕のものだとかいう自我の存在もなくなることです。

           般若心経入門より引用
                      立江川の鮒
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚眼で見る遍路...立江川の鮒、光潤より

2009-05-23 08:36:34 | Weblog
  言葉を愛する人
 言葉を愛する人は、言葉を考えて用います。人を愛する人は、人を考えて使います。自分を愛し、自分の人生を愛する人は、自分を考え、人生を考えます。そこに知恵が芽生えるのです。知恵に裏付けされる愛が慈悲です。
 不可能だとわかっているが、願わずにはいられないのが慈悲です。どの医者もサジを投げ、自分ですら絶望とわかりつつもなお瀕死のわが子をよみがえらせたいと願わずにはおられないのが親の慈悲です。
 今日の社会、派遣切り、契約社員のリストラ、人間を人間とも思わないような社会になってしまっている。昔の戦国時代にあっても武将たるもの兵のことを考えて戦いをしていたのだ。NHKのテレビ番組の人物は、愛を旗印にして戦っている。
 日本人の本来持っている人の優しさや教えを取り戻さなければならない。欧米諸国のまねごとをいくらしても、日本人の本当の心がすさんでいくだけでしょう。

                    立江川の鮒より
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-21 08:35:14 | Weblog
   不生、不滅

 大竜禅師の教えに、「山花ひらいて錦に似たり、澗水たたえて藍のごとし」
美しく咲いた山のあの花も、やがて散ろう。深くたたえて動く気配も見えぬ、深い谷の水も流れるともなく流れている。遅い速いの差はあるが、移りゆかぬものは何もない。それが永遠の命だと説いている、永遠とは、このように時間と空間を乗り越えたもので遅速や長短はないと。すると短命なままに、速いがままに、永遠であり不滅であると説いてある。
 また、時間、空間がないのだから、生じたということもなく、滅したということもないのです。まさに、不生であり不滅であります、生死なしということになります。
              般若心経入門より
                     立江川の鮒、光潤
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-20 05:40:24 | Weblog
   弱者に謝れる人間でありたい
 
 人間という生物、とかく差別、区別をつけたいものだ。自分が優越感をもちたいばかりに人を見下したり、うらやましがる傾向があるようだ。
 たとえば、自分の子供たちに親がなにか子供に対して誤りをしていても、なんか理屈をつけてごまかしているのではないだろうか、子供はそれを見逃さないのだ、親のゆうことを聞かないと親達は子供を叱っているが、親の勝手で子供を叱っていることがよくあるように思う。
 せめて、子供たちに素直な親の背中を見せておきたいものだ。

                       立江川の鮒より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-18 10:01:54 | Weblog
  若さの美より、老いの美を
 
 「女あり、二人ゆく、若きはうるわし、老いたるは、なお、うるわし」
ご夫婦のお遍路道、若い人の麗しさは言うまでもない。しかし、老いたるほうが尚美しい、老いの美しさは、心の美しさでしょう。
 長い人生の苦労にあい、それにうちひしがれず、傷つかず、そのたびごとに自分を磨いてきた、丹精の美です。
 生まれたら必ず老いるのです。そのつど、ひねくれぬように卑屈や自暴自棄にならぬように自分を大切に丹精して年齢を重ねましょう。
 やがて、老いも死もない、老いと死がなくなることもない、心経のこころに近づけるかも知れません。

           般若心経入門より
                      立江川の鮒、光潤
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚眼で見る遍路...立江川の鮒、光潤より

2009-05-17 08:16:24 | Weblog
   ほんまに、死にとうないーーーー「仙の臨終」
 むかし、博多に、仙という禅僧がおりました。ひょうひょうとした性格で、書画も巧みで現在でも高く評価されています。
 その死に際、弟子たちが高僧の最後にふさわしい後世に残る名言を引きだそうと、ずばり、「師よ、死にたいですか」と聞きました。枕もとに集まった関係者は、臨終の至言を一語も聞き逃がすまいと耳をそば立てていました。
 師は重い口を開いて、「死にとうない」一同唖然として、そんなことが世間に伝わると仙の徳風が地に落ちると思い、弟子たちがあわてて、重ねて「死にたいですか」と祈るように聞きましたが仙さん「ほんまに、ほんまに、死にとうない」と、だめを押すようにつぶやいたそうです・
 人間は、しょせん煩悩のかたまりです、生きていることが煩悩で生きているのだから、世間様に迷惑をかけずに日々たんたんと生きたいものですね。

        般若心経入門、「松原泰道」より
                         立江川の鮒より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚眼で見る遍路...立江川の鮒、光潤より

2009-05-14 08:31:52 | Weblog
     呵責
 呵責、この言葉は仏教語で、非難する、厳しく責めるという意味で、良心の呵責に耐えられないなんて言い回しをするが、とんでもないそんな優しい言葉ではないのだ。仏教では比丘を罰する七つの決まりごとの一つです。
 鴻池副長官、あなたは僧ではありませんが国民より選ばれた国会議員ではありませんか、そのような立場の人が今回の不祥事は、辞任すればよいと思っているのなら大きな間違いですよ。
 頭を丸めて四国遍路道を歩きなさい、遍路をしているうちに貴方の犯したことがいかに国民を愚弄しているかがわかります。
 鴻池議員は四国遍路道を一生歩かなければいけないくらいの罪ですよ。

                        立江川の鮒より
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2009-05-13 15:57:41 | Weblog
   苦あれば楽あり

 仏教は、この世の中を一切皆苦と説いてある。人は皆楽を求めるが、そのためには多くの、苦を体験しなければならない。楽を手に入れても、いつかはそれを失い、また苦におそわれる、結局この世は苦しみに満ちている。しかし、苦も楽も同じもの、実体のないものと考えることで、苦は克服出来るというのが仏教の教えです。
 実際には、苦しみのあとにはきっと楽しみが来るという、励ましの言葉として自分を激励しながら世の中を渡ってきたのです。
 遍路道、この言葉のとおり苦あれば、必ず楽な日もあると思ってお遍路さんは、ひたすら人それぞれの楽しみを見つけるために遍路道を歩いている。

                        立江川の鮒より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする