遍路の心

鮒の里.四国遍路19番立江寺近く.お接待処.民宿

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2010-05-28 10:36:11 | Weblog
   鮒の里に天女さん現れる

 五月の頃も終わりになりました。鮒の里には天女が舞い降りて来たようです、卯月の頃に鮒の里立ち寄ったお遍路さん、それはこの世の人とは思えないほどの美しいお遍路さんが鮒の里に再び帰ってきました。夢なら覚めないでくださいと御大師様にお願いをするばかりです。ところが、そのお遍路さんが鮒の里でアルバイトをすることになったのです。まさに夢のようなことが現実になってきたのです。水無月になるとお遍路さんもだいぶ少なくなってきますが、お遍路さんの接待のことや、遍路道のことなど、また、遍路宿の仕事のことなど、いろいろ知ってもらわなければなりませんので、ちょうどよい季節に舞い降りて来てくれたと喜んでいます。夢、幻のようなことなのでいささか心配でなりません、四国遍路に来られる予定のある人は、是非鮒の里に立ち寄ってください。夢が覚めているかも知れませんけれどもね、、、、

                      立江川の鮒より
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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2010-05-21 14:55:34 | Weblog
     おせったいーーおせっかい

 四国遍路道に昔より「おせったい」という文化がある。全国より四国遍路道においでのお遍路さんをもてなすという歴史がありますが、近頃、四国の人達もお接待ということが正しく行われず、おせっかいになっていることがある。初めて四国遍路に来たお遍路さんは四国遍路のガイドブックを読んで四国遍路道のお接待のことは知っているお遍路さんは多くいるが、お茶とか飲み物をお接待されることはまだいいのだが、せっかく歩いて遍路道を行こうとしているのに、車で送ってあげるといわれ断ってはいけないと思って送ってもらいましたが、また、車に乗ったところまで帰って歩き直すお遍路さんもいるようだ。
 足が痛くて、とても歩けないようであれば有り難いお接待だが、そうでなければ、自分は大丈夫ですからと、はっきりと断るのも修行です。
 四国遍路道では様々なお接待があるけど、四国の人達も、お接待と、おせつかいを間違わないようにしなければ、昔よりある四国の遍路道のお接待の文化が失われるような気がします。


                      立江川の鮒より
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魚眼で見る遍路...立江川の鮒、光潤より

2010-05-16 09:31:08 | Weblog
     子は三界の首枷

 欲界、色界、無色界からなる三界は仏教の教えでの、迷うがゆえに、三界は城なり、悟るがゆえに、十方は空なり、の如くで人はこの世界の中で、何度も生死を繰り返しているという。親にとって子供は、いつも忘れることの出来ない存在で、そのために行動を束縛されることも多い。罪人の首につけられた枷のようなものだ。しかし、やっかいなもの邪魔のなものといいながら、子供を思う親の愛情は、いつの世も変わらない。「親子は一世、夫婦は二世」「親の心、子知らず」というが、それでもこの世だけでなく、次の世もその次も、子供のことを心配しつづけるのが親の気持ちだと思う。ところが、近頃の親達の中では、子供はやっかいなもの、邪魔なときもあるのはよくあることだが、まさか、自分の生んだ子供を育てられないと言って人様にあずける、まだ、あずけるのは昔もあったことだが、捨ててしまったり、死なせてしまうなんてことが珍しくない世の中になってしまっている。
 今の世の中、仏の教えすら通用しなくなってしまったのだろうか、我々親達が子供達に、人間とって、いや、生物にとっても一番大切なものを教えることが間違ったのではないだろうかと思える。

                        立江川の鮒より
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魚眼で見る遍路.......鮒の里より

2010-05-14 07:03:45 | Weblog
    身障者用の電動車で遍路道を行く

 今朝、旅立ったお遍路さん、電動車で遍路道を来た、時速6キロぐらいだそうだ、そのお遍路さん大変な冒険家で、若いときにはマッターホルンに4回も登ったそうです。それが、登山で落下して首の骨を骨折し下半身不随になってしまってからは、自分のごう慢さを悔いながら日々リハビリの毎日ですと言っていました。ところがあきらめずに長いリハビリをしていると、人間の体はすごいもので少しずつ歩けるようになってきたという、そうなってくると本来の冒険好きの性格が頭を持ち上げてくる、とても無理と思っていた四国遍路道に行ってみようと思い、この電動車で長い距離は行き、参拝は杖を頼りでお参りしていますと笑いながら話していました。さすがに冒険家少しも悲観することなく、周りのお遍路さんに元気を与えているように思いました。


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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2010-05-13 09:58:49 | Weblog
    閻魔の色事

 閻魔はサンスクリット語の「ヤマ」を音訳したもの。古代インドの神話に登場する神で、死者の国を治めていたという。仏教では死後の世界を語るときに登場する。死者の生前のおこないを裁き、地獄へ堕ちるか天国へ昇れるかを決める、裁判官のような存在らしい。また、地獄の王として、罪人に罰を与える恐ろしい役目である。その閻魔のように厳格で恐ろしい閻魔でも、女性の色香のとりこになってしまうという。
 土佐の高知に「ぼうさんかんざし買うを見た」という歌の歌詞がある。あるぼうさんが色町の女性に恋をしたらしい、毎晩その女性のところに、ぼうさんが通うので、檀家の人達が心配して、その女性の居場所を土佐の国の遠方にやったらしい、それでもやっぱり探し当てて通ったらしいです。この世の男達でも、あの世の男達でも、女性の色香に悩まされるのは、男どもの、どうしようもない煩悩でしょうかね。


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魚眼で見る遍路...鮒の里より

2010-05-12 09:01:59 | Weblog
   外面似菩薩、内心如夜叉、

 女性を形容するときに使う言い回しで、見かけは菩薩のように穏やかで優しげだが、心の中は夜叉のように恐ろしいという。女性一般の性質を表すとも、このような性格の女性を指すともいわれる。夜叉はサンスクリット語のヤクシャを音訳したもの。薬叉と書く場合もある。人間に害を及ぼす鬼の名前である。
 これもまた、女性蔑視かと思われがちな言葉だが、もともとは、修行僧に向けて言われたことわざだったという。仏の道を求めて修行中の男性にとって、女性の色香に迷うことはもってのほか。妨げになるもの、つまり女性を遠ざけようとする戒めの言葉です。

 ところが、近頃の女性は外面似夜叉、男性が内心如菩薩のような気がする。例えば、善根宿で休むとき、女性が寝袋で堂々と寝ている。男性は何か遠慮がちに角の方で小さくなっている。満員電車の男性の心境みたいだ、草食男子が多くなって、女性の方が肉食になってるような気がする遍路道でもある。
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2010-05-10 09:11:19 | Weblog
    鳩山総理のお母様の本音の気持ち

 現在、鳩山総理は難しい決断をせまられている。日本国民が傍観者になってるいるときではないと思います。国家を統治するには苦渋の決断をしなければならないことがあると思うが、世界中の国々が武器を捨てて平和になることが出来るのなら、基地の問題は起きないのだが、人間の心、思いは何の進歩もなく同じ過ちを繰り返すだけだから、日本中の基地で分散して訓練は出来ると思う。有事のときは当然そんな悠長なことは言っていられないが、訓練ならば様々な事態を想定しなければならない、だから、日本中の基地を利用するのが訓練になると思う。鳩山総理のお母様の考えなら、親が我が子の為にお金を出すのが何故悪いと言うなら、基地として必要な離れ小島を買ってあげて、沖縄の人々に迷惑がかからない島で基地を造れば簡単なことだと思う。どっらにしても、税金に納めるめるか、あの世まではお金は持っていけないのだから。

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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2010-05-09 07:16:48 | Weblog
   足のじん帯を痛めたお遍路さん結願する。

 北海道から来たお遍路さん、焼山寺でじん帯を痛めてしまったが、徳島市で帰ろうと思いながらも我慢に我慢を重ねて鮒の里までたどり着いた。私が見たところこの足ではとても無理ですから足を治療してから行けばよいのではと言いましたら、帰るとは言わずに足が治るまで泊めてくださいと言い、医者に行きながら5日間泊まりました。まだ、完治していないが少しずつ歩いてみますといいながら旅立ったお遍路さんが結願しましたと鮒の里にやって来ました。これから高野山に行くのですが、遍路道で知り合った青年のお遍路さんと鮒の里で待ち合わせて高野山にいく約束をしているので言ったので、これも何かのご縁なので私も高野山に行くと言うことになりました。連休も終わり、だいぶお遍路さんも少なくなっていたので高野山もお遍路さんも少なくゆっくりお参りが出来ました。それにしてもとても無理かなと思ったお遍路さんと高野山に行けた私も何か幸せな気持ちになれました。

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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2010-05-04 07:48:26 | Weblog
    多いつもりで、少ないのは、分別

 人間が、生きていく中で分別ぐらい難しいものがないと思う。あらゆる人間の持っている煩悩を超越しなければできないことだろう、なまじ分別すると単なる妥協になるし、ことなかれ主義になってしまう、また、無責任ともなるわけです。ではどうすれば分別ができる人間になれるのかと言うことになってくる。自分に都合のいい分別なら簡単にできるし、生きてるということが自分に都合のいい分別でもあるわけだから、このことを追求していくと、ただ空しさが残るだけになってしまう。やっぱり、四国遍路道を歩いてその答えを見つけるしかないのかも知れない。歩きお遍路さんが何か漠然としたものを求めて何回も四国遍路道を歩いている人は多いかも知れません。たとえ答えが見つからなくても、それはそれで元気で歩いていることが、様々な分別が出来ていることかも知れませんから。

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