遍路の心

鮒の里.四国遍路19番立江寺近く.お接待処.民宿

漁眼で見る遍路....鮒の里より

2007-12-28 08:15:46 | Weblog
  ふるさとを求めて帰省ラッシュ
 正月がくると、都市で生活をしている人々は生まれ故郷に帰る。何故生物は生まれた場所に帰りたくなるのだろう、環境の汚染が進んでいる現在、人間であろうが魚、また渡り鳥であろうが、生まれたふるさとは、そんなによいところではなくなっている。しかし、かえるのは自分本来の自分を確認するためだろうか、?今の生活は生きる手段としてやってるだけで、本来の自分の心、想いをわすれないように、そうであれば現在の日本人は虚偽の姿である。いつか本当の自分を取り戻したい、そんな想いを持ちながら心のふるさと、遍路道へ.....
 私もふるさとの立江川に里帰り
               今年はここまで皆さんよいお年を、
                              
                            立江川の鮒より
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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2007-12-27 07:34:14 | Weblog
   頭陀袋
 何でも入るような大きなだぶだぶの袋、頭陀、はサンスクリット語の「ドゥーター」を音訳したものです。本来は「捨て去る」の意味で仏教では、衣、食、住にかかわる欲望を捨てる修行を、頭陀行といった。この修行は、乞食をしながら野宿の旅を続ける。このときにお経や衣などを入れていた。
 近頃の遍路はリュクサックが頭陀袋に変わって、色々な旅用品をいっぱい入れてくる、歩いて遍路をしているとやがてリックサックの重さが足、腰にこたえてくる、リックの品物を一つ、また一つと捨て去っていく、まさに頭陀行そのものである、人間の欲望を少しずつ捨て去っていく、いままであまりにも余計な物を持ちすぎていた、これが四国遍路道であると思う。
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2007-12-26 07:58:15 | Weblog
  親子はー世、夫婦は二世
 過去、現在、未来を仏教では、三世という。親と子の関係は現世だけで終わる一世のもの、夫婦の関係は現世と来世の二世にわたるつながりである、という意味。
 二世を契る、夫婦になること、それの誓いである。現世限りの親子関係は、まさに現在の親子関係そのものであるようにも思える。自分の意志でつくっていく夫婦関係と、選ぶことのできない親子関係とは人間にとって難しい、また、この世の試練でもある。
 今年の紅白の男性の歌手が「契り」を歌うそうだが、近頃の結婚は、たんなる儀式だけになってるようにも思える。もうすこし本当の「契り」を交わしてほしい気がする。
              立江川の鮒より 
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2007-12-25 10:07:50 | Weblog
   敗けの美学
人類の大多数がスポーツ、学問、あるとあらゆる場所で競い合いが、人々の生き甲斐となっている。ただ勝ばかりが必ずしも、正しいとは限らない、
 世界中で負けることを、評価するのは日本人ぐらいかも知れないが、当然、全力を尽くして敗れる、また相手の心情を察して負ける、様々な場所で負けの美学がある
小さな国でお互いを思いやり、生きて行かなければいけない生活の中で、負けるが勝ちという、文化が育ったのかも知れない。ところが国際社会の中ではその文化が通用しなくなった、今の世の中負けの美学が拒否されている。
 日本人らしく生きて行こうじやありませんか、どうせ地球の命も長くもない。
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2007-12-24 08:18:04 | Weblog
    メリークリスマス
 世界中には、数多くの宗教があり人々の心のよりどころになっている。
その宗教の神々が人類に教えてないことまで、人類は拡大解釈をし間違った行いをすることがある、それが宗教間での誤った戦いである、自分の敬っている宗教が正しくてそれ以外を排除するという考え方である。世界中で昔から同じあやまちを繰りかしている、人類は愚か者で自分たちの過ちを誰かにすりかえることをする、それが神事、祭事、仏事 また、戦いでもあるように思う。
 仏教はその人類のあやまちをも、寛大に我々に教えを説いているように思う、仏のもとに来る者は拒まず、また去る者は咎めず 四国遍路道はその教えを説いているのか、歩き遍路が今日も行く
                 立江川の鮒より
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2007-12-23 08:18:47 | Weblog
  現在の遍路歩き
 近頃、師走がきてお遍路さんが多くなってきた、昔なら師走といえば1年で一番忙しい時なのに、何故だろう、都市で生活をしている人々は田舎に帰る準備があると思うのだが、近年は田舎も都市もおまり変わらない生活をしているので、田舎の懐かしさがあまりないのかも知れない。その昔の風情を四国遍路道に求めているようだ、ちょうどお正月休みに徳島の一国参りをするのによい日数のようだ。
 春のお遍路さんの多い時期より本来の遍路歩きができるのだろうと思う、都市の生活の忙しさをわすれさすよい期間かも、遍路道で心に潤いがもどれば、また新しい気持ちで1年のスタートがきれるかも知れない。

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2007-12-22 07:06:31 | Weblog
   道化という言葉
 人々に仏の道を説き、教え導くこと「道法教化」からきた言葉。人を笑わせたり楽しませることや、その人を表す意味とは違い、仏教をひろめる方法であった。どんなにありがたい教えでも、むずかしい言葉や真面目なだけでは、庶民には受け入れてもらえない。そこで、笑いをとる話し方や身振りで、わかりやすく説法をしていた。
 やがて、こっけいなことをしたりすることを道化師、ピエロとなった、本来は仏教を説くお坊さんのことだった。
 そこで、1250キロの四国遍路道、お金はいるし時間はかかるし、おまけに苦しい旅である。本来の道化の言葉を思い出して遍路をすれば、苦しい遍路道もまたおつなものである。
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2007-12-21 15:34:16 | Weblog
   聞いて極楽見て地獄
 鮒の里に立ち寄るお遍路さんが、口にするのが1番霊山寺より10番切幡寺までは、なんとか楽しく遍路できましたが、藤井寺、焼山寺で聞くと見るでは大違い、大日寺までに、初めてのお遍路さんは足にまめを作ってくる。
 鮒の里に着くのが4日ー5日くらいできます。テレビ、新聞などで見ると菜の花がいっぱい咲いた田んぼの遍路道を、楽しそうに歩くお遍路さんの姿がよく載っています。それを見てお遍路に来ると、1250キロの遍路道「聞いて極楽見て地獄」このことわざ、まさに仏教語そのものです。世の中見たり聞いたりでは本当のことがわかりません。自分で経験するのが一番です。
    
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2007-12-20 18:59:51 | Weblog
   自分の不幸を悔やまず、他人の幸福を願う。? 
田んぼの真ん中にひろいバイバス道路が完成した。今までの里道を横切って走るバイパス、車は一直線の道路を気持ちよく走る、その里道を地元の農家のひとがトラクターに乗って、バイパスを横断しようとしている、信号のない交差点、今までだったら何の危険もないのどかな田園地域、そこえ道を間違えた歩き遍路さんが、やってきた自分も今まで車道を歩いてきて、もとの遍路道にもどろうとしているようだ、遍路さんおじさんに話しかけ車を止めようとしている。自分も間違えた道を引き返そうとしているのに、自分のことより他人の心配をする、人間としてあたりまえのことが、四国お遍路みちかもしれない。
         
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魚眼で見る遍路...鮒の里より

2007-12-19 08:21:50 | Weblog
   道具、武器について、
近年、人間どもは道具を武器として使うことが、あまりにも悲惨な出来事になっている。本来、刃物、銃、などは人間どもが知恵、力がないゆえ考えた道具である。
 食べ物を確保するための道具を、戦争という馬鹿な行動をしてしまうのも、人間の能力をこえる道具を開発するからだ、昔の人間たちは、その愚かの中にも必要でない武器を持たなかった。人間世界で武器をあまりにも簡単に、持てる世の中にしているのは、レジャーとか趣味など、くだらない行動があるからだ。
 我々鮒の世界では道具を開発しない、なぜなら人間どもの悲惨な光景を見ているからだ、そのかわり心を進歩、開発することに知恵を使っている、人間どもも、すこしは鮒の世界を見てみるのもいいかも。
                    立江川の鮒より
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