遍路の心

鮒の里.四国遍路19番立江寺近く.お接待処.民宿

魚眼で見る遍路。...鮒の里より

2008-10-28 10:24:35 | Weblog
   一大事
 人間、大変なことが起きると一大事とよく言う、もともとは仏教の言葉で「一大事因縁」と言う。お釈迦さんは一大事因縁をもってこの世に出現したという、法華経の一節からきた言葉です。
 この一大事因縁とは、仏がこの世に出現する一大目的のこと、ひとつの偉大な目的、つまり、仏が人々に自分が悟った真理を説き理解させることを意味している。
 現在、世界中で株価が下がり、一大事となっている、まさにアメリカ式マネーゲームの終わりを迎えているようだ、よくよく考えると何の実態がない幻の経済の成長だった訳だから当然といえば当然である。
 真実の、一大事をこれからはよく考えて一からやり直すしかあるまい。
           
          仏教百科より引用
                    立江川の鮒より
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漁眼で見る遍路....鮒の里より

2008-10-22 15:53:43 | Weblog
   ありがとう、お世話になりました。の言葉
 昨日、旅だったご夫婦のお遍路さんと話しをしている中で、自分自身気がつかなかった言葉で、これまでの長い人生を送ってきて、ありがとう、お世話になりましたと言うことは、何百、何千回となく言ってきたと思います。
 ところが四国遍路道を歩いてみて、地元の方々よりお接待を受けたときにありがとう、お世話になりましたとお礼の言葉が、今まで何回となく言って言葉と違って自分の心に響くのが何にか違っているのに気がつきましたと言っていました。
 何故だろうと自問自答していると、今までの、ありがとう、お世話になりましたが心がこもってなかった訳ではないが、遍路道を歩いているときに言ってる、ありがとう、という言葉が本当に心のそこより言っているのに気がつきましたと言っていました。
 何百年も続いている四国編路道、そんなところに意味があるのかも知れません。
                     立江川の鮒より
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2008-10-20 08:23:48 | Weblog
     役人の袖の下
 昔より、役人に付け届けと言うことは、あたりまえと長い歴史がものがたっている。人間という生物は自分だけよければよいと思うのが普通のようだ、これだけ世間で汚職問題がとりただされているのに、同じことを繰り返す役人気質は我々庶民にはいくら考えてもわからない。
 親達が子供によい学校に行って、官僚、県庁、市役所に就職させようと思う気持ちがわからなくないような気がする。日本人の多くの人達が税金を納めるより、税金を使うほうが良いと思っているようであれば、今更やかましく言うことなどないではないかと思うが、長い間一党独裁政治が続けば役人も腐ってしまうのがあたりまえです。
 我々庶民も、今度ばかりはよく考えて、政治家を選ぶときが来ていると思うが、
                    立江川の鮒より
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2008-10-17 09:17:33 | Weblog
   大阪府の京滋バイパスより門真インターまでの道路工事
 10月16日にその道路用地の行政代執行が行われたのをテレビで見ていた。
その土地には、保育所の園児が野菜を育てている土地であるようだ、代執行が行われるまでには様々の理由があることはわかるが、保育所の関係者が子供の食育と位置づけ子供達に教えている野菜作りを、先生、父兄、子供達の見ているまえで引き抜いてて処分するとは、どんな理由があるにしろ許されるものではないと思う・
 今日の、食の安全について行政がいくら国民に説明しても、言っていることと、やっていることが、あまりにも違いがありすぎると思う。当然その立場で考えるとやむを得ぬこともあることはわかるが、橋下知事さん、あなたも子供の親ではありませんか、子供の気持ちをもう少し考えなければいけないと思います。大阪府の再生を訴えている貴方の気持ちが、信じれなくなりますよ。
                    立江川の鮒より
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2008-10-15 11:22:34 | Weblog
    禅がルーツの食べ物
 日本人の食べ物の多くは中国より渡来したものが色々ある、「豆腐、納豆、味噌、しょう油、様々な食べ物が、日本人によって工夫し、日本の食文化を築いてきたと思う、
 現在の日本の食べ物は、中国より輸入された食べ物がかなりの数に及んでいる、当然日本の食料会社が中国にいって日本人の口に合った食べ物を作って輸入をしているのだと思いますが、今回の中国の食料が信用できない本当の理由が別のところに有るように思えてなりません。
 日本人の食に対する価値観が、値段だけにこだわっていると、製造する側もそれを基本に考えることになると思う、食について本来の考えに戻すことが大切だと思います。禅僧が工夫して食べ物を作って来たようにしなければならないと思いますが。
                 立江川の鮒より
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2008-10-10 10:53:51 | Weblog
    曹洞宗の開祖、道元大師の名言、
 弘法大師さんの没後、400年後に世に出てこられた仏法の師である。  
道元さんの教えは、今日の物質的に満ちあふれた世の中で生活をしている、我々に自分を見つめ直す教えが多くあるような気がする。
 自己責任の基である、「修証一如」の教えにただ舌をうごかし、声をあぐる仏事功徳とおもえる、いとはかなし。春の田の蛙の、昼夜に泣くがごとしと説いてある。読経も念仏も田んぼの蛙の鳴き声のようだといっている。
 道元の思想の根幹は「只官打坐」つまり読経、念仏、焼香、礼拝、懺悔などに重きをおかず、ただ無条件に坐ること、この正伝の仏法以外に仏法はなく、比較するものは存在しない、老若男女の区別や身分の差など関係なく修めることができる坐禅そのものが、さとりと教えている。
            仏教百科より引用
                      立江川の鮒より
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2008-10-08 12:39:55 | Weblog
   旦那
 サンスクリット語で「布施」の意味がある「ダーナ」を音訳した言葉らしいです。また檀那とも書くようだ。やがて布施をする人を意味するようになった。
 今では、雇われた人が主人のことを、また、妻が夫のにことを旦那と呼ぶようになった、現在、お布施は法事の謝礼などの金品をいうが、古くは修行僧の生活援助、お寺の経営を助けるなどの重要なものだった。また、布施をする対象の寺を「檀那寺」ともいう。
 現在の八十八番のお寺さんは、全国からお遍路さんがお参りに来てくれるので、どちらのお寺さんも、宗教法人にして税金は免除になっているので、本来のお寺のイメージとはだいぶ違っています。
 お遍路に来てみれば、布施の意味も少し違ってくるかもね。
                一部、仏教百科より引用しました。
                    立江川の鮒より
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2008-10-05 18:56:32 | Weblog
    落ち葉時雨の遍路道
 神無月になって、だいぶん秋らしくなってきた、遍路道にも時雨が降り濡れ落ち葉で足もとを濡らしながらお遍路さんが歩いている。まるで水墨画を見ているような気がする、春には春のお遍路さん、夏には夏のお遍路さん、冬には冬のお遍路さん、季節によってお遍路さんの姿が何か違ったように心に訴えてくる感じがするから不思議だ。
 秋のお遍路さんの後ろ姿は、遍路道に一番よく似合う情緒を醸し出しているようだ、それぞれの季節に四国遍路に来られるお遍路さんに、自分達を重ねて見ているような地元の人達が多くいるのも事実でしょう。
 何にしろ遠くて長い道のりを歩いて行くお遍路さんの無事を願うのは、地元の人達の本当の気持ちかも知れない。 
                    立江川の鮒より
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2008-10-02 19:14:55 | Weblog
  桃李言はざれども下自ら蹊を成す

 桃や李はよい花や実がなるので、人が集まり下に自然と小道ができると言っている。徳行のある人は何も言わなくても人々を心服させる。
 昔より、ことわざが記しているように、自分のことをとやかく言わずに態度で示せば、庶民はおのずとついてくると思うのだが、今の政治屋の皆さんはできもせぬことを恰も自分ならできるようなことを平気な顔をして言えるのが不思議だ、
 何百年たっても多くの人々が遍路道と言う道を歩きに来るのは、弘法大師さんが、ことわざの如く、徳は積み上げ、情けは掛け捨て、言わず語らず知らしめずですよ。
今日の人間は何でも自分を宣伝しすぎるのではないだろうか、宣伝するより態度でしめせば庶民の目は節穴ではないと思うのだが。
                      立江川の鮒より
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