北円堂を知らずして奈良の歴史は語れない
「古代須恵器窯展」について。---------
奈良県北中部/京阪神へ通うサラリーマン家族(100万人)の住む/団地の一つ/近鉄奈良線沿線の其の衛星都市には/旧市役所の建物が“ふるさとミュージアム”として保存されており/“古代須恵器窯展(2023.10.17~12.3)”が開催された。----------
此のミュージアムでは春秋の2回/地味ではあるが/地元に因(ちな)んだ催しが開催されてきた。----------
昔の村役場の建物(S8~築90年/登録有形文化財)なので/とても“小(こ)ぢんまり”としており/展示も狭い部屋の一部を利用して行っている。--------
展示内容の説明文は次の通り。
奈良時代後半に/市の北新町から俵口の一帯に築かれた須恵器窯や出土品に関する展示を行う。完成した須恵器は平城京に運ばれ/使われたとされている。奈良県内でも珍しい/窯業地帯である市の歴史を紐解く展示である。--------
奈良市の平城京周辺では/多くの瓦窯(がよう)跡が見つかっており/その名の通り/官舎や寺院の屋根瓦を生産していたことが分かっている。----------
処で/窯跡から発掘された須恵器には“宮”の刻印のある破片が見つかっており/平城宮で使われたことが判明している。-------
そして/都が平安京へ遷都されると/須恵器窯は閉鎖されてしまったようだと云う。重い土器を運ぶのだから窯を設営するのは都に近い処が良いに決まっているからだと考えられている。---------
また須恵器自体が平安時代になると土師器(はじき)に代わっていった。食器として高級な須恵器ではなくて野焼きの土師器になったのはどのような理由なのか定かではない。一説には/須恵器は煮炊きに使えないが/土師器は煮炊きにも耐えるからだと云うのだ。