奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その37)

2016-09-30 16:24:06 | 奈良・不比等

古都奈良の世界文化遺産を、世界的に俯瞰(ふかん)してみると、ユーラシア大陸の東端にあり、しかも東シナ海や日本海を挟んで外側に、大陸に添(そ)う島弧列島として存在する僅(わず)かな膨(ふく)らみの中に、何時(いつ)しか国家が形成され、大陸の文明の煌(きら)めきの所産を、その一端ではあるのだろうが歴史の興亡にシンクロして伝来した文化財を大切に継承しており、シルクロードの終端とも捉えられてきた。正倉院の伝世品(でんせいひん)は夙(つと)に有名である。

しかしながら、毎年開催されている正倉院展は、修学旅行生にとっても、外国人観光客にとっても無縁の存在である。これまで、国内の少数のファンが、読売新聞の正倉院展の無料招待券を持って、古都奈良の奈良国立博物館の正倉院展会場に詰め掛ける様子が、読売テレビの恒例のニュースになっている程度である。正倉院展に陳列される皇室の御物は文化庁の指定する文化財ではなく、正倉院関係は古都奈良の世界文化遺産のリストには東大寺の付属的な位置づけになっている。

修学旅行は正倉院展(第68回)の開催時期(平成28年10月22日~11月7日)を避けているように見えるのは、上客となる国内観光客への旅行会社の配慮でもあるようだ。

また、外国人観光客にとっては、中国の故宮(北京&台北)の財宝を観れば、日本の正倉院の御物は子供騙(こどもだま)し程度にしか見えないだろうから、正倉院展開催時期に古都奈良に来る外国人観光客も是非見たいとは思わないだろう。古都奈良は唯一、正倉院展の時期にのみ国内観光客に関心を示されるといったところである。

古都奈良の世界文化遺産の8項目のリストの中では、結局大きなものが、分かり易く、東大寺大仏殿と、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、それと古都奈良の親善大使を務めてくれている「奈良公園の鹿たち」にシンボライズされるのだろう。これ以外の文化財は相当に上手に説明しないと、感動を呼ぶことは難しいと思われる。

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古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その36)

2016-09-29 20:00:10 | 奈良・不比等

古都奈良の世界遺産を訪れる外国人観光客の様子を見ていると、バックパッカーの若者が多いように感じられる。ある意味、国内の修学旅行生と変わらない程度の旅行費用しか使って貰えていないのではなかろうか。確かに交通機関などは、一定額の収益があるが、宿泊や食事の費用を当てにしているお店では、売り上げがそれ程伸びていないだろう。観光立国(観光立県も同じ)の進め方として、俗に言うお金持ちにも古都奈良を観に来て欲しい。分析的に考えると、古都奈良の観光の現状は、外国人観光客が引きも切らず歩いていても、それは経済的には修学旅行生の人数が増えたようなものであろう。まあしかし、古都奈良は国内観光客から見放されたような観光地であり、贅沢(ぜいたく)は言えない。

一方、奈良県北部地域の住宅地には数十万人の外来人口があり、大阪のベッドタウン化している。この人々が貯め込んだ小銭を使って内需拡大(古都奈良の街で、外国旅行に使う程度に毎年繰り返し豪勢に散財するべし)に貢献してくれれば、当面の古都奈良の暮らし向きは少し楽になるだろうに、海外にばかり遠征して、地元にはお金を落としてくれていない。郷土愛の欠片(かけら)もないのではと思ってしまう。所詮、何十年奈良県北部地域に居住しても、外来人の気質は抜けていない。杖をついて歩くような年齢では遅いので、成るべく早く猛省して、古都奈良を探訪し、故郷納税のつもりで、財布の紐(ひも)を緩(ゆる)めることをお薦めしたい。ボランティアは若い人に任せて、自ら、お金持ちの国内観光客の模範となっては如何だろう。また、古都奈良の探訪の方法は、大学の観光学科の学生にたっぷりとガイド料を支払って、懇切な説明を受ければ最高でしょう。それこそお大尽(たいじん)にもなれるというものです。

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古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その35)

2016-09-28 15:30:10 | 奈良・不比等

古都奈良の世界遺産と粗(ほぼ)同時代にこの世に出現したと考えられる世界遺産として、日本人の大好きな「フランスのモンサンミッシェル(Mont Saint-Michel)」がある。古都奈良もモンサンミッシェルもどちらも営々と1000年以上に亘り、再建と補修を繰り返し、文化遺産を消滅させることなく現存させてきた。古都奈良であれば、東大寺大仏殿と毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)であり、モンサンミッシェルならば、「臨海孤島の岩山に築かれた高い尖塔を持つキリスト教の聖堂」である。古都奈良においても、南都七大寺に数えられた大安寺などは、七重塔とか、もう少し増(ま)しな物ものが残っていればきっと古都奈良の世界文化遺産のリストに含められたと思われるが、やはり、人間にとって現物が無ければ、歴史書の記述だけでは、世界人類の文化遺産としては認められないようだ。明日香村や橿原市の藤原京の場合は考古遺物だけなので、説明が苦しいようだ。その意味でも、古都奈良は先人の再建と補修に力を注いできた後世の努力が実を結んでいると言えるだろう。勿論、東大寺大仏殿と毘盧遮那仏の再建には日本の国家事業として行ってきたことが一番要のことになるのだが。国が今も、古都奈良の世界文化遺産を観光立国の目玉としているのは、歴史的には当然のことと考えられる。村祭りは村祭り、同じ奈良の地でも、村社と春日大社では格が異なると言わざるを得ない。(村社や願寺では世界文化遺産にはなり得ない。)何が言いたいのかと言えば、旧来の稲作・農村社会を構成してきた全国一律の氏神・檀家制度に関わる寺社と国家的な規模で造営された寺社では格が異なり、さらには文化遺産としての物が実際に残っているかどうかが、世界遺産レベルの観光資源として有用であるかどうかの決め手となる。世界遺産を取り巻く背景としての旧村は、歴史上役割を果たしてきたところもあるし、出来ずに滅んでしまった寺社も多くある。国家規模で造営した寺社については、子々孫々に亘ってお世話をすることを職務として義務付けられた村(年貢は勿論免除される)があり、今もその活動は続いているところもある。付言すれば、皇室の陵墓にしてもお世話をする村が存在したわけであるが、歴史の変転の中でその義務が忘れ去られてしまったところが多い。哲学的な命題に人間原理という概念があるけれど、丁度それと同じで、世界遺産として認められる案件は本当に稀有な幸運に恵まれて、文化遺産が姿を残して現世に留まってきたのだ言えるのだろう。古都奈良の世界文化遺産は、歴史を担ってきた先人のリレーしてきた誠に有り難い宝物である。(経済低迷の折には、外国人観光客の誘致による観光立国(観光立県も同じく)にて、外貨の日銭を手にすることができるから。) 

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古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その34)

2016-09-27 09:30:06 | 奈良・不比等

古都奈良の世界文化遺産を訪れて、修学旅行生(国内観光客を含む)も外国人観光客も、例えば、東大寺大仏殿の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を観て、恐らくその大きさに感動する事でしょう。しかし、古都奈良の思い出として永く残るのは、「大仏殿の柱くぐり(柱穴くぐり)」であったり、鹿せんべいで鹿と戯(たわむ)れたことのような、エピソード記憶である筈だと、奈良県知事・荒井正吾氏が言っている。そのために詰まらないかも知れないが、エピソード記憶が残るような、観るだけではなくて気軽に参加できるイベントを次々に考えているのだとか。人生で深く感動することは、世界遺産を観たところで、滅多に無いし、修学旅行生には大人と同様の感動を求めても無駄とも言えるだろうが、エピソード記憶だけは大人と変わらない寧ろ(むしろ)大人より優れて記憶してくれるだろう。この些細なイベント的な触れ合いの中に、古都奈良のリピーターになってくれるような要素を鏤(ちりば)めることが出来れば、国内観光客も将来に亘って期待できるというものだ。

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古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その33)

2016-09-25 19:37:47 | 奈良・不比等

奈良県(古都奈良)にて開催中の「奈良県大芸術祭2016(平成28年9月1日~11月30日)」は、来年開催予定の「第32回国民文化祭・なら2017(国文祭)」と「第17回全国障害者芸術文化祭(障文祭)」の「1年前倒し・プレイベント(奈良県大芸術祭2016)」であるようだ。「第32回国民文化祭・なら2017」は文化庁、「第17回全国障害者芸術・文化祭なら大会」は厚生労働省の都道府県持ち回りの全国事業である。

古都奈良の世界文化遺産を観光に訪れる修学旅行生(国内観光客を含む)や外国人観光客にとっては、「奈良県大芸術祭2016」は、全国持ち回りで来年(平成28年)に奈良県で行われる「国文祭・障文祭なら2017」のプレイベントであり、世界文化遺産を特別に対象としたものでないことを知っておけば十分であろう。勿論、「全国障害者芸術文化祭」はオリンピックとパラリンピックに想(そう)を得たものであることは疑いないところである。

 

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