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Zooey's Diary

何処に行っても何をしても人生は楽しんだもの勝ち。Zooeyの部屋にようこそ!

「天路の旅人」

2023年10月16日 | 

第二次大戦末期、敵国の中国大陸奥地までスパイとして侵入し、終戦後も放浪を続け不法滞在で強制送還されるまでの8年間、チベット、ヒマラヤ、インドネパールを移動し続けた男、西川一三(かずみ)の物語。
日本人であることを隠し、モンゴル生まれのチベット教の僧侶(ラマ僧)、ロブサン・サンボーになりきり、一切日本語は話さず、モンゴル語を操り、徒歩で敵国の奥へ奥へと侵入していく。ついにはヒマラヤを超え、インドに渡り、ネパールから再びインドへ。モンゴル語に加え、チベット語、ヒンドゥー語、ネパール語も習得していく。

大変な人がいたものです。
子供の頃から中国大陸の奥地に憧れ、中学卒業後、満州鉄道に就職。その後、蒙古で国家の為に挺身する若者を養成するという興亜義塾の塾生を経て、日本軍のスパイに。
中国軍に捕まったらいつ殺されるか分からないという恐怖を抱えながら、彼は駱駝に荷物を載せて、内蒙古から歩き出すのです。

最初に貰った軍資金はすぐに底をつき、蒙古では駱夫となり、アラシャンのバロン廟では下男となり、ラマ僧として托鉢をし、チベットのデプン寺では見習い坊主となり、タバコの売人となり、インドの印刷所の職工となる。ヒマラヤを超えてインドに向かった時には足に凍傷を起こして歩けなくなり、なんとインドの物乞いに僅かな食料を分けて貰って命を繋ぐ。
それだけでなく、道なき道を進む彼の旅では、常に死が隣り合わせだった。

蒙古を歩き通して、ようやくチベットに入った辺りの描写。
”ゴルク族のバナクが現れたということは、ようやく無人地帯を脱し、人の住む所に至ったということでもあった。それは「餓死」の恐怖から解放されたということを意味していた。無人地帯では、道を失い、食料が尽きれば、餓死せざるを得なかったからだ。確かに、無人のサルタン公路に埋め込まれた地雷のような危険からは脱することができた。渡河、峠越え、飢え、匪賊の襲撃。だが、人の住む地帯に入ると、新たな問題に直面することになった。ゴルク族による「盗み」と、チベットの役人たちの「貪欲さ」である。”(P268)

こんな具合に次から次へと危険なことばかりで、とても書き切れません。
このくだりは、旅を始めてまだ2年目に入ったところなのですから。
何度も死にかけてまで、こんな大変な旅をどうして続けるのかと言いたくなりますが、彼の当初の目的は敵国の情報収集だったが、日本の敗戦(インドでそのことを知る)と共に、目的は未知の土地を巡る旅に変わっていくのです。
つまりは、旅しないではいられない人であったのか…


(赤線は西川の旅路、殆ど徒歩。点線は強制送還の海路)

”著者史上最長にして、新たな「旅文学」の金字塔”(新潮社のコピー)とされる本作
572ページ、確かに読み応えがあります。

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「李王家の縁談」

2023年09月22日 | 


この本を手に取ったのは、私が赤坂クラシックハウスに何度も行っているからです。
紀尾井町にある、チューダー調の美しい洋館。
かつてはグランドプリンスホテル赤坂旧館であり、今はレストランとなっていて、こちらでランチやアフタヌーンティを楽しみました。
年中美しい花に囲まれていますが、特に薔薇の時期が素晴らしい。
元々は朝鮮最後の王家「旧李王家東京邸」であったということで、どんな人々が住んでいたのだろうという好奇心が抑えられなかったのでした。



この本は、梨本宮守正王妃伊都子の目線で書かれています。
鍋島直大侯爵令嬢で、その母は鹿鳴館の花と言われ、美貌の誉れ高かった鍋島栄子(ながこ)。
この本の表紙の写真がその人で、細い目に瓜実顔という感じが多かった幕末の姫君たちの中では、母娘ともに突出した美人であったようです。


(栄子妃)

本には殆ど写真がなかったので、ネットで写真を探しながら読みました。
1882年(明治15年)、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれ、「イタリアの都の子」の意味で伊都子と命名されたのだそうです。
こうしたお姫様であった伊都子は二人の娘の嫁ぎ先探しに奔走し、長女方子(まさこ)の身分の釣り合う相手に選び出したのが、大韓帝国最後の皇太子で、韓国併合後には王世子として日本の王族に列した李 垠(りぎん)だったのです。
自分の娘をとにかく「皇太子妃」にする為に、ここまでやるかと驚くばかり。
その李王夫妻の為に日本政府が昭和の初めに建てた豪華な新居が、この紀尾井町の邸宅であった訳です。
贅を極めた新居を与えられても、日本人からは「朝鮮人と結婚して日本の皇族の血を汚した」「国賊」と、朝鮮では「日本人と結婚して朝鮮を裏切った」と罵倒され、苦労は並大抵のものではなかったようです。
しかもその後、李王家や皇室の末端や華族がどうなったかは、我々の知るところでありますが…


(伊都子妃)

伊都子という人は、1899年(明治32年)から1976年(昭和51年)までの77年間にわたって丹念に日記を書き続け、この本はそれを基に書かれたのであるらしい。
皇族華族の登場人物がやたら多く、その説明が薄っぺらいのが残念ですが、戦前から戦後の激動期を皇族の視点で書かれたという点で面白い、御成婚宮廷絵巻物語です。

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コロナ世代への応援歌「私たちの世代は」瀬尾まいこ著

2023年09月03日 | 


「今でもふと思う。あの数年はなんだったのだろうかと。
不自由で息苦しかった毎日。家で過ごすことが最善だとされていたあの期間。
多くの人から当たり前にあるはずのものを奪っていったであろう時代。
それでも、あの日々が連れてきてくれたもの、与えてくれたものが確かにあった――」(帯の言葉)

コロナ禍に子ども時代を過ごした二人の女性の、当時から十数年後の成長の様子を書いた作品。
コロナで引き籠もっているうちに不登校になってしまった心晴(こはる)と、水商売をしている母に育てられ、そのことでいじめられた冴(さえ)の会話。
「私はさ、感染症で青春が奪われた、やりたいことができなかったって怒っている人が羨ましいよ」
「そう?どうして?」
「そんな風に言える子ども時代を送りたかったなって。私なんか感染症のおかげで、不登校でも目立たなくてよかった、ネットで受験までできてよかった、感染症ってありがたいと思ってたくらいだから」
「私もだよ。最初は感染症で学校生活が不自由になってしんどいと思ってたはずなのに、中学に入ってからは行事の度に気が重くて、もう少し感染症が続いたらよかったのにって思ってしまうこともあったんだ。それでいて、そう思う自分が情けなくて嫌で仕方なかった」

心晴や冴が、その時代をどんな思いで乗り越え、どんな風に成長していったか。
施設で育ち、夫を早くに亡くして天涯孤独で水商売をしているが、あくまでも明るい冴の母親。
親に育児放棄され、まともに食事も与えられずゴミ溜めのような家で育ったけれど聡明な、冴の幼友達蒼葉(あおば)。
そんな環境であり得ないだろうというキャラが堂々と登場し、彼らの逞しさに圧倒されます。
平易な文章で緩く書かれていますが、読み終わった後の幸福感が瀬尾まいこらしい、コロナ禍を経験した我々への応援歌のような作品です。


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「がんが消えていく生き方」

2023年08月23日 | 


がん医療に長年携わってきた外科医ががんを発症し、13年経ってから書いたという本。
船戸崇史医師は48歳の時に腎臓がんを罹患し、外科手術で切り取り、その後再発転移させないためにどうしたらよいかと、ありとあらゆる方法を試したのだそうです。
そして彼が得た結論は、再発防止の為にもっとも重要なのは生活習慣の改善だということ。

がんに克つ5つの生活習慣
1 良眠生活「睡眠中こそが細胞や組織を修復する時間帯」
2 良食生活「がん体質を変えるための食生活にスイッチ」(禁酒禁煙は勿論)
3 加温生活「リンパ球は体温1%上がると活性力40%増」
4 運動生活「がんが嫌う酸素を体内に効率的に取り込む」
5 微笑生活「実証された笑いの作用でNK細胞の活性化」
こそが、免疫力を強化し、再発しない身体をつくると説くのです。

舟戸医師は岐阜の方なのですね。
関市の洞戸という田舎に、氏の推奨する生活習慣を取り入れた「がん予防滞在型リトリート」という療養所を作り、そこでがんが消えた、或いは宣告された余命よりも遥かに長生きしたという人たちの実例が巻末に載っています。
その療養所の宣伝のための本という気もしないでもないのですが、著者が文字通り身体を張って書いて下さったこの五か条、憶えておきたいと思って書き記しました。
実践するのは簡単ではありませんが…。

あとがきで、コロナについても触れられています(この本は2020年10月発刊)。
三密を避ける、スティホーム、ソーシャルディスタンスも大事であるが、ウイルスが蔓延してしまった今、何よりも重要なことは、免疫力を上げて感染しても発症しない身体をつくることであると。それを強化する生き方は、がんに克つための上の五か条と同じであると。
著者によれば、コロナもがんも、今の生き方でいいのか?そのままでいいのか?と我々に問いかけているのだそうです。

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「凍」澤木耕太郎

2023年08月20日 | 


連日こちらの最高気温は35℃前後。
あまりにも暑いので、涼しくなりそうな本を読んでみました。

世界的クライマー、山野井泰史・妙子夫妻の、2002年のヒマラヤの難峰ギャチュンカン(7952m)への挑戦を描いたノンフィクション。
過酷な状況下のビバーク、垂直の氷壁の懸垂下降、重度の凍傷、何度も襲いかかる雪崩、いやはや壮絶極まるものです。
天候の突然の悪化で雪崩に遭い、低酸素で二人とも目が見えず、妙子は水も食べ物も受け付けず、肉体も精神も限界の境目を越えていく。
そして妙子は、何度目かの雪崩で、泰史よりも50mも下に吹き飛ばされ、宙吊り状態になる。

「指がカチカチに凍っていく。感覚を取り戻そうと、口に含んで歯で噛む。それでも感覚が戻らないので、岩に手を打ちつける。(中略)一本のハーケンやアイススクリューを打つのに一時間はかかったろうか。四本で四、五時間はかかることになる。一本打つたびに指が一本ずつだめになっていくような気がした。左の小指、左の中指、右の小指、右の中指…。自分は凍傷には強いと信じていたが、今度だけは駄目だろうと思わない訳にはいかなかった。手の指を失うことは、先鋭的なクライミングをするクライマーとしての未来を失うことだった。しかし、今はまず生きなくてはならなかった。妙子が生きている以上、生きてベースキャンプに連れ帰らなくてはならない」

彼らは予定より5日も遅れてなんとか下山するのですが、泰史は両手の薬指と小指、右足の全ての指ほか計10本を切断する重傷を負う。
妙子はその前のヒマラヤ登頂の際、手の指を第二関節から先の10本全てと、足の指8本を切断していたところに、さらに手の指10本すべて付け根から切り落とし、手のひらだけの手になったというのです。
それでも彼らはその後また登山に挑戦し、その5年後にはグリーンランドの高さ1,300mの大岩壁のクライミングをしているのです。

そこまでして何故登るのか?
それはもう、彼らでなければ分からない。
世の中にはこうした人たちもいるのだという驚き。
雪山での壮絶な死闘、屈強な山男も泣いたという手術の様子などを読んで、確かに少し涼しくなったような…

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「朽ちゆく庭」「夜が明ける」

2023年08月08日 | 

「朽ち逝く庭」伊岡瞬著 

「絶対に言えない秘密を抱える家族の行く末とは」こんな帯のコピーを見たら、読まずにはいられない。
中堅ゼネコン勤務の父・陽一は仕事でトラブルを抱え、母・裕実子は勤め先の上司とホテルに、中学生の息子・真佐也は不登校が続く。そんな家庭に、ある日、とんでもない事件が起きる…
学校にも行かず、怠惰な生活を送る息子に最初は苛立ちを覚えますが、終章、息子が一番まともであったことが分かって愕然とします。
下手なホラーよりも怖い、仮面家族の崩壊を綴った物語です。



「夜が明ける」西加奈子著

「書きながら 辛かった」と著者が言うこの小説のテーマは、現代日本に存在する若者の貧困、 虐待、 過重労働です。
15歳の時、 普通の家庭で育った「俺」と、母親にネグレクトされていた吃音のアキは高校で出会い、 共有できることなんて何一つないのに、互いにかけがえのない存在になっていった。大学卒業後、「俺」はテレビ制作会社に就職し、アキは劇団に所属する。しかし、その世界は理不尽に満ちていて、少しずつ、二人の心と身体は壊れていった…
”何かを破壊したくてたまらない。カッターを探す。もう俺の腕は傷だらけだ。こんな腕で仕事が見つかるはずもない。生活費はどうする? 。奨学金の返済は?。頭が締め付けられて、吐きそうになって、それで、スマートフォンを手に取る”
この訴えかけてくるような表紙の絵も、著者が描いたのですって。
イノセントな若者たちが過酷な社会の中で身も心もボロボロになっていく様子に、息苦しくなるような小説です。

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「つぎはぐ、さんかく」菰野江名著

2023年07月30日 | 


裁判所書記官をしている若い女性が書いた小説が、選考員満場一致でポプラ社小説新人賞を受賞したと知って、読んでみたいと思っていました。
惣菜と珈琲のお店「△」を営む24歳の女性ヒロは、晴太、中学三年生の蒼と三人兄弟だけで暮らしている。ヒロが美味しい惣菜を作り、晴太がコーヒーを淹れ、蒼は元気に学校へ出かける。
どうにも不器用で学校ではいじめられ、自分の意見を人前でちゃんと言うこともできないヒロだが、その家は彼女の確かな居場所であり、その生活をずっと守りたいと願っていた。
しかし、遂に破綻が訪れようとする。
”私たちは、やっぱりすぐにやぶれるつぎはぎでしかないのだろうか。”

実はその三人は、血が繋がっていないのです。
三人とも複雑な出自の事情を抱えており、生まれた時から身勝手な大人たちに振り回されていた。
そして惣菜と珈琲のお店「△」は、三人がようやく掴んだ、ささやかな幸せの場所であった。
それが壊されようとしたとき、三人はどう立ち向かっていったか?
”「いっつも食べ物の匂いがしているのっていいじゃん。でも、うちでめし作れるのってヒロしかいないし、おれが作れるようになればなんかいい感じだろ」
「ヒロのおかげって言えばいいだろ、最初から」
なに照れてんだよと春太がつつくと、はあ照れてねえしと蒼がそっぽを向く。
そのやり取りを、小さな箱に入れてしまいたいと思った。箱にしまって、そっととっておきたい。からからと振ったら綺麗な音が聞こえる筈だ。”

親に捨てられ、散々振り回されて傷ついてきた若者たちが、葛藤を乗り越えて自分の脚で歩き出そうとする物語です。
優しい言葉で紡ぎ出され、ある意味童話のようでもありますが、テーマは温かいものです。


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「三流シェフ」三國清三著

2023年07月20日 | 

去年の暮れ、四谷の「オテル・ドゥ・ミクニ」が閉店したという話を聞いて驚きました。
あんなに美味しい人気店だったのに何故?という興味から、自伝的エッセイというこの本を読んでみました。
冒頭で、店をあそこに開いた経緯を知って驚きました。
住宅街の奥の、人が住んでいる家のドアを叩いて、この家を貸してくれと言った、というのです。



四谷の樹木に囲まれたそのお店に、私も昔行ったことがあります。
日記(このブログはまだ始めておらず、mixi日記)を検索してみたら、2006年4月でした。
学習院初等科の裏手の住宅街の中、小さいながらも雰囲気のある洋館です。
そこで「21周年特別記念メニュー」を。
「黒トリュフのパイ包み焼き スープ仕立て ポール・ボキューズ氏が1975年にエリゼ宮のために創作した一品」は、そういえばその後、代官山のメゾン・ポール・ボキューズでもスペシャリテとして頂いたのでした。
以下の写真は、その時の料理の一部です。



著者は、1954年北海道増毛町の貧しい漁師の五男として生まれる。
4人の兄姉たちは全員中卒で働きに出るという家で、小学生の頃から父親の漁を手伝っていた彼自身もそれを当然として、15歳で米屋の従業員として住みこみ、夜間の調理学校に通う。
札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きに無理くり入れて貰い、その後帝国ホテルで修業する。
といっても、村上信夫に憧れて上京した帝国ホテルでは、2年間ひたすら鍋を洗っていただけ。
でもその姿を、村上総料理長は見ていたのですね(無論鍋洗いだけではなく、色々と策を弄するのですが)。
駐スイス日本大使館の料理人に抜擢されるのです。



本格的なフランス料理も、フルコースの料理も作ったことないのに、大使の招く各国の賓客12名の料理を用意しなくてはならない、それがそこでの初仕事だった。
しかし持ち前の機転と、寝る間を惜しむ努力でもって、彼はそれを切り抜け、アメリカ大使に褒められる。
結局4年弱、スイスの日本大使館の料理人を大好評のうちに勤め、その後はフランスのミシュラン三ツ星店あちこちで修行する。
帰国した後、市ヶ谷のビストロ・スカナザの雇われシェフとなり、1985年四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。
まったくお金がなかったのに、自分を担保として、ノリタケや佐々木硝子の社長に売り込んで。

 
「茨城・酒井栗園産有機質栽培栗とコニャック風味アイスクリームのモンブラン」

そして37年間、「オテル・ドゥ・ミクニ」は予約が取れない店として有名となる。
彼は「怒れるシェフ」として有名なようですが、実際、厨房では殴ったり蹴ったりしていたのだそうです。
ビストロ・スカナザを始めて間もない頃、厨房で「おまえらみんな辞めちまえ」と怒鳴り付けたら、本当にスタッフ全員にその場でやめられたこともあったのですって。
私が四谷に行った時にはもう、穏やかなシェフの顔をして挨拶して下さいましたが。
そこを閉店して一旦更地にして、カウンター8席だけの店を作り、自分一人で切り盛りしたいのだそうです。
しかしそこには世界中から客が押し寄せ、値段は恐ろしいものとなり、益々予約なんか取れないでしょうね。
「オテル・ドゥ・ミクニ」に行っておいてよかった…


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「ピエタ」水彩画のような物語

2023年07月11日 | 


ピエタとは、イタリア語で「で「あわれみ」とか「なぐさめ」という意味だそうで、ヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂には、イエスの遺骸を抱くマリアの、その名の有名な像があります。
18世紀、爛熟期のヴェネツィア。慈善修道院ピエタで育てられた主人公エミーリアを語り手として、修道院の音楽教師でもあった大作曲家ヴィヴァルディの死から始まる物語。
ヴィヴァルディの遺品の楽譜を探して、捨て子としてピエタで育ったエミーリアが、貴族の娘ヴェロニカ、高級娼婦のクラウディアなどと出会い、彼女たちの人生そして自分の人生とも向き合うことになる。


不思議な物語です。
よく言えば、水の都ベネツィアで織りなされる、大人の童話のような美しい物語。
悪く言えば、生活臭がまるでなく、例えばベネツィアのあの水の生臭さ、絡みつく湿度、当時あったであろう熾烈な格差意識などはまるで描かれていない。
水の都は確かに夢のように綺麗でしたが、ちょっと旅行しただけでも不自由な点も多々あったのに、透き通った水彩画のように美しく描かれています。
リアリティを書くばかりが小説ではないのですから、それはそれとして、18世紀のベネツィアを舞台に生き生きと暮らす女性たちの物語を楽しむことができます。
2012年本屋大賞候補第3位。


「クラウディアさんは少し考え、身分や権威など幻だと思っているところかしら、とわたしに訪ねた。それとも、腐りかけたヴェネツィアの匂いを嗅ぎつけているところかしら。だったらここから出て行けばいいものを、わたしはヴェネツィアを離れられない。愛しているから、この街を。その人もきっとそうなのね。この街には、ベネツィアという籠から出られない小鳥がたくさんいる。」


水の上に造られた神秘的な街。
自動車はおろか、自転車もバイクも使えない不便な街。
ヴェネツィアは、温暖化で2100年までに沈んでしまうという説もあるようです。
人類の遺産として、あの美しい水の都はいつまでも存続して欲しいものです。

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「同志少女よ、敵を撃て」

2023年07月03日 | 


2022年本屋大賞、第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞。
モスクワ近郊の農村に暮らす18歳の少女セラフィマの日常は、1942年のある日、一変する。ドイツ兵に母を銃撃され、村人は皆殺しにされる。自身も暴行、殺される寸前だったところを、赤軍の女性兵士に助けられる。セラフィマは狙撃手となり、母親の復讐、ナチズムへの復讐への闘いに挑む日々を送る。ある日、淡い初恋の相手だった同じ村出身のミハイルに再会するが、彼は砲兵曹長となっていた。


ソ連に実在し、第二次世界大戦において300人のナチス兵を倒したという女性スナイパー、リュドミラ・パブリチェンコをヒントに書かれたという小説です。
アニメのような表紙といい、煽情的なタイトルといい、ライトノベルっぽいのかと思いましたが、中々どうして読むのに辛い内容。
爆弾を身体に巻き付けられ、敵戦車に飛び込む訓練を受けた犬が出て来る。
”劣等スラヴ民族の人口削減を奉じ、降伏を許さない枢軸軍に包囲され、計画的な飢餓により100万の市民が餓死、凍死し、親兄弟がその死肉を食らう極限の都市”レニングラードの惨状。
スターリングラード、クルスク、ケーニヒスベルグでの熾烈な戦い、殺し合い、略奪、暴行、拷問。
そしてラスト近くでの怒涛の展開、何と残酷なミハイルとの再々会。


”自分は女性を守るためにここまで来た。女性を守るために戦え、同志セラフィマ。迷いなく敵を倒すのだ。
私はお前のようにはならない。お前のように卑怯には振る舞わない。私は、私の信じる人道の上に立つ。
同志少女よ、敵を撃て。
まるで渦潮が船を呑むように、セラフィマの感情は収斂し、左手に感覚が戻り、狙撃手の持つ一筋の殺意と化して、彼女の操るライフルは、赤軍兵士たちの頭に照準線を合わせた”


今現在、ウクライナでもこのようなことが行われているのか。
この表紙に惹かれてでも若い人たちがこの本を手に取って、戦争の理不尽さ、残酷さに少しでも触れてくれたらと思います。

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