goo blog サービス終了のお知らせ 

Zooey's Diary

何処に行っても何をしても人生は楽しんだもの勝ち。Zooeyの部屋にようこそ!

臭くて暗くて絶望的な「侍」

2017年12月15日 | 


伊東マンショの肖像画に触発されて、遠藤周作の「侍」を読んでみました。
ごく若い頃、学生時代に読んだ筈なのですが、詳細は綺麗に忘れて
臭くて暗くて絶望的だったというイメージしか憶えていない。
再読しても、やはり同じ印象を受けました。
”湿った藁の臭いは宣教師の坐っている牢獄にも充満していた。
その臭気には今までここに入れられていた信徒たちの体臭や尿の臭いも入り混じり、それが時折つよく鼻を刺した。”
などという描写がどうも心に残る。
やれやれ私の感受性、加齢しても同じということか。

1613年に伊達政宗によって送られた慶長遣欧使節団の実話を基にした歴史小説。
宣教師ルイス・ソテロと支倉常長がモデル。
藩主の命によりローマ法王への親書を携えて、「侍」は海を渡った。
あの時代に何か月もかけて太平洋を渡り、メキシコ、スペイン、バチカンに赴く。
大洋では何度も嵐に見舞われ、メキシコの砂漠や高山、或いはスペインの原野をひたすら歩き、
スペイン国王、ローマ教皇に謁見するために、不本意ながら洗礼まで受けるが
藩が望む貿易交渉は成立しなかった。
失意のうちに7年という月日をかけて帰国すると、日本は鎖国に方針転換、
キリシタンは御法度となっていた。
使節団の苦労はすべて「なかったこと」にされ、あろうことか受洗の罪を問われることになる。

野心と闘争心に燃える宣教師と、すべてを受け入れ、主君の為に困難な旅を続ける侍。
対照的であるが、何一つ叶わず、何一つ報われなかったという結果は同じ。
失意と喪失感のうちに、宣教師は火あぶりの刑に、侍は切腹の刑に処せられる。
最後にその侍の背中に、先に受洗した忠実な使用人が声をふりしぼる。
”「ここからは…あの方がお供なされます」
侍は立ち止まり、ふりかえって大きくうなずいた。
そして黒光りのするつめたい廊下を、彼の旅の終わりに向かって進んで行った”

「主は汝と共に、汝の霊と共に、あれよかし」
これがクリスチャンであった著者の最大のテーマか。

ちなみに、伊東マンショ達少年使節団については、宣教師の言葉として
”かつてペテロ会のヴァリニャーノ管区長が、乞食にも等しい少年たちを貴族の子供と偽り、
使節としてローマに送ったが、向うでは誰にも怪しまれることはなかった”
という描写があるだけでした。

「侍」 https://tinyurl.com/y9uvzkxr
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金魚とねずみ

2017年10月23日 | 


五味太郎の「きんぎょがにげた」が切手になって、12月に発売されるのですって。
懐かしいなあ。
可愛い赤い金魚が、カーテンやキャンディの瓶、オモチャ箱の中など、
部屋の中のあちこちに逃げ込むのです。
息子たちが小さい頃、どんなに夢中になって金魚を探したことか。
この切手はしかも、ポップで可愛い絵本のテイストを見事に表している。
なんと金魚型の切手まである!
この本を始め、息子たちに読み聞かせた絵本の殆どは処分してしまいましたが
どうしても手放せない1冊があります。



「おかあさんがあんでくれた ぼくのチョッキ
ぴったりにあうでしょう」
と、ねずみ君が得意げな顔で登場します。
すると
「いいチョッキだね ちょっときせてよ」
と、アヒル君が。
次にはサル、アシカ、ライオンと次々と動物が登場して
そのチョッキを着てみます。
人のいいねずみ君は断ることができない。
最後には、ゾウが…



ゾウが着たあとのチョッキはただのヒモとなってしまい、
最後のページは、そのヒモを引き摺った、しょんぼりとしたねずみ君の後姿。
そこに、我家の長男のたどたどしい文字があります。
「おかあさんが せさつ(せっかく)あんでくれたのに くしゅん。」
長男が4歳の時だったか。

これだけは捨てられない、私の宝物です。

「きんぎょがにげた」切手発売 http://tinyurl.com/yajaedb2
「ねずみくんのチョッキ」 http://tinyurl.com/ya6emuwt
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月とノーベル賞

2017年10月06日 | 


カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を取られたニュースで、昨夜は大騒ぎ。
私は別に大フアンではないけれども
普通に楽しんで読んでいた本の作者がノーベル賞を取ったという、珍しい例です。
今までの海外のノーベル文学賞受賞者は、馴染みのない、取りつきにくい作家という感じが多かったので。

「日の名残り」「わたしを離さないで」以前、本を読んでから映画を観ました。
どちらも、本の世界をそのまま映像化することに成功した珍しい作品であると言えると思います。
原作を読んでから映像を観ると、失望することが多いのですが。
「日の名残り」は、英国の落ちぶれた貴族屋敷の内情、その誇りや物悲しさを、
日本人(正確には彼はイギリス人ですけれど)が描き上げたということに驚きました。
「わたしを離さないで」は、本を読んだとき私が入り込めなかった世界、
そのもどかしさが、映画の中にもそのまま存在したという感じでした。
「わたしを…」についてはこちらに書いています。
http://blog.goo.ne.jp/franny0330/e/8ba35b68065962bb47f763cdc3264d53

こちら、我家のバルコニーから見た中秋の名月です。


コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「怖い絵」のキュクロプス

2017年09月30日 | 


中野京子著「怖い絵」の中で、私が一番打たれたのは
ルドンの「キュクロプス」でした。
花咲く野に、裸身の若い女性が眠っている。
背後の岩山から、それを単眼の巨人が覗き見る。
一体この絵の何処が怖いのか?

この本にはゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」といった、
目を見開いた半狂乱の男が、血まみれになって子供を頭から食べているような
おぞましいまでの怖い絵ばかり集められているのです。
こんな優しいパステル調の色合いの、マヌケなようにも見える一つ目の巨人の絵の
何処が怖いの?

本著によると、キュクロプスというのは単眼の醜い巨人たちの総称で
醜さゆえに父親に疎まれ、長く地底に閉じ込められたのだそうです。
この絵の主人公ポリュペモスは、美しい海のニンフ、ガラテアに恋をするが
彼女には恋人がいて、まるで相手にして貰えない。
結局ポリュペモスはその幼児性ゆえに、ガラテアの恋人を殺してしまう。
一体なぜルドンは、報われない愛の悲劇性を表現するのに
幼児的ポリュペモスというイメージを使ったのかと著者は問いかけている。

19世紀に生まれたルドンという人は、生後僅か2日で里子に出され、
古い屋敷で親に顧みられないまま、11歳までを過ごしたのだそうです。
どんな事情があったのか分からないが、両親の下で愛情深く育てられた兄と違って、
自分は母親に疎まれたのだと、彼は思っていたらしい。
ようやく自分の家に帰ることを許されたのちも、親に愛されているという確信を
持てないままに成長したのだそうです。

親に嫌われて地底に追放されたポリュペモスと同じように、母に流刑されたと
ルドンは感じていたのではないかと、著者は言っている。
そして、ポリュペモスへの優しい共感を持ったこの絵が描けたということが
ルドンに自己客観視ができた証であり、これを描くことでようやく辛い幼年時代を
克服したのではないかと。
そしてこれを描いたのが58歳の時であるということが、傷ついた心を癒すのに
いかに長い時間を要したかを表していると。

勿論これは中野氏の持論であり、この絵から違うメッセージを受け取る人もいるでしょう。
でも私は、このいびつな、なんとも悲し気な顔をした巨人の顔から
氏の意見に、大きく頷いてしまったのでした。
歪んだ巨大な一つ目が、親の愛情を求めて見開かれているようです。
子供の頃の記憶が一人の人間の人生を支配してしまうと思うと、本当に怖い…

「怖い絵」 http://tinyurl.com/ycllzjtn
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「蜜蜂と遠雷」タイトルの意味は…?

2017年05月23日 | 


昨年度の直木賞と本屋大賞のW受賞。
”ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説”
(本書の帯より)

養蜂家の父とともに各地を転々とし、自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳。
かつて天才少女として騒がれたが、母の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳。
音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンで、コンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳。
完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・アナトール19歳。
この4人が挑む、 第1次予選から本選までおよそ2週間に渡るピアノ・コンクール、
その間の悩み、挫折、成長の様子を描き上げたものです。

本書を読む前、この題名についていささか不満がありました。
「ミツバチと遠雷」「ハチミツと雷鳴」なんだっけ?
本の題名といえば、言うまでもなくその看板であるのに、なんて紛らわしい、
印象に残りにくい題名をつけるのだろう?と。
その意味を探すような思いで読み進めました。

冒頭「エントリー」の中に、こんな文章があります。
”明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。
そして、世界とは、いつもなんという至上の音楽に満たされていたことだろう。”

重要な登場人物である風間塵は「蜜蜂王子」とも呼ばれており、
蜜蜂という言葉は本書の中に何度も登場するのですが
「遠雷」という言葉は一度も出て来ない(多分)。
第三次予選の前、塵が亡き恩師ホフマンからの「音楽を連れ出せ」という宿題に悩み、
冬の雨の街を彷徨い歩くシーンがあります。

”塵は空を見上げる。
風はなく、雨は静かに降り注いでいた。
遠いところで、低く雷が鳴っている。
冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。
稲光は見えない。”

「遠雷」に一番近い言葉が出てくるのはここかな。
してみると、蜜蜂は塵、そして遠雷は恩師ホフマンを表しているのかもしれません。
或いは、もっと大きなもの、天命のようなものか。

「世界は音楽で満ち溢れている」
本書の中に何度も出てくる言葉です。
こちらの大きなテーマであるのでしょうけれど
私は亜夜の、この言葉に一番感じ入りました。
”たゆたう時の流れの底に沈んでいるさみしさ、普段は感じていないふりをしている、
感じる暇もない日常生活の裏にぴったりと張り付いているさみしさ。
たとえ誰もが羨む幸福の絶頂にあっても、満たされた人生であったとしても、
すべての幸福はやはり人という生き物のさみしさをいつも後ろに背負っている。”

公式HP http://www.gentosha.jp/articles/-/7081
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「騎士団長殺し」(ネタバレなし)

2017年02月26日 | 


金曜日に発売された、春樹4年ぶりの長編。
週末の楽しみにしようと思っていたのに、土曜の夜には読み終わってしまいました。
ネタバレするわけにはいかないので、感想ではなく、簡単な印象のみ記します。

「その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。
夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた・・・
それは孤独で静謐な日々であるはずだった。
騎士団長が顕れるまでは。」(『騎士団長殺し』第一巻の背表紙より)

顔を持たない男から肖像画を描くことを頼まれるという
不可思議な話から、プロローグが始まります。
謎に巻き込まれる主人公、ベッドシーン、お洒落な(或いは不可解な)登場人物たち、
イデア、メタファー、孤独、異次元の世界、そして謎。
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「ねじまき鳥クロニクル」と
少々似通ったところがあり、鼠や羊男が現れそうな気がします。
が、無論そんなものは現れず、代わりにオムレツやローストビーフ、チーズトースト、ザッハトルテなど
美味しそうなものがあちこちに。
モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』やシュトラウスの『ばらの騎士』は
重要な舞台装置として登場します。
クラッシック音楽に飽き足らず、ローリング・ストーンズやセロニアス・モンクやヒューイ・ルイスなども。
相変わらず小物使いが上手いなあ。
小田原のゴミ収集車の音楽が「アニーローリー」だとは知りませんでした。

私は春樹の作品は、理解しようとはハナから思っておらず、
ただ楽しみたい、その心地よい空間にちょっとお邪魔させて下さいという
スタンスで臨んでいるような気がします。
好きな作家の分厚い新作を抱えた週末の夜の幸福感は、何物にも代えがたい。
その分、読み終えた後の寂しさも中々のものですが…

「騎士団長殺し」 http://www.shinchosha.co.jp/harukimurakami/
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「コンビニ人間」

2016年12月13日 | 


本年度芥川賞受賞作。
大学以来18年間コンビニのバイトとして働く、彼氏ナシの36才の恵子が主人公。
子どもの頃から他人とは感性が違い、生きにくさを感じていたが
コンビニのバイトとして、そのマニュアル通りの動作、話し方をしてみたら
初めて自分の居場所を見つけたように感じる。

「そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。
私は、今、自分が生まれたと思った。
世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。」

以来18年間、恵子はコンビニのバイトを続けているのですが
彼女を取り巻く周りは、何故ちゃんと就職しないのか、何故結婚しないのか、
何故普通でないのかと彼女を問い質す。
ところがどんなに非難されようとも、主人公はまったく動じないのだった。
恵子は、普通でありたいとも、そうでないことが恥ずかしいとも
これっぽっちも思わないのだから。
そこに現れたダメ男白羽を、世間への隠れ蓑に彼女は使おうとするのだが…
この新人バイトの白羽というのが、どうしようもないクズなのです。

コンビニで働く人たちを「底辺」と見下し、
自分はそのコンビニの仕事さえちゃんとやらない。
「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。
何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。
性行為の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』
なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは!
誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、
皆が僕の人生を簡単に強姦する」

自意識の極端に薄い恵子と、自意識のカタマリのような白羽。
被害者意識に押しつぶされそうになって恵子を責め立てる白羽と
何処までも冷めた恵子とのやりとりが、なんとも滑稽。

普通じゃないものを認めようとしない普通の人たち。
「異質」を排斥しようとする「普通」の暴力性。
この辺りのアイロニーはうまい!と思ったのですが
残念ながら私はあまりに普通すぎて(多分)、
そこまで面白いとは思えなかったのでした。

「コンビニ人間」 http://tinyurl.com/jmxcrov
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「東京ブルース」って…

2016年11月21日 | 


六本木ABBYROADに行ったことに始まって、「ノルウェイの森」に関する
ゴタクをあれこれ並べて来ましたが、そのラスト。
私はやっぱり、ビートルズと村上春樹が好きなのだと思います。

しかし、春樹のデビュー作からずっと読んでいた自分としては
あの大衆受けを狙って書かれたような「ノルウェイの森」を好きだとは
あまり大きな声で言いたくないのです。
春樹の作品はこれしか読んでいないという人たちも多い中で
羊男もリトルピープルも二つの月も出て来ない、やたらすぐに異性と寝たり、
やたら死んでしまう登場人物たちの「100%恋愛小説」(これは本の帯につけられたキャッチコピーで、
春樹は本当は100%リアリズム小説と書きたかったと何処かで言っていましたが)を
好きだというのはどうも気恥ずかしい。



今回、記事を書くために「Norwegian Wood」を色々検索してみたところ、
「ノルウェイの森」のタイトルが、海外では違うこともあると知りました。
イタリア、スペインではなんと「TOKYO BLUES」。
フランスでは「La Ballade de l'impossible」(ネット辞書によると「不可能のバラード」)。
ドイツでは「Naokos Laecheln, Nur eine Liebesgeshichite」。
(「ナオコの微笑、ひとつの貴重な歴史」といったような意味らしい)



「東京ブルース」…
なんともはや。
でも私が持っている英語版(上の写真)よりも、表紙はマシかも。
表紙はやはり、赤と緑の無地、シンプルな日本版が私は好きです。
最後にビートルズの「ノルウェイの森」の動画と歌詞を貼ります。



I once had a girl, or should I say she once had me?
She showed me her room, isn’t it good, Norwegian wood?
She asked me to stay and she told me to sit anywhere,
So I looked around and I noticed there wasn’t a chair.
I sat on a rug, biding my time, drinking her wine.
We talked until two and then she said “It’s time for bed”.
She told me she worked in the morning and started to laugh.
I told her I didn’t and crawled off to sleep in the bath.
And when I awoke I was alone, this bird had flown.
So I lit a fire, isn’t it good, Norwegian wood?

上二つの写真はamazonから頂きました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「捕まえようとすれば逃げてしまう」春樹と「ノルウェイの森」

2016年11月20日 | 
先の「ノルウェイの森」の誤訳問題について書いて思ったのは
村上春樹氏はそれについてどう考えたのだろう?ということです。
世界的に大ヒットした小説「ノルウェイの森」。
陰鬱な雨模様のハンブルク空港に着陸した飛行機のBGMで「ノルウェイの森」が流れ、
37歳の僕は、20歳の頃の草原の匂いを思い出し、激しく混乱する。
こんな書き出しで始まるこの小説は、私に言わせれば春樹の作品の中では異質な存在で
あまり好きではないのですが、そう言いながら何度読み返したか分からない。
で、英語に堪能な春樹が、何を思ってこういう題をつけたのだろう?と。

ネットで探したら出て来ました。
2011年発刊の春樹の「雑文集」という本の中で言及しているらしい。


(2009年に行ったリバプールのCavern Club)

"翻訳者のはしくれとして一言いわせてもらえるなら、Norwegian Woodということばの正しい解釈はあくまでもNorwegian Woodであって、それ以外の解釈はみんな多かれ少なかれ間違っているのではないか。歌詞のコンテクストを検証してみれば、Norwegian Woodということばのアンビギュアスな(規定不能な)響きがこの曲と詞を支配していることは明白だし、それをなにかひとつにはっきりと規定するという行為はいささか無理があるからだ。それは日本語においても英語においても、変わりはない。捕まえようとすれば、逃げてしまう。もちろんそのことば自体として含むイメージのひとつとして、ノルウェイ製の家具=北欧家具、という可能性はある。でもそれがすべてでない。もしそれがすべてだと主張する人がいたら、そういう狭義な決めつけ方は、この曲のアンビギュイティーがリスナーに与えている不思議な奥の深さ(その深さこそがこの曲の生命なのだ)を致命的に損なってしまうのではないだろうか。それこそ「木を見て森を見ず」ではないか。Norwegian Woodは正確には「ノルウェイの森」ではないかもしれない。しかし同様に「ノルウェイ製の家具」でもないというのが僕の個人的見解である。"

"この、Norwegian Woodというタイトルに関してはもうひとつ興味深い説がある。ジョージ・ハリスンのマネージメントをしているオフィスに勤めているあるアメリカ人女性から「本人から聞いた話」として、ニューヨークのパーテイーで教えてもらった話だ。「Norwegian Woodというのは本当のタイトルじゃなかったの。最初のタイトルは"Knowing She Would"というものだったの。歌詞の前後を考えたら、その意味はわかるわよね?(つまり、"Isn't it good, knowing she would?)彼女がやらせてくれるってわかっているのは素敵だよな、ということだ)でもね、レコード会社はそんなアンモラルな文句は録音できないってクレームをつけたわけ。ほら、当時はまだそういう規制が厳しかったから。そこでジョン・レノンは足跡で、Knowing She Wouldを語呂合わせでNorwegian Woodに変えちゃったわけ。そうしたら何がなんだかかわかんないじゃない。タイトル自体、一種の冗談みたいなものだったわけ」。"
(村上春樹「雑文集」から)


(同じくリバプールのストロベリーフィールドの門)

Norwegian Woodは、春樹にとってはあくまでもNorwegian Wood。
これが結論か。
確かに彼の作品のタイトルは、歌の題名からそのまま取ったのも多いのです。
私は春樹の評判になった本は殆ど読んでいたつもりでいたのですが
「雑文集」という題名が気に入らなくて、これは買っていなかったのでした。

こちらを参考にさせて頂きました。
「ノルウェイの森」誤訳問題について http://yagian.hatenablog.com/entry/20110424/1303634272
【ノーベル賞残念対談】内田樹×平川克美「なぜ世界中の人が村上春樹の小説にアクセスするのか」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33810?page=4
村上春樹「ノルウェイの森」という題名について http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8097535.html

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ホテルローヤル」

2016年09月23日 | 


この小説が3年前に直木賞を取った時、著者の桜木氏の実家がラブホテルを経営しているということが
少々話題になったように思います。
その時私は、全国にあるラブホテルに経営者がいて家族があるという当たり前のことに
初めて気がついたのでした。

ホテルローヤルは、北国の湿原を背にするラブホテルです。
経営が破綻し、廃墟となったそのホテルの一室から話は始まり、
一山当てようとそのホテルの建設に乗り出す過去の日まで、逆再生されて行く。
その年月に、ホテルを舞台とした様々な人の人生が交錯する。

そこには満ち足りた人は一人もいないのです。
経済的に、或いは精神的に追い詰められた人々。
恋人から投稿ヌードの撮影に誘われ、”お互いの空洞を埋め合った上、さらに大切に
してほしいというのは過ぎたる望みなのだろう”と思う女事務員。
貧乏寺の維持のために檀家たちと肌を重ねる、”自分の容姿が十人並みに届かぬことを
ずいぶんと幼い頃から知っていた”住職の妻。
妻に20年来浮気されている高校教師と、親に見捨てられた”成績は38人中35番”の女子高生。
”朝から夜中まで握り飯三つで働いて月に十万円弱”の60歳になるホテル清掃係の女性。

その清掃係の女性ミコの話「星は見ていた」。
”一生懸命に体動かしてる人間には誰もなにも言わねぇもんだ”という親の言葉を拠り所に
ひたすら働き続けた彼女の人生。
”そもそも自分の感情というものがミコにとっては不可思議な沼のようなものなのだ。
親が死んだときも、子供を流した時も、泣いた記憶というのがなかった。
泣いても笑っても、体を動かさねばならない毎日は続く。”
その彼女の次男が犯罪に手を染めて逮捕されたと知った時、
”冬支度を終えた林のにおいを嗅いでいると、なにやらふるふると目から温かいものがこぼれ落ちてくる”
この話は泣けたなあ…

誰もかれもが悲しい。
舞台はラブホテルですが、描かれているのは性愛ではなく、
愚直に生きる人々の孤独であり、挫折感であり、悲哀なのです。
読後感は決して良くはありませんが、心に静かに沈殿します。

「ホテルローヤル」 http://tinyurl.com/jraenb3
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする