goo blog サービス終了のお知らせ 

Zooey's Diary

何処に行っても何をしても人生は楽しんだもの勝ち。Zooeyの部屋にようこそ!

「太陽の棘」原田マハ

2019年09月01日 | 

サンフランシスコの心療内科のオフィスで、老精神医エド・ウィルソンは
壁に掛けられた海の絵を観ながら、半世紀以上前の沖縄での日々を思い出していた。
彼は若い頃、太平洋戦争終結直後の沖縄へ軍医として派遣された。
幼い頃から美術を愛し、自らも絵筆をとる心優しいエドは、精神を病んだ兵士を診る傍ら、
愛車を乗り回して憂さを晴らし、ある日不思議な場所に辿り着く。
「ニシムイ・アートヴィレッジ」と名付けられたそこは、みすぼらしい掘立小屋の集まりだが
誇り高い沖縄の若き画家たちが集まった美術の楽園であった。
その出会いが彼らの運命を変えて行く…

凄惨を極めた沖縄の地上戦。
終戦直後も食糧難、物資の欠乏、米兵による暴行と、厳しい受難は続く。
そうした中で良家の息子であるエドは、軍医としての任務に携わる傍ら、
本国の親から送られた真っ赤なオープンカーに乗って休日にドライブする。
彼の愛車ポンティアック1948シルバーストリークというのは、こんな感じらしい。



彼に悪気はなくても、住む家も破壊され、その日の食べ物にも事欠く沖縄の人々が
そのこと自体に傷つけられたことは想像に難くない。
そしてそうしたことは、彼らの友情が続く中にも多々起きるのです。
悪気がなくてもどうしようもなく傷つけることが、あるのですね。


しかし貧しい沖縄の画家たちは、決して卑屈にならなかった。
そして彼らの類いまれなる才能をエドは素直に認め、彼らの絵を買い取り、
本国から絵の具などの材料を取り寄せては彼らに与えるのです。
そして同時に、彼らからは量り知れない芸術への情熱を受け取るのです。
画家の一人ヒガが米軍少佐から受けた残酷な仕打ちは、沖縄の悲劇を象徴しているのかも。
しかしそれを乗り越えようとする人々の力強さ、
芸術の力の重み、そして友情のあたたかさを、この本全編から感じ取りました。



読み終わった後に調べて分かったのですが
「ニシムイ・アートヴィレッジ」というのは戦後の沖縄に実存した芸術村で
この本の表紙の表も裏も、そこで描かれた実際の絵なのだそうです。
表紙は精神科医エドの顔。凛として意志の強そうな、しかし優し気な眼差し。
裏表紙はそれを描いた画家タイラの自画像。丸い眼鏡の奥の強い意志をたたえた眼。
エドが本国に持ち帰って大事に保管していた絵を借りて
こんな風に近年にも展覧会が行われたのだそうです。




本書の序文。
”「私たちは、互いに、巡り合うとは夢にも思ってなかった」
None of us was preparedto meetースタンレー・スタインバーグ”
このスタンレー・スタインバーグ医師こそが、エド・ウィルソンその人だったのですね。
読み終わってすべてが腑に落ちました。


太陽の棘」 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「武士の娘」

2019年08月13日 | 

1873年(明治6年)、越後長岡藩の家老の家に生まれた杉本鉞子(えつこ)は
武士の娘として厳格に育てられ、結婚によりアメリカに住むようになっても
「武士の娘」としての矜持を失うことはなかった。
これは、大正時代に米国の雑誌に英文で連載された彼女の自叙伝です。
連載後の1925年にアメリカで出版されて人気を博し、7ヵ国語に翻訳されたといいます。

武士の娘として育てられたということが具体的にどういうことなのか、
興味を持って読み始めたのですが、中々に面白い。
著者は幼い頃より歴史や文学、仏教、漢籍、生け花や裁縫などを教えられていたが、例えば、その漢籍を教えられている時の様子。
”お稽古の2時間の間、お師匠様は手と唇を動かす外は、身動き一つなさいませんでした。
私もまた、畳の上に正しく座ったまま、微動だも許されなかったものでございます。唯一度、私が体を動かしたことがありました。どうしたわけでしたか、落ち着かなかったものですから、ほんの少し体を傾けて、曲げていた膝を一寸ゆるめたのです。
すると、お師匠様のお顔に微かな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じ、きびしい態度ながらやさしく、「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。お部屋に引き取って、お考えになられた方がよいと存じます」とおっしゃいました”

やがて著者は12歳で兄の友人、アメリカで日本骨董の店を営む松雄と婚約。
東京の女学校で4年間英語を学んだ後、渡米してシンシナティのウィルソン家に身を寄せ、やがてその親戚筋の家で、そこの未亡人「アメリカの母上」と共に新婚生活をスタート。
二人の娘に恵まれ、平穏に暮らしていたが、12年後に夫が急死して帰国。
数年間日本で暮らした後、アメリカを懐かしがる娘たちを連れて再び渡米、そこで生活のために書かれたのが本書だった訳です。

アメリカで鉞子が身を寄せたウィルソン家というのは地元の名家であり、
その親戚筋の未亡人という人も、大きな家でメイドや下男を使っている。
なので
”朝食を終わると「母上」は裁縫や編物を、私は新聞を手に、そこに出るのでした。おそばの小さい安楽椅子に陣取って英語の勉強のために私は毎日新聞を読み、解らぬ所々を教えて頂きました”
という、優雅な生活であったようです。
しかし、いかに金持ちであろうと教養があろうと、人が一緒に暮らせば(しかも異国の人と)
様々な摩擦が起こるのではないかと私などは思ってしまうのですが、
鉞子の文章は、この人への感謝の思いに満ち満ちているのです。
「我を捨てる」という教育が染み渡っているので、不満など持たないのかしら?

その時代に日本からアメリカに行けば、さぞかし文化も違って戸惑ったことと思うのですが、鉞子は些かも卑屈になることがない。
アメリカの主婦たちが家計を任されておらず、例えば教会への寄付金も自分の裁量ではままならず、身なりの良い、上流夫人のように見える女性が、夫のポケットからこっそり調達したと言うのを聞いて、なんと浅ましい、恥ずかしいことと胸のうちでこっそり批判しているという具合です。

著者の祖母が語ったというこの言葉が、武士の娘としての教えをすべてを語っているようです。
”「住むところは何処であろうとも、女も男も、武士の生涯には何の変わりもありますまい。
御主に対する忠義と御主を守る勇気だけです。
遠い異国で、祖母のこの言葉を思い出して下され。
旦那様には忠実に、旦那様の為には何ものをも恐れない勇気、これだけで。
さすればお前はいつでも幸福になれましょうぞ」”

この本は英語で書かれた原作を翻訳されたものですが
翻訳者大岩美代の後書きによると、原作者本人と毎週読み合わせをしながら作業を進めたとあり、原作とのニュアンスの違いの心配は不要のようです。

「武士の娘」 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「バーナード・リーチ日本絵日記」

2019年08月04日 | 

先週読んだ原田マハの「リーチ先生」、些か気になる所があって
実際にバーナード・リーチの日本での心情はどんなだったのかとの思いから、
「バーナード・リーチ日本絵日記」を読んでみました。
昭和28年、19年ぶりに日本を訪れた彼の日本滞在記。
原文は英語で書かれ、翻訳は柳宗悦です。
2年足らずの間に日本各地を訪れて講演、陶作活動を積極的に行い、
柳宗悦、濱田庄司、棟方志功、志賀直哉、鈴木大拙らと交遊を重ねた様子が子細に書かれています。

戦後日本の文化の混乱への、手厳しい批判も随所にあります。
街中に溢れる低級な音楽、無秩序なネオンや広告、まがいものの西洋建築。
”こんな山村でさえ、日本の婦人がみんな洋服を着て、まっすぐな黒髪にパーマをかけ、一日中働きながら、日本式ジャズという外国音楽に耳を傾けるとは、いったいどういうことなのか?
確かに奥床しい日本らしさの感情が失われて、日本自体の魂、生まれながらの権利が無視され、方向が変えられてしまったのだ”
”すべてがめちゃめちゃであべこべであり、本当の日本の「内面」などは全然ないーちょうど、まがい物の漆器に観られる陳腐な日本的意匠の、最も薄っぺらな虚飾そっくりだ”
という具合。
でも全体的には、日本文化への尊敬と愛情、藝術仲間への友人との友情、
自分を温かく迎えてくれる日本人への感謝の気持ちで溢れていました。

一番驚いたのは、
「リーチ先生」で架空の存在だと思っていた「亀之助」が出てきたこと。
”今日はまた思いがけないことに亀ちゃん(森亀之助)の従妹が私を訪ねてくれた。彼女が語る所によると、私たちは40年前に彼女の家を訪ねたことがあるという。彼女はまた亀ちゃんが肺病で彼の父親の家で息を引き取ったことを話してくれた。
気の毒な亀ちゃん!君の人生の目的はなんだったのだろう。
かつて君がまだ十三歳の頃、私のエッチング画の載っている新聞を片手に握りしめ、ぜひ私の弟子か下働きにしてくれと頼みにやって来なかったら、君の一生はもっと幸福だったのではなかろうか。
彼はいつも「そうじゃない」と言っていた。
あの頃私にもっと洞察力と将来への見通しがあったら、一文無しの子供が外国人のもとで藝術の修業をするということは、彼の将来をただ困難にするだけだということがきっと分かったに違いない。しかし、それに気が付いたのはその後二、三年してからで、時すでに遅かったのだ。
私は当時、その結果が早発性痴呆症やこのような孤独や失敗をもたらそうとは夢にも考えなかった。
亀ちゃんは藝術を愛し、ウィリアム・ブレークやセザンヌやゴッホを愛した。
そして、精神病院に引き取られる前には、うまい絵を何枚か描いた。
可哀想な亀ちゃん!”

亀之助が出て来るのはここだけ。
他には何の説明もありません。
この本の終りの方に、金沢の美術学校長である森田亀之助が筆者のもとを訪れ、二人の若い頃の思い出を語りに語ったとありますが、それはまた、全く別人であるようです。
原田マハは上の文章から触発されて「リーチ先生」に出て来る亀之助を生み出したのかしら?
謎です。

バーナード・リーチ日本絵日記

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原田マハ「リーチ先生」

2019年07月28日 | 

(バーナード・リーチ 岸田劉生)

バーナード・リーチは明治42年にイギリスから初来日、日本の陶芸に魅せられて
第七代尾形乾山の名を免許されるまでになった陶芸家。
そのリーチの生涯を、日本人の陶工父子の視点から描いたアート小説。


1954年、大分の小鹿田を訪れた陶芸家バーナード・リーチと出会った見習い陶工の高市は、
亡父・亀乃介がかつて彼に師事していたと知って驚く。
時は遡り明治末期の1909年、食堂で働く少年亀之助は貧しく学もないが芸術に憧れ、
日本の美を学ぼうと来日した青年リーチの助手になる。
リーチは柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と熱い友情を交わし、才能を開花させ、
日本とイギリスの芸術の架け橋となって行く。



架空の人物を登場させて、その視点から著名な芸術家の生涯を描くという、
原田マハお得意の手法です。
今回の架空の人物は高市・亀之助父子。
面白くて一日で読了しましたが…

貧しい亀之助が、ひょんなことからリーチと知り合って彼の助手となり、
一緒に過ごした10年余が、物語の中心です。
日本の美術に興味があるというだけで、言葉も喋れないリーチが日本に来て
どうやって日本の陶芸を学び、社会に溶け込み、友人を作って行ったか。
美術に何の素養もない亀之助が、どのようにリーチの人生に関わって行ったか。
そういった辺りを巧みな描写で一気に読ませます。


(リーチ作)

惜しむらくは、登場人物が善人ばかりすぎる。
才能に溢れた人間が現れれば、嫉妬する人間も出て来るだろうし、
どんな良い人であろうと10年も一緒に暮らして、何の衝突もなかったとはとても思えない。
今から100年も前の時代、異文化に接することの戸惑いや困惑も多かったでしょうに
そうしたことにまるで触れられていないのが少々残念ですが
美術への情熱の熱さ、師弟愛のあたたかさには泣かせられます。
美術工芸史エンターテイメントとしては、一級の作品です。


「リーチ先生」 https://tinyurl.com/y2pubwot


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ガラスの城の子どもたち」

2019年07月27日 | 
先日観た映画「ガラスの城の約束」の原作を読んでみました。
「ニューヨーク・マガジン」の人気コラムニストのジャネット・ウォールズが
衝撃的な自身の半生を赤裸々に綴り、全米ベストセラーとなった作品。
2006年、アメリカ図書館協会アレックス賞を受賞。


365ページの長編で、2時間の映画では描き足りなかった詳細を知ることができました。
思った通り、映画よりも酷い生活実態が克明に。
両親の育児放棄ぶりは凄まじく、4人の子供たちはろくに食べ物も与えられない。
学校にお弁当を持って行くこともできず、ランチの時間にはトイレに隠れ、
級友のお弁当を盗み食いしたり、学校のゴミ箱から食べ残しを漁っていたと。
お風呂にも入れず、洗濯もして貰えず、そんな子供たちは学校でも散々苛められる。
しかし子供たちは親に一言も相談せず、自分たちだけで耐え、或いは闘って行く。


一家があちこち放浪した末に(借金取りから逃げ回っていたともいえる)、
父親の故郷、ウエストバージニアのウエルチに落ち着いたところで
両親が前の居住地フェニックスにいったん戻るシーンがあります。
その時の子供達のやり取りが悲しい。


”両親の乗った車が走り出すと、ブライアンがつぶやいた。
 「ちゃんと帰って来るかな?」
 「あたりまえじゃない」そうは答えたものの、私もブライアンと同じ思いだった。
 その頃、私たち子どもは次第に両親の負担になっているように感じられた。(中略)
 きっと戻って来ると信じよう、そう自分に言い聞かせた。信じていないと、
 両親が戻って来ないような気がした。このまま捨てられてしまうのかもしれないと。”


こんなことを13歳の子供に思わせる時点で、親として許せないと私は思うのです。


(ジャネット・ウォールズ)

あるいは、その少し後のこんなシーン。
”その日一日、母はソファベッドの上で毛布を被ったまま、こんな人生は耐えられないと泣きじゃくっていた。
 毛布を頭に引きかぶり、さも自分が悲劇の主人公であるかのように振舞い、
 5歳児のように泣きじゃくっている、この女が自分の母親だなんて思いたくもなかった。
 母はこの時38歳、もう若くはないが年寄りでもない。
 あと25年もすれな自分も母と同じ年齢になるのだと、私は自分に語りかけた。
 その時自分がどんな暮らしをしているかは分からないが、母のようにだけはなるまい。
 こんな辺鄙な山間部の、暖房もないあばら家で目を泣き腫らしているような人間にだけはなるまい、
 そう心に誓い、教科書を手に家を出た。”


父親はアル中の無職ではあるが博識で哲学的でもあり、母親は教員免許も持ち、
だから無知無教養という訳では決してない。
子供達への深い愛情も持っているが、しかし親としての責任を果たすことができない。
そんな親を、ジャネットがどうやって許すことができたのか、それが知りたくて読んでみたのですが…


親の無節操ぶりに、余計に腹が立っただけでした。
4人の子供達は生き永らえるために結束し、酷い環境から脱出するために
バイトと勉強に明け暮れ、次々と自立して行き、幸せな人生を勝ち取った。
そうした子供達を生み出したということが、親としての唯一の功績だったと言えるか。
三女のモーリーンだけは、こちらが書かれた時点では低迷しており、
このネグレクト、機能不完全家庭の犠牲者であったようです。


「ガラスの城の子どもたち」 https://tinyurl.com/y586oszx
「ガラスの城の約束」映画についての日記
https://blog.goo.ne.jp/franny0330/e/1131e896f0ed45fd8b3541990dd506a2

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原田マハ「サロメ」

2019年07月09日 | 
世紀末ヨーロッパで一世を風靡した異端の作家オスカー・ワイルド、
彼の戯曲「サロメ」に悪魔的挿画を描いた夭折の天才画家オーブリー・ビアズリー、
姉で女優のメイベル・ビアズリー、そしてワイルドの恋人のアルフレッド・ダグラス卿。
実在の4人の、史実にフィクションを絡ませた愛憎劇。


この本の装丁は、世紀末ロンドンの文芸誌「The Yellow Book」を真似たのだそうです。
表紙の絵は、「サロメ」のクライマックス・シーンのオーブリーの挿画で
サロメが預言者ヨハネの生首に接吻するところ。
戯曲「サロメ」は聖書から引用されたといえ、倒錯した性愛や猟奇性に満ちた
退廃的な作品であり、イギリスでは長い間、上演禁止だったのだそうです。



オスカー・ワイルドといえば私は子供の頃、「幸福な王子」を読んだのでした。
幼い私は、南に渡る時期を逃して凍え死んでしまったツバメに涙したのに。
あの優しい童話を書いた人が、そんなに退廃的な異端児であったとは。
男色が禁じられていたその頃、彼は卑猥行為で逮捕投獄、財産も没収されたのだそうです。
ワイルドがいかに無名の天才オーブリーを見出して、このまがまがしい絵を描かせたか、
弟の成功を誰よりも願うメイベルが、それをどんな思いで見守っていたか、
小説は悪徳と官能の匂いに満ちていて、読んでいてゾクゾクします。


しかし何より衝撃的だったのは、
弟思いの優しいメイベルが、弟をワイルドに取られて、次第に狂気に染まって行くこと。
”体内でどす黒い嗤いが沸きたつのを感じた”彼女が最後にしたことに、息を呑みます。
嫉妬に狂った女は怖い…


「サロメ」 https://tinyurl.com/y6rux8lt
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「路上のX」「ねこのおうち」

2019年06月29日 | 


「路上のX」桐野夏生
両親が突然失踪し、何不自由なく育ってきた女子高生真由は、叔父宅に預けられることになる。
しかし露骨に嫌がられ、居場所がなくなった彼女は、渋谷のラーメン店でバイトし、
ネットカフェやカラオケで夜を過ごすことに。
お金に困る彼女に次々に声をかけるのは、JKビジネスで儲けようとする大人たち。
貧困、援交、性的虐待、ネグレクト、レイプ、中絶。
本来なら社会が守ってあげるべき歳の女の子が、何の後ろ盾もなく、
心と身体から血を流しながら生きていく姿に、エールを送りたくなります。
しかし六畳間をカーテンで4つに仕切った”シェアハウス”なんてのが存在するとは知りませんでした。




「ねこのおうち」柳美里
生まれたばかりの子猫を靴箱に入れて公園に捨てる女。
その子猫を拾ってニーコと名付け、親身の世話をして育てるお婆さん。
でもそのお婆さんは認知症になり、ニーコのことを忘れてしまった。
ニーコはまた公園に戻り、6匹の子猫を産んで懸命に育てるが、毒入り団子を食べてしまい…

その子猫たちを拾って育てた人々の様々な人生が混じり合う。
いじめに遭っている小学生、子供の時に両親に捨てられた青年、
妻を病気で失った男性、公園の野良猫たちを放っておけない町内会会長。
悲しい描写も多いが、これが現実なのだとも思います。
猫好き、ペット好きには号泣ものの作品。
何より、昔「命」シリーズを始め、プライバシーをさらけ出してヒリヒリするような私小説を書いていた柳美里が、
こうした優しい小説を書いたことに驚きました。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「猫を抱いて象と泳ぐ」

2019年06月19日 | 
物語は、主人公が幼い時に好きだったデパートの屋上のシーンから始まります。
そこには、かつて孤独な象のインディラがいた。
インディラは小象の間だけそこにいて、その後動物園に引き取られる筈であったが
気が付いたら大きくなりすぎて屋上から降りられなくなり、37年の生涯を終えたのだった。
少年はインディラの形見というべき、錆びた重い鉄の足輪を飽きることなく眺め、
37年間屋上から降りられなかった哀れな象に思いを馳せる。
生まれた時から唇に奇形があって内向的だった少年にとって、
死んでしまったインディラ、空想上の少女ミイラだけが友達だったのです。


インディラの悲劇、そして太り過ぎて住んでいた廃バスから出られなくなってしまったチェスの師匠。
少年はそれらから「大きくなること、それは悲劇である」という警句を胸に刻み、
11歳で身体の成長を止めてしまう。
そしてひたすら、師匠に教えて貰ったチェスを指す。
いつしか彼は「リトル・アリョーヒン」と呼ばれるチェスの名人となり、
「自動チェス人形」の中にこっそり入って、奇跡のように美しい棋譜を生み出す。


なんとも静謐な、悲しい物語です。
リアリティなんてものは存在しない。
唇に脛毛があり、11歳で成長を止めた男の子、家と家の間に挟まったままの少女、
廃バスで暮らす、身動きできない程に太ってしまったチェスの師匠。
大体いつ頃の話なのか、何処の国の話なのかも分からない。
それでも読むほどにその世界に引き込まれ、そんなことがまるで問題ではなくなってしまう。
そして、少年の数奇な運命を夢中で辿って行くことになります。


孤独な少年には、数少ないけれど彼のことを本当に思ってくれる人がいた。
いなくなってしまったけれども、かつてその人と過ごした幸福な時の思い出、
そうしたものを彼は胸の小箱にしまい込み、何度も開けてそっと慈しみながら
静かにチェスの腕を磨いていくのです。
寡黙で小さな少年がこれ以上傷つくことがないようにと、祈るような気持ちで読んでいくと…
少年がその短い生涯をあっけなく終えてしまった時には、思わず落涙。
でも少年は誰を恨むこともなく、少年の魂はきっと救済されたのだろうと。
そう思うことで、世俗の垢にまみれた自分でさえもが、ほんの少し救われたような優しい気分になれます。


奇妙な題名の意味が、読み終わると悲しく納得できます。
チェスのルールを知らなくても読めますが、知っていたらもっと面白かっただろうなあ。
著者が描く、静かで悲しい世界に、いつまでも浸っていたくなります。

「猫を抱いて象と泳ぐ」 https://tinyurl.com/y2dlhuly
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「1973年のカップ焼きそば」

2019年06月09日 | 
 

太宰治、三島由紀夫、夏目漱石、ドストエフスキーといった文豪から、星野源、小沢健二ら芸能人まで
100人以上の文体で、カップ焼きそばの作り方を綴った「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」。
よくまあ、こんなアホなことを考えついたものだというのが読後の率直な感想。
個人的には村上春樹版が一番好きだったので、それをご紹介します。


”「1973年のカップ焼きそば」

きみがカップ焼きそばを作ろうとしている事実について、僕は何も興味を持っていないし、何かを言う権利もない。エレベーターの階数表示を眺めるように、ただ見ているだけだ。

勝手に液体ソースとかやくを取り出せばいいし、容器にお湯を入れて5分待てばいい。その間、きみが何をしようと自由だ。少なくとも、何もしない時間がそこに存在している。好むと好まざるにかかわらず。

読みかけの本を開いてもいいし、買ったばかりのレコードを聞いてもいい。
同居人の退屈な話に耳を傾けたっていい。それも悪くない選択だ。
結局のところ、5分間待てばいいのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、一つだけ確実に言えることがある。

完璧な湯切りは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。”


これは「1973年のピンボール」だけではなく、「風の歌を聴け」の
パロディでもあります。
物凄く久しぶりに、この2冊を読み直してみました。
新人賞を取った「風の歌を聴け」を私は大学の図書館のその文芸誌上で読み、
感動した覚えがあったのですが…




今読んでみると、随分と気負った作品です。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」は
この作品の冒頭の文章です。
「今、僕は語ろうと思う。もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(中略)
弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。
つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまく行けばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。」


そして「僕」の前に、鼠、J、左手の指が4本しかない女の子が現れて、ものうい夏が過ぎてゆく。
今、世界的に有名になってしまった著者がデビュー作のこの部分を読んだらなんて思うのだろう?
思わず赤面するのか、あるいは、ほらやっぱりね、とニンマリするのかしらん。


「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」https://tinyurl.com/yxgkhjan
「風の歌を聴け」 https://tinyurl.com/y478ktzj
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「淳子のてっぺん」

2019年06月02日 | 
女性として世界初のエベレスト登頂に成功した田部井淳子氏。
しかも女性としてやはり世界初の、世界7大陸最高峰制覇。
一体どんな家庭に生まれてどんな育ち方をした人なのだろう?と思っていました。
その田部井氏の半生を、直木賞作家唯川恵が書き上げた長編小説。


昭和21年、あの滝桜で有名な福島県三春町の裕福な家に生まれます。
子どもの頃から負けん気で男の子に混じって遊んでいたが
跳び箱は苦手、鉄棒は逆上がりもできず、運動会では選手になれなかったと。
東京の昭和女子大に進むが、田舎出身というコンプレックスもあり、
窮屈な寮生活に馴染めず、神経性胃潰瘍になって休学することに。
これはとても意外でした。
特別な運動神経に、強靭な精神を持った人かと思っていたのに。



その彼女を救ったのが、山登りだったというのです。
週末ごとに山に登るようになってどんどん逞しくなり、やがて社会人山岳会に。
まだまだ女性蔑視の強かった時代、特に山は男の世界であったようです。
最初は山岳会に入るのさえままならず、「女のくせに」「女なんかに登れるもんか」と
いう言葉を、事あるごとに投げつけられる。
そんな男の言葉に負けん気を発揮した彼女は女子登攀クラブを設立し、
女だけで1970年アンナプルナIII峰(7555m)、1975年には世界最高峰エベレスト(8848m)に登頂成功。


しかしそのどちらもその偉業への最大の敵は、そそり立つ氷の壁ではなく、
苦しい高山病でも大規模な雪崩でもなく、女子登攀クラブ内の軋轢だったと
いうのだから驚きます。
やっぱり人間関係って難しいんだねえ…
無論、大自然の驚異は凄まじいのですが、それをここに書き出したらキリがないので、
大幅にはしょっての、ザックリとした感想ですが。


プロローグは、晩年の彼女が東日本大震災で被災した、失意の高校生たちを
富士山に連れて行くシーンから始まります。
乳癌、そして癌の再発に追われても前向きだったという彼女。
2016年10月に77歳で亡くなる、その3カ月前まで富士山プロジェクトで
高校生たちを引率していたというのだから驚きます。
エピローグも、富士山で高校生たちに囲まれ、夫君正之氏と優しい会話を交わすところで
終わっていて、ちょっとホッとしました。


淳子のてっぺん https://tinyurl.com/yxh7sxj2

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする