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0歳から6歳までの教室
モンテッソーリ子どもの家アイアイです。
モンテッソーリがどんな人だったのか、
どんな思いで子どもの教育に携わっていたのかについて詳しく書いてある本をご紹介します。
マリア・モンテッソーリ: 子どもへの愛と生涯
概要を記載しますが、500ページ以上ある本なので、
もっと知りたい方はぜひ本書をお読みください。
(概要)
マリア・モンテッソーリは、1870年イタリアのアンコーナ州キアラヴァッレで、父アレッサンドロと母レニルデの一人娘として生まれた。アレッサンドロは、元軍人、その後官吏となり、保守的な気質と軍人的習性とを兼ね備えた紳士だった。レニルデは地主階級で当時としては珍しく高い教育を受け、名前を書ければ自慢の種になるような町にあって、読書に没頭するような女性だった。一家は、マリアが5歳のときに、アレッサンドロの転勤により、ローマに移り住んだ。
マリアは、13歳で入学した工科学校、その後レオナルド・ダ・ヴィンチ工科大学でも、優秀な成績を修め続けた。女性は結婚して子どもを産み、家庭に入ることが当然だった当時のイタリアでは、近代女性の歩む道として、教師になることは容認し始めていた。ところが、マリアは教師になりたいとは思っておらず、技師になりたいと思っていた。
しかし、大学を卒業するころには、医学に興味を持ち始めていた。親戚や友人、特に父親は不賛成だったが、マリアの意志は強く、当初女性が入学することは認められていなかったローマ大学に入学したのである。どのような経緯があったのか記録はないが、ローマ教皇に訴え、教皇が彼女のために取り計らったために入学許可されたと、後にマリアが話したとされている。
入学後、女性ということで、男子学生からの執拗ないじめやいやがらせがあった。当時は、「女性は男性より脳が小さく能力が低い」という人もいた。特に、死体の解剖は、男子学生と一緒にすることは許されず、夜、一人で死体と向き合わなければならなかったのが一番つらかったと手紙に残している。医学部を諦めようと解剖室を出て、帰宅途中、一人の乞食に出会ったときが転機となる。その乞食が連れていた2歳くらいの子どもが、小さな色紙の切れ端で夢中になって遊んでいるのを見て、説明のできない感情に動かされ、向きを変えるとまっすぐ解剖室に戻り、その後は諦めることなく、全ての科目で優秀な成績を修め、ローマ大学で初の女性医学博士となった。
女性が参政権も財産権も与えられていなかった時代、ローマ大学初の女性医師ということで注目を浴び、医学部を卒業した1896年ベルリンで開かれた国際婦人会議のイタリア代表使節団の一員に選ばれ、女性解放運動にも関わっていった。
マリアは、医師としては、婦人・小児病院の仕事、外科の助手、個人的にも開業しており、貧しい患者のために診療、処方の他、看病や食事を作ることもあったという。彼女は、「女性の仕事」と言われていた家事が、女性をおとしめるものではないばかりか、男子も実行するべきであると考えていた。
ローマ大学の精神科クリニックで研究も続けており、ある時、障害児の保護施設で何もない部屋に閉じ込められている子どもたちがパン屑を拾うのを見て、「食物に飢えているのではなく、経験に飢えているのだ」と感じ、障害児の療育の研究を続け、若き研究者ジュゼッペ・モンテサーノとともに知的障がいの子どもたちの学校の共同責任者となった。
ある時、その学校の子どもたちに、健常児が受ける試験を受けさせたところ、健常児よりもよい成績を修めたため、さらにマリアの知名度は上がっていったが、彼女は、健常児の学校教育に疑問を持ったのである。
順調と思われていた1901年、マリアは突然すべてを辞職した。当時は公に明かされていなかったが、親しい仲となったモンテサーノとの間に一人息子のマリオを出産していた。マリオを田舎の夫婦に預け、母親とは明かさずに会いに行っていた。結婚をした女性が仕事をすることはできなかった時代だったため、「結婚はせず、お互い誰とも結婚しない」と約束していたが、モンテサーノの裏切り(他の女性との結婚)により、ショックを受けたマリアはすべてを捨てて、ローマ大学へ再入学し、研究に戻ったのである。人類学、実験心理学、教育哲学、教育学、衛生学、実験心理学、人類学などの研究をし、健常児の教育方法について研究した。当時の伝統的教育は、ランカスター流の監督技術が、大勢の生徒に同時に教える経済的な方法として導入されていた。子どもたちは身動きもしてはならず、沈黙を強制し、賞罰制を用いられていた。これは、抑圧する制度であり、マリアが当初から反論してきた女性における隷属と同じくらい、堕落や子どもの生来の能力破壊の原因となると思われた。
そして、1907年 ローマのスラム街のサンロレンツォ地区に健常児のための保育園「子どもの家」が開校され、マリアが施設長になったのである。両親が働きに出ているため放置されていた子どもたちを預かることになったが、マリアにとっては今までの研究を生かす時が来たのである。まずは、子どもたちを清潔にするところから始め、食事を与え、子どもたちを観察することによってさまざまな教具が考え出された。
文字も読めない親の子どもが文字を書き出し、子どもたちが変わっていくのを目の当たりにして、周囲は驚き、彼女はまた世間の注目を浴びたのである。
そこから、「モンテッソーリ教育」は始まり、世界中に広まり、世界各地でモンテッソーリ教師養成コースが開かれ、モンテッソーリスクールが設立された。モンテッソーリと関わったとされる有名人には、トーマス・エジソン、フロイト、アンナ・フロイト、グラハム・ベルなどがおり、アメリカのホワイトハウスの地下にも子どもの家が設立されたという。そして、アンネ・フランクが、モンテッソーリスクールに通っていた記録がある。
しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦と続き、子どもの自由を保障するモンテッソーリ教育は、当時のムッソリーニ政権と対立し、イタリアではモンテッソーリスクールは閉鎖され、著書は焼かれてしまった。ヨーロッパにいられなくなったが、息子のマリオとともに、交流のあったガンジーのいるインドへ渡った。渡った直後、情勢が変わり、敵国人としてインドに抑留されたが、行動は自由にできたため、インドでも教師養成コースを開催し、広めていった。(マリオが15歳のときに一緒に暮らし始め、当時は甥や養子と紹介していたが、母親のよき理解者であり、母親の仕事を手伝い続けた。)
8年後戦争が終わり、インドからヨーロッパに戻ったマリアが求めたのは、「平和」だった。「世界には、戦争ではなく、平和をつくるための教育が必要です」と訴え続け、世界中にモンテッソーリ教育を広めていった。次はアフリカへと計画を立てていたが、それはかなわず1952年81歳で亡くなった。
マリアの墓には、「愛する全能の子どもたちよ、人類と世界が平和になるよう手伝ってください」というメッセージが刻まれている。
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モンテッソーリは、イタリアのお札(リラ)やコインの肖像画に使われており、ノーベル平和賞にも3回ノミネートされている。
マリオやその子孫や弟子たちが彼女の遺志を引き継ぎ、「モンテッソーリ教育」は世界各国で続けられている。
Association Montessori Internationale(AMI)
モンテッソーリ教育を受けたとされる有名人は、キャサリン・グレアム(ワシントン・ポスト誌経営者)、ジェフ・ベゾス(Amazon創始者)、サーゲイ・ブリンとラリー・ページ(Google共同創立者)クリントン夫妻、オバマ元大統領、藤井聡太棋士などがいる。
伝記・DVD
マリア・モンテッソーリ
オールカラー まんがで読む 知っておくべき世界の偉人 (19) モンテッソーリ
20世紀に輝いた世界の女性たち1「マリア・モンテッソーリ」DVD
映画「モンテッソーリ子どもの家」DVD
参考記事
モンテッソーリ教育を初めて知る方へ
モンテッソーリに関する書籍
●お知らせ●
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💕モンテッソーリ教育勉強会
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■モンテッソーリ教育は、
発達に合わせた環境を用意し、
子どもたちが主体的に活動することを大切にします。
■保護者の方のご相談には、
身体的、心理学的、生活、食事など
さまざまな視点からお答えしています。
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