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偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p7 感想その4「フィオーナ」

2018-01-29 19:31:11 | 本の要約や感想
ジム・ナッシュは全米中を目的地もなくただ駆け巡るだけの旅の途中、カリフォルニアのバークレーの本屋で懐かしい知り合いの女性フィオーナと偶然に再会した。

ジム・ナッシュは今は家財をすべて処分し帰る家もないわけだが、もともとは東海岸のボストンに妻と娘と暮らしていた。

そして前回までに説明したような経緯でアメリカ中を車で走り回っていたのだが、今回は真反対の西海岸の、と或る本屋に旅行の案内書でも買おうかと立ち寄ったのだった。

この余裕。この贅沢。

自分の生活エリアから5000キロも離れた場所でなんとなく本屋に立ち寄るという自由さ。

ついでにシェイクスピアでも買おうかと棚の前で選んでいたら、突然、横から腕が伸びてきて、本を一本指で指し、

「これにしなさいよ。ジム」

見れば2年ほど前にボストンで消防士の自分を取材した女性記者で、当時もなんとなく互いに惹かれ合ったが結局何もなく、そのまま取材の終了とともに関係は途切れたフィオーナであった。

それから4晩をフィオーナの部屋で供にし、ジムはこのまま一緒に暮らすこともひとつの望みとして感じたが、しかしどうしても旅への誘惑に勝てず、また旅だってしまう。

しかし、それから半年ほど、7月の終りまで、3週間に一度はフィオーナの部屋へと戻った。

前年に死んだ父から受け取った遺産は20万ドル。'90年代当時なら日本円で3千万円くらいだろうか。そこから娘の信託預金に6万ドルを残した。そして一年近くの放浪で全財産は底が見え始めた。

ジムは考えた。金の終りは旅の終り。そして自由の終り。自由の終りは未来の終り。よし、所持金が2万ドルまでは旅を続けよう。しかし2万ドルを切ったらカリフォルニアへ戻ってフィオーナに結婚を申し込もう。ジュリエットを引き取って、さらに弟や妹を作って幸せに暮らそう。それが自分の存在する意味だとしてもいいじゃないか。

ところがその頃、フィオーナには元恋人が戻ってきていて、ジムに泣きながらそのことを告げた。そして「あなたは当てにならないの」とも。

心の底ではフィオーナの言うとおりだと思ったが、(中略)怒りの炎は何日も燃えつづけ、それがようやく収まりかけてからも、足場は取り戻されたというよりむしろ失われてしまっていた。第二の、さらに長い苦悩の日々にナッシュは墜ちていった。(30p)柴田元幸訳


そしてまた、いやさらに、もっと自分をまるで追い込むかのように過酷な長距離のドライブをジムは続けたが、経済的に、精神的に、袋小路に陥ったことを悟り、じきに何かが起きないことには金が尽きるまで旅を続けてしまうだろう。金が尽きた時、それは旅の終りと同時に、自分の人生の終りではないかと感じるようになった。(人生の終りとの記述はないが。)

そのため、車中泊を繰り返し倹約をしたり、逆に士気を高めようとニューヨーク州のサラトガのホテルに部屋を取り、競馬場に通い一週間を過ごしたりした挙げ句、財産はまたさらに減ってしまい、その時、旅立ちから1年と2日が経っていて、手持ちの金は1万4千ドルになっていた。

まだ絶望に屈したわけではなかったが、もうその日も近い気がした。あと1,2ヶ月のうちに完全なパニックに追いやられてしまうだろう。(31p)柴田元幸訳


ジムはニューヨークへ行くことにしたが、高速ではなく、田舎道をゆっくり進むルートを選んだ。ゆっくりと走ればだいぶまいっている神経も落ち着くかもしれないと思ったのだった。

妻に逃げられ、娘は父親が誰か忘れかけていて、自分の存在理由を見失い、それを見つけに旅に出たというのに、やっと見つけた暖かな未来フィオーナに慎重に着陸をしようとしたら最後に拒絶をされてしまい、やけになって速度を上げて走り回ったが何も見つからず、とうとう自由を買うための経済力も底が見え、節約をしたり、逆に賭けに打って出たり、そして今、望みもほとんど尽き果てて、速度に疲れたジム・ナッシュは緩い速度でニューヨークへの田舎道を走っているのだった。これをまさに迷走というしかない。

牧草地を見ながら45キロくらいで走っていると若い男がよたよたと歩いているのが目に入った。服は破れ、顔は腫れて、ひどい状態であることがわかった。

ジムは車を停めて、助けは要るかとその若い男に訊ねると、男はひと言も言わずによろよろと怯えた顔でジム・ナッシュの車に、いや人生に入ってきたのだった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫
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残雪コナ

2018-01-27 19:03:45 | コーヒー
先日、珍しくも熱が出たせいで味覚がおかしくなり、
この2週間ほど、飲んでも不味いだけのコーヒーを避けていたが、
先ほど冷凍庫に見慣れないパッケージを見つけ、よく見るとハワイ・コナのブレンド豆で、
そういえば去年末にドトールで買ったことを思い出した。

これは直火のイタリアンローストで、豆の表面にオイルが滲み出すくらい黒く深い。

ここのところローストはシティくらいまでの豆をわりと薄めに飲んでは
マズイマズイとばかりつぶやいていたので、よし今日はこれを飲んでやろう、と決めた。

イタリアンの淹れ方で大事なのはとにかく濃く、そして温度は低くすることだと思っている。

豆は30グラム。温度は82度。出来上がり目標は150ml。

出来ればネルがよかったが、ネルは未使用のものしかなく、準備に手間がかかるから、
まあペーパーでもいいだろうとハリオの紙フィルターにて。

紙フィルターでよく未サラシの茶色いものを使う人がいるが、あれは避けたい。

未漂白ということで、なんとなくナチュラルかつ味もよさそうな気がするが、
まったくの間違いで、
茶色のフィルターは製造工程で流水に浸しただけなので、どうしてもパルプ臭が残っていて、
コーヒーに混ざってしまい、どうやっても木の根っこみたいな味のコーヒーになってしまう。

較べて白いフィルターは酸素漂白なので、パルプ臭はほとんどなく、
微かに感じたとしても使用前に熱湯を回しかければ、問題はすべてクリアーである。
しかし安価すぎるものはやはり臭いがあることもある。

茶色のフィルターは同じように熱湯をかけてもパルプ臭はしつこく残り、
そのコーヒーはもう本当にがっかりする味で、木の根っこがいつまでも喉に張り付いて消えない。

各フィルターにコーヒー粉を入れずにお湯を通して、それを飲んでみれば違いはよくわかる。

まあ、ネルフィルターを丁寧に使うのが濃いめのコーヒーには一番なのだが、
紙の簡便さに慣れるとついつい、ね。

それでコーヒーを淹れて飲んだわけだが、これが新年最高の一杯になった。

ドトールは直火焙煎なので、去年の豆とはいえ、まったく味に衰えがなく、
むしろ円熟して、豆30グラムで150mlという濃さなのに、するすると喉に落ちていく。

香りはただただ甘く、嫌な煙ったさは一切なし。
ああ、こんなコーヒーをオレは飲みたかったんだ、と再認識した。

まあ、毎日これだと飽きてしまうのだけど。

味は深い焙煎によって酸味がほとんどなく、優しい苦みと甘さが前面に出ている。

このどっしりとした感じはもしかするとブラジルのロブスタが少し入っているかもしれないが、
そこまではちょっと私には明確にはわからない。

なにしろ飲んだ瞬間に鼻腔から咽喉が、そして大脳皮質までが徐々に、
そして最後には感覚のすべてが圧倒的に、
この熱帯地方が凝縮したような香りと味に支配されてしまう。

だからもう一杯飲みたい。

でもこれは経験からいうと、もう一杯飲んでも最初の感動はやってこない。

それならここで何を飲むかというと、これも経験上で最高の回答をするのなら、

お湯です。白湯。サユ。

熱帯の豊満な力強さに支配された余韻が消える頃に、温かく、味のない、
いや、その味のなさと香りのなさだからこその劇的な静けさと、
どこまでも清楚な、そして優しさだけのむしろそれこそ甘美な白湯で、
複雑な漆黒の気配を、すっと洗い流してやることは、きっとひとつの快感だろう。
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偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p6 感想その3「出立」

2018-01-23 20:41:11 | 本の要約や感想
ジム・ナッシュはミネソタの姉の家を出てから車で宛てのない旅を2週間続けた後、
ボストンの家に戻り、消防署へも復帰するが、やはり気持ちは落ち着かなかった。
考えた末に、ジムは消防署を辞め、家財を処分し、また旅に出る。

家財の処分の最後に、ジムが13歳の誕生日に母に買ってもらったピアノとの別れがあり、
その描写が印象に残る。

母がピアノを買ってくれたことを、ナッシュはこれまでずっと感謝してきた。それだけの金を捻出するのがどんなに大変だったか、彼もよくわかっていた。(中略) 音楽のおかげで世界がよりはっきり見えるような、目に見えぬ秩序のなかでの自分の位置がわかってくるような、そんな気がしてきた。(中略) がらんとした壁を聞き手に長いさよならリサイタルを行った。数十曲あるお気に入りを、ひとつ一つ弾いていく。クープランの「神秘な障壁」からはじめて、ファッツ・ウォーラーの「ジルバ・ワルツ」まで、指が麻痺して弾けなくなるまで鍵盤を叩きまくった。それから、過去六年間世話になってきた調律師(アントネリという盲人)に電話をかけて、ボールドウィン(ピアノ)を彼に450ドルで売る話をまとめた。(18,19p)


そしてまた目的も目的地もない旅が始まった。
夜通し十数時間を運転し、疲れ果ててモーテルに眠り、目覚めてはまた夜の道を疾走するのだった。

肝腎なのはスピードだった。運転席に座って、空間にわが身を投げ出す悦び。それこそがほかのいかなる善にもまさる至上の善となった。それはいかなる犠牲を払っても満たすべき渇望だった。自分のまわりの物は一瞬以上何ひとつ持続せず、瞬間から瞬間へと時が移っていくなかで、連続し存在しているのは自分だけのような気がした。何もかもが変化していく渦巻にあって、彼は一個の固定点だった。世界が彼の体を突き抜け、消えていくなか、完璧に静止状態にあるひとつの物体だった。(19,20p)


音楽と対峙する在り方の描写も重要だ。

運転しながら、バッハ、モーツァルト、ヴェルディのテープをえんえん聴いていると、まるで自分の中から音が湧き出てきて風景を浸しているような、可視の世界を彼自身の思考の反映に変えているような、そんな気持ちになってきた。三、四ヶ月も経つと、車に乗り込むだけで、自分が自分の体から離れていく気になれた。アクセルを踏んで車をスタートさせるだけで、音楽が彼を、重さの存在しない領域へ連れていってくれた。(20p)


ここで、ジム・ナッシュはなぜそんな目的のない旅に出たのかを整理しておくと、
たしかに発端は前回に書いたようにミネソタからの帰り道に道を間違えたことだ。しかし、
すぐに帰る必要のなさに気がつき、しかも金もあり、止める者もいず、暴走に至ったわけだ。
2週間後にボストンに戻り、自分の行動を顧みて、神経衰弱にでもなったのかと考えたが、
いや、ジムは糸の切れたような行動をものすごく楽しんだのだった。

ところが家に帰っても妻はすでに男と去り、今なら金はあるのに娘は姉の家族にとられてしまい(とられたというのは語弊がある。姉の家族は理想的で素晴らしく、娘のジュリエット自身もその環境を望んだ。しかしジムにしてみるとまんまと姉の家族にとられてしまったように感じられた)、つまりジムは自分の意味を失ってしまったといえるだろう。言い方を代えれば、存在価値を見失ったということ。しかし何度も言うが、遺産が入り今なら金はある。その時点ではまるで無尽蔵のように感じられるほどに金はあったのだ。姉の助言に従って念のために娘のために信託基金を作り、残った金の生む余裕でジムは旅に出た。それは意味、もしくは意義、自分の価値を見つけるために。

そういう瞬間(事故の危険性のこと)のおかげで、自分のやっていることに、危険という要素が加わる。それこそ何にも増して、彼が求めているものだった。自分の人生をわが手に引き受けているのだと、感じられることこそ。(21p)


それと同時に上にも書いたように、金を心配せずに好きな音楽を聴きながら右へ行こうと左へ行こうと誰にも文句を言われず全米を駆け抜けることは純粋に楽しかったのだろう。今まで必要以上に経済力に抑圧を受けてきた人生の青年から中年への過渡期にジムはまさにタガが外れた状態になったのだ。

そしてそんな旅の途中のカリフォルニアのバークレーの本屋で懐かしい知り合いの女性フィオーナと偶然に再会した。

つづく。
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偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p5 感想その2「無意味」

2018-01-21 22:33:17 | 本の要約や感想
感想を書くなどといっておいて筋を追ってばかりいて、まだ感も想もないが、
この小説、少しへんな掴みどころのない感じがあり、どうにも攻めあぐねている。
最後まで読んだとしても、大きな感動があるわけじゃなし、成長があるわけでもなし、
教訓もなし、まして涙で心が洗われるようなカタルシスなんかは一切期待できない。

それなら何があるんだ?

私もわからないから、まだ筋を追っている。

そして話の最初から最後まで払拭できない大きな疑問がひとつあり、それは、
この小説は実は意味もしくは主題がないんじゃないか、というもの。

意味がゼロということはないだろうが、大きな意味の存在をふつうの小説なら
どこかで在り在りと感じるものだが、この小説にその影があるような気がしない。

だから不気味なんだよね。

劇中に登場する人や物もジャック・ポッツィーを除いてそれほど意味を持たされていない。

抽象画家がキャンバスに絵の具を無作為にバシャーッと塗ったくった画に、
あとから評論家が無理無理意味付けをしているような構図を思い浮かべてしまう。

だから私が読んでいる途中で強く思ったのは、

「もしかすると、行き当たりばったりで書いたのではないのか」だった。

いや、もちろんそういった小説の書き方はあるだろう。
主人公の設定を終えたら小説の中でどんどんその主人公が勝手に動き出し、
作者はその姿を書き写すだけ。

まあ実際には「だけ」ということもないだろうが、
今のところそれに近い感触をこの小説に感じている。

これは何々を描いた小説だ、とひと言で言えない気持ちの悪さが残る。

つづく。
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偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p4 感想その1「発端」

2018-01-20 16:56:27 | 本の要約や感想
(消防士のジムは離婚した直後に父の遺産を手にし、幼い娘を姉にあずけ、退職し、
目的も目的地もない車での独り旅に出たが、約1年後、金の底も見え始め、
先行きに不安を感じていた矢先、怪我をしたギャンブラーのジャックを道で拾い、
車中で聞いたジャックの儲け話に投資者として加わることにした。
儲け話は二人の富豪とのポーカー対決で、やっと到着した豪邸に着くと
その二人の主が奇妙な暮らしをしていたが、夕食の後、ゲームは始まった。
自画自賛の言葉通りにジャックは強く、勝負は決まったかに見え、傍観者のジムは
張りつめていた気を緩め、少し部屋を出た。しかし戻ってみると
形勢は逆転していて、ジムの有り金と車までも賭けたが、すべて負けてしまった。
しかも1万ドルの借金までが残り、金持ち二人にしてみると、帰せば逃げられる、
しかしここに残られても1万ドルを得られない、というジレンマに陥った。
そこで元検眼士のストーンが奇妙な提案をしたのだった。それは巨大な壁を建てることであった……。)



主人公はジム・ナッシュで、ほとんどが金の問題により妻に去られ、
置き去りにされた2歳の娘ジュリエッタの世話と消防士の仕事を両立できず、
娘をミネソタの姉夫婦にあずけたのだが、
その直後に何十年も合わずにいた父の遺産20万ドルが転がり込み、
ジムはすぐに借金の残金を払い終え、新車を買い、有給をまとめて取り、
娘の様子を見に、そしてできれば連れて帰るためにミネソタへ向かうが、
娘はすっかりと姉の家族になってしまっていて、娘は父ジムを見ても戸惑うのだった。
その姿を見てジムはいったんボストン(マサチューセッツ州)へ戻り、今後をよく考えることにした。
そして夏の日の午後、姉の家族に見送られてジムは車に乗った。

そして物語はほんのミスから思わぬ方向へと展開していく。

車に乗ったジムは道を間違い、逆方向のフリーウェイに乗った。
その間違いをジムはわかっていたが、しかし有給の残りはまだ2週間もあり、
すぐに職場へと戻る必要もなかった。

それから7時間、車をただ走らせ、ガソリンを補給し、さらに6時間疾走し、
ワイオミングで力尽きた。

次の日も夜通し前日と同じように走って、ニューメキシコを半分まできたところでやっと止まった。

その二晩目が過ぎたところで、もはや自分で自分をコントロール出来なくなっていることをナッシュは悟った。(13p)柴田元幸訳

ここまでがこの小説の発端で、
普通の人が今まで自分を抑えていた何かを失った時、
もしくは抑えていたものが取り除かれた時、
ほんのきっかけから自分でも予期しなかった行動に走り始めたことが描かれている。

何か訳のわからない圧倒的な力に彼は捕らえれてしまっていた。狂気に追いやられた動物が、闇雲にあちこち走り回っているようなものだ。けれども、もう止まろう、と何度決意しても、どうしてもそうすることができなかった。毎朝自分に向かって、もうたくさんだ、これでもうやめよう、と言い聞かせながら眠りにつき、毎日午後になると、いつも同じ欲望、車に這い戻りたいという抑えがたい渇望とともに目ざめるのだった。

あの孤独が、空虚を突き抜けていく夜通しの疾走が恋しかった。(13p)柴田元幸訳


つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫
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Diary 20180118

2018-01-18 19:00:45 | Diary
コーヒーの味がわからないということは、
味覚の他、その本丸の脳も本来の能力に戻っていないということではないか。

先週の土曜日にはけっこうな熱も出たし、その影響は否めない。

そして先日から宣言だけしている「小説・偶然の音楽」の感想文をここに書こうと
少し考えてみたが、まったく考えがまとまらない原因もそこにあるのでは。

以前、感想を書こうと思いついた時には、
こんなことや、あんなことを書こうと思ったはずなのだが、
味覚から消えたコーヒーのおいしさとともに、もう戻ってはこないのか。

やはり原因は熱だろうな。

熱が脳の記憶を司る部分の細胞を麻痺か消滅させてしまい、
それと同時に味覚につながる細胞も同じ目にあったに違いない。

とにかくまだコーヒーは不味くて飲めない。
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Diary 20180114

2018-01-14 22:26:16 | Diary
下のページに書いた小説の要約「偶然の音楽/ポール・オースター/訳 柴田元幸」
について、要約の後半にテキトーを書いた反省として、まあ反省なんかしないのだが、
感想を書こうと思っているうちに、けっこうな日が空いてしまって、しかもここ数日、
体調もすぐれず、久しぶりにコーヒーを淹れて飲んだら、これがなんと味がしない。

いや、味がしないというのではなく、美味しい味わいを嗅覚と味覚がまったく感知せず、
それ以外に残った焦げた風味だけを熱くして飲んでいるという感じであった。

パンを真っ黒けに焼いて、その炭を湯に入れて上澄みを飲んだら同じではないか。

つまり、とんでもなく不味いのだ。

豆は大粒12mmくらいのニカラグアでもちろん挽きたて。しかも一番の飲み頃。
この豆は現在私の手元にある4種類の中では一番美味いことは自分自身が知っている。

「だからどうした」ということなのだが、

要するに明日以降に感想を書きたいと思っている。
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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p3

2018-01-06 21:24:39 | 本の要約や感想
(消防士のジムは離婚した直後に父の遺産を手にし、幼い娘を姉にあずけ、退職し、
目的も目的地もない車での独り旅に出たが、約1年後、金の底も見え始め、
先行きに不安を感じていた矢先、怪我をしたギャンブラーのジャックを道で拾い、
車中で聞いたジャックの儲け話に投資者として加わることにした。
儲け話は二人の富豪とのポーカー対決で、やっと到着した豪邸に着くと
その二人の主が奇妙な暮らしをしていたが、夕食の後、ゲームは始まった。
自画自賛の言葉通りにジャックは強く、勝負は決まったかに見え、ジムは
張りつめていた気を緩め、少し部屋を出た。しかし戻ってみると
形勢は逆転していて、ジムの有り金と車までも賭けたが、すべて負けてしまった。
しかも1万ドルの借金までが残り、金持ち二人にしてみると、帰せば逃げられる、
しかしここに残られても1万ドルを得られない、というジレンマに陥った。
そこで元検眼士のストーンが奇妙な提案をしたのだった。)


「あの壁を作ってもらうという手もある」

<あの壁>とは何かというと、金持ちの二人がアイルランドへ旅行に行った時に、
朽ち果てた15世紀の城の残骸を見つけて、何かを感じ、持ち主に交渉し、
その1万個にもなる石をアメリカのこの屋敷に運ばせたのだった。
石で城を復元するのではなく、シンプルに、
高さ6メートル、長さ600メートルの壁を屋敷の敷地内に建てる計画であった。

しかし実際に建てる作業を誰がやるのかが未定であった。

そこにタイミングよく二人がゲームに負けて、1万ドルの借金の分を
時給10ドル、1人1日10時間で100ドル、二人で200ドル、
つまり50日の労働で帳消しにするという条件を勝った二人が負けた二人に提案したのだった。

痩せて力のないジャックは反対したが、結局、同意して二人は働き始めた。
実際に作業をするのはジムとジャックだったが、設計、指導、監督は
屋敷の使用人のカルヴィン・マークスであった。

☆☆☆

いやいやながらも二人はカルヴィンの監督の下、作業を始め、まずは
石を置く地面を平らに整地し、さらに浅く溝を掘る工程だった。しかし、
二人にとっては最初は厳しい仕事だったが、段々と身体が慣れて、
むしろ規則正しい生活と肉体労働に楽しさまでも感じていた。

整地も済み、溝も堀り上げ、石を運び、積み上げ始めると、
二人はその15世紀にアイルランドに建造されたという石の魅力と、
段々と積み上がっていき姿を顕し始めた壁の存在感とに神聖を感じるようになり、
無駄口を叩くばかりであったジャックも次第に仕事に対する姿勢が変わり、
さらに冷たく見えたカルヴィン・マークスの実は温かい人柄とその能力の高さに、
いつの間にか二人は親愛を示し、絶大な信頼を寄せるようになった。

さすがに50日では壁は出来上がらず、2年後のクリスマスを前にして壮大な壁は完成し、
夕暮れ前の赤く染まった空にそびえ立つ壁を無言で見つめる3人。
時間が止まればいいと誰もが思っていた時、屋敷の方から人影が現れ、
この2年間、一度も姿を見せなかった屋敷の主たちストーンとフラワーがやってきた。

人影は二人だけではなく、他にもいた。
それはストーンとフラワーが今日のために捜して呼び寄せた
ジムの娘のジュリエットとジムの姉のドナであった。

3人は抱きしめ合い、邂逅を喜んだ。

その姿を目を細めて見守るジャック、カルヴィン、ストーン、フラワー。

ジムは焦燥感に疾走したあの赤いボルボでの旅の果てにここに辿り着き、
運命によってか、この壁を自らの手で作り上げ、それはいつの間にか
自己を再生することであったという結果を娘と姉を抱きしめながら噛み締めていた。

ストーンとフラワーは壁が完成したことへのボーナスとして、
ジムに10万ドルと、もともとジムのものであったボルボを返した。

ジャックはカルヴィンに幼い頃に別れた父を重ね見て、考えた末、
屋敷に残り、カルヴィンの下で働くことになった。
もちろんそばでニンマリと笑う主二人のポーカーの相手もするのだ。

誰しもが心に傷を持ち、それがいつどのようについたものか人はわからず、
それをどう癒したらいいのか、いったいどこに傷があるのかさえもわからず、
傷ついたまま年老いてしまう。

私たちは心に負った傷の場所と大きさをよく知る時間が必要で、
時には前に進むことではなく、傷を治すことに重きを置くことが
実は最善かつ最速なのではないかとこの小説を読み考えさせられた。
ということはまったくのウソっぱちで、なぜなら、この要約の後半は私の作り話だから。

☆☆☆印から後は私のでっち上げです。

実際には私が作った<ありがちな話>ではないので、
興味があれぱ実際に読んで下さい。
結末には自己責任にて対処して下さい。

おわり。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

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夢の羅列<地下室にて> 20180103採取

2018-01-03 22:02:17 | Dreams
夢の羅列<地下室にて> 20180103採取


夢の中で私は、また地下のテナントを借りたらしく、
いやそうじやない。
以前から地下のテナントを借りていて、しばらくそこへ行かずに、
久しぶりに行ってみたら……、という話。もちろんすべて夢の中。

古い地下室というのは湿度が高く、
とくに夏の間はエアコンを24時間オンにしておかないと、すぐにカビが発生する。

そしてカビだけでなく、鉄類が錆びることも忘れてはいけない。

久しぶりの地下室に降りてみたら、エアコンは動いておらず、
ドアを開けると淀んだ空気が粘性すら感じさせるほどであった。

換気扇とエアコンのスイッチを入れたが、すぐに効果があるわけでもなく、
部屋に入った私は皮膚に異常に高い湿度を感じていて、
それは南国のジャングルのような陽気で開放的な湿気ではなく、
破滅的な、陰湿な、悪い事ばかりを考えてしまいそうな環境設定であった。

高い湿度というのはカビや錆だけでなく、紙や木にもダメージが少なくないので、
見回すと、壁紙は無様に剥がれ、机の上のデザイン画もふやけてしまっていて、
もうそれらには価値がなくなってしまったように思えた。

ああそうか。水か。

私は思い出して蛇口をひねった。

まずはコーヒーを飲んで、これからこの部屋をどうするか考えたいのだが、
長らく使用していない水道の水はとてもじゃないがコーヒーには使えない。

それで10分くらいは流しっぱなしにしておこうと思ったわけだが、
しかし流れてきた水はかなりの錆色で、いやこれは無理かな。

しかもただ流れるだけでなく、ゴボッ、ゴボッ、と
明らかに配管に欠陥があるような水の出方なのだ。

まあとにかく当分このまま流しておこう、と私は思った。

その時、
視界を何かが走り抜けた。

ネズミか。いやもっとデカい。

その何かが走り込んだのはなぜか押し入れで、
フスマが少し開いていて、中から光が漏れていた。

地下室に押し入れというのも普通はあまりないわけだが、
深く考えずにフスマを開けてみるとなんと、猫がいた。それも5匹くらい。

しかも見たことがある猫ばかりだった。

おいおい。オマエたち何してんだよ。

猫は好きだが、野良猫が出入りする部屋で仕事は出来ないよ。

押し入れの中はなぜか明るく、首を入れて点検すると、
天井に直径15センチほどの不自然な穴が空いていた。

ああ、あれか。オマエたちの仕業だな。

きっと寒いから上から穴を掘って入ってきたのだろう。

まあ猫は自分のやるべき事をやっただけのことだから、怒る道理もない。

そして猫たちをよく見ると、驚くことに5匹の猫だと思っていた内に
なんと人の赤ん坊が混ざっていた。

とはいっても私は夢の中だからか、ほとんど驚かず抱き上げて、
ウィーウィーとあやしてみた。

赤ん坊もそれが楽しいのか、浮かれてウィーウィーと笑った。

背後で蛇口から水がゴボゴホと流れている。

狭く荒れた地下室。

手には赤ん坊。

押し入れには猫。

いや、猫がいない。もう一匹もいない。

と思ったら、手の赤ん坊もいない。

どこだここは。

ああ、朝か……。目覚めの時間か。

おわり。
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夢の羅列<地蔵尊> 2017誕生日に見た夢

2018-01-01 18:43:05 | Dreams



新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくおねがいいたします。

以下は、誕生日に見た夢。




夢の羅列<地蔵尊> 2017誕生日に見た夢


……夢の中でどこか住宅街を歩いていると
道が開けた交差点で小さな地蔵尊の前に出た。

その敷地はほんの30坪ほどであるのに対し、
入り口の左右には立派すぎる対の招き猫の石像が置かれ、
その猫たちはそれぞれに米俵を担いでいるのだった。

そして猫と猫の間にどちらも着物の上に割烹着という
二人の女将さん風の女性が向き合い立っていて、
二人は仲が良すぎるためかどちらかともなくハグを何度もしたり、
顔を寄せ合ったり、頭を軽くぶつけたり、
とにかくお互いへの気持ちが溢れて仕方がないといった感じで、
私もそれをしばらく見ているだけで温かい気持ちになった。

二人はあっと私に気づいて同時にこちらを向いて、口を揃えてこう言った。

「何はともあれ、心配事はこの地蔵様に願いあれし!」
「何はともあれ、心配事はこの地蔵様に願いあれし!」


互いに身体を楽しそうにぶつけながら何度も何度も私に向かってそう言った。

おわり。
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