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夢の羅列<600の羅列は終焉の共鳴> 20181231

2018-12-31 19:34:06 | Dreams

夢の羅列<600の羅列は終焉の共鳴> 20181231

長くここに書き散らしてきた<夢の羅列>という私の夢の記述もそろそろ終りかと思う。
理由は、
夢をあまり見なくなったから。
見ても「これは残したい」という夢がないから。
それに、もうこれに費やしている時間がなくなってきた。

記憶を辿れば、期間で約25年ほどか。数にして約600話を書いた。
最初は紙に、ある時から電子手帳に、またある時からブログに、と変わってきた。

とくに記憶に残っている夢はいくつかあり、
「1インチの鳥」
「古い屋敷の池」
「夢の重さ」
「純子の赤いセロファン」
「残像の屋敷」
「25の超越の光」
「冬の蛾の影」
もっとあるはずだが、今頭に浮かぶのは、こんなところか。

ベッドの上を羽ばたく無数の小さな鳥。
水溜りに透き通って見えた古い屋敷と緑の池。
酒に溺れた居酒屋の気配。
セロファンに赤い絶壁の空。
庭園の錆びた柵越しに見た幼い頃の町。
カルトに盲信した若者の目の濁り。
そして凍った庭に動けない蛾の背中。

なんでこんな夢を見るのだろうかとその度に思ったが、
今でもまざまざとこれらの映像とそして気温と湿度までを思い出せる。
私は夢に住んでいたのではないかと思えるくらいだ。

それにしても600の夢を書くことに、どれだけの時間を使ったのだろうか。
考えると目の前が冥くなる。
この積層に何か意味があったのかとも思うが、あるわけがないよね。

「残したい夢」を見なくなった原因を自分なりに分析してみると、
おそらく加齢による脳機能と食生活の変化による脳内物質の分泌量の変化ではないか。
そういった影響か、夢以外にも、
以前、面白かったこと、興味があったこと、価値を認めていたこと、それらが、
最近どうでもよくなってきたことも事実である。

最後に書いたのが9月の「尿意と半ケツ」の話で、
これは無意味な25年間の最後に相応しいなと思える無意味な内容だったから、
実は私は満足していて、今年中での幕引きを思った。

皆様。ありがとうございました。

よいお年をお迎えください。

E V O L U C I O  制作者 手島  2018.12.31

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映画「FURY」あらすじ

2018-12-23 13:31:30 | 映画
昨日の朝、コーヒーを淹れて、ニュースを見るかとCSのテレビをつけたら、
映画「FURY」を放映していて、
前の晩にこの映画のことを少しこのブログに書いたものだから少しだけ驚いて、
そのまま朝の雑事の片手間に観てしまった。

前日の私の━━この映画には何が描かれているか━━結論では、
描写された多くの事柄を削ぎ、芯を見出すならそれは「戦いの意味」である、としたが、
今日になり全部を観て、少し違ったかなと思い始めた。

などと書いても観ていない人には何もわからないだろうから、
軽くあらすじを追うと、

━━第二次世界大戦中の欧州における連合軍戦車部隊の兵士たちの、
理想と現実の狭間に身を置いた心の葛藤の物語である━━

1945年ドイツ━━━━━━━━
連合軍のドン・コリアー軍曹(ブラッド・ピット)率いる戦車には、
北アフリカ戦線を共に戦い抜いた歴戦の猛者たちが乗り込んでいた。

彼らはドイツ軍への最後の攻勢ため進軍中だったが、副操縦士が戦死し、
その代わりに配属されたのは若く戦闘の経験はおろか、戦車に乗ったこともないノーマンだった。

その若者を乗せて戦車は進むが、ノーマンの未だ戦争に馴染めていない未熟さからのミスで、
他の戦車の乗組員を死なせてしまう。

ミスが重なり、ドンはノーマンに捕らえたドイツ軍兵士の射殺を命じる。
それなら自分を殺せと言うノーマンの手に銃を握らせたまま力づくで引き金を引かせ、
ドイツ軍兵士を殺してしまう。
その時、回りで見物していた他の兵士たちは、日常茶飯事を見たくらいの反応で散開する。

若いノーマンは、戦場の現実と殺人とに精神状態が追いつめられたまま戦車に乗り、
一団は制圧したある町に辿り着く。

戦闘から解放されたひと時の乱痴気騒ぎを繰り広げる他の乗組員を尻目に、
ドンはノーマンを伴い、ある建物の階上へ上がってゆく。
そこにはドイツ人女性のイルマとエマが隠れていて、
ドンは持っていた卵を出し、食事を作るように年上のイルマに命じる。

手持ち無沙汰のノーマンは居間にあったピアノで目の前の楽譜の曲を弾き始める。
台所でそれを聴いたエマは驚きと嬉しさを隠さずにピアノを弾くノーマンに近づき、
楽譜を捲り、その曲をたどたどしく歌い始める。それが「マリアの子守唄」である。

湯で頭を洗い髭を剃っていたドンはノーマンにエマと寝ることを命じる。
そうでなければ自分がエマと寝ると半ば脅す。

親近感をノーマンに持ったエマは、ドンを避けるようにノーマンの手を取り寝室に誘う。

それを見て戸惑うイルマにドンは言う。「二人は若い」

寝室から出てきた恥ずかしそうな二人とドンとイルマで昼食を食べようとすると、
外で騒いでいた他の乗組員たちが新たな獲物を探して目敏くこの部屋に上がってきて、
ノーマンに下で待つ他の女との交渉をさせるべく闖入してくるが、
彼らの野卑な姿とは対照的に、清潔なテーブルで昼食を囲もうとしている4人を見つけると、
ドンやノーマンにある種の子供染みた嫉妬を覚え、場の雰囲気を壊そうとする。

テーブルに白い皿、ナイフ、フォークが並ぶこの場にまったくそぐわない荒くれ者たちに、
ドンは冷静に対応し、どちらかというと相手にしない。ところが、
開戦当初のことを兵士が語り出すと、それがドンの心の引き金を引いたのか、
ドンは怒りテーブルを強く叩き、場は緊張に包まれるが、その時、
伝令が飛び込んできて、新しい任務をドンに告げた。

束の間の休息は終り、対決姿勢であったドンと乗組員たちも遊びが済んだかのように、
もう兵士の顔に戻り、部屋を出て行く。
ノーマンはエマに住所を訊こうとするが、それを一番野蛮そうなクーンアスが、
戦場でくだらねぇことをするなと言わんばかりに強引に連れて行く。

町を出発直前に敵機が来襲し、爆弾を落とされ、イルマとエマの住居が破壊される。
瓦礫の中にエマの死体をノーマンは見つけ慟哭する。

泣き叫ぶノーマンをクーンアスがエマから引き剥がし、その野卑なクーンアスの嗤っているような声が町に響く。
「これが戦争だ。これが戦場だ」

無人の道を進軍すると、退却するドイツ軍に焼かれた町や、
裏切り者扱いされた市民の死体が木に吊り下げられた光景をノーマンは目にする。

戦車4輛の部隊はさらに進む。
この先の十字路で進軍してくるドイツ軍を待ち伏せ攻撃する任務である。
ところが、突然に現れた高性能のドイツ・ティーガー戦車の猛攻撃に遭う。
ノーマンも何か吹っ切れたように戦闘に参加する。
やっとのことで敵を撃破したドンたちの1輛だけを残し、他は全て破壊されてしまう。
一致団結の勝利に、乗組員たちはノーマンの健闘を讃え、彼を認める。

一台だけになったドン一行は戦略地点の十字路には着いたが、
戦車は無線装置が壊れ、状況の報告も援軍の要請も出来ず、
しかも地雷によって動くことも出来なくなってしまっていた。

徒歩で偵察に出たノーマンは、
歌いながら進軍してくる士気の高いドイツ軍精鋭300人の部隊を発見し、十字路の戦車に戻る。

動かない戦車では勝ち目がないことは明白で、乗組員たちは森への避難を選択する。
しかしドンだけは、この地点で迎え撃つことが最重要であることを悟り、
独りでも戦う意志を示し戦車に乗るが、乗組員たちには森に隠れろと指示を出す。

そして若いノーマンも残ると言い出す。
逡巡の時にも十字路に迫るドイツ精鋭300人。
他の乗組員たちの選択は……、

つづく。
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マリア・ジャネット・戦車・「FURY」

2018-12-21 20:42:56 | 映画
https://youtu.be/AGzKm45F0BI

本日付けで、上の固定ページに貼ってある動画は、
Jeanette Köhnというスウェーデンのソプラノ歌手が歌う「マリアの子守唄」である。
などと書いたが、私にしても、曲のことや歌手のことを実はよく知らない。

以前、CS放送で観た映画「FURY」の重要なシーンでこの曲が使われて、
これは良い曲だと思い検索したら、歌い手違いでいくつも出てきたが、
このジャネット・コーンの歌が一番良かったのを思い出し、
クリスマスも近いということで、本日貼付けたわけだ。

他におそらく10歳未満の少女が歌う同曲のとても良い動画もあったが、
少女は才能で歌っているのに対し、ジャネットは才能と積み重ねた努力で歌っていて、
少女の声は清らかで替え難いが、私の深い感動はジャネットにあった。
どれほどに普段の生活から歌うことだけに向けて注意深く暮らしているかを、
この声を聴くとよくわかるからだ。

映画「FURY」は、戦争と戦車の映画である。
第二次世界大戦が舞台で、主役は戦車とブラッド・ピットである。

描かれていることは、
戦争の非常さや狂気、命の儚さ、僅かな愛情、友情、などであるが、
たったひと言に収めるなら、
「戦うことの意味」であるだろうと思う。

私は、賛美歌が好きだ。
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サウンド・オブ・サイレンス(加筆・追記アリ)

2018-12-09 18:18:39 | youtube



サウンド・オブ・サイレンス(加筆・追記アリ)

youtubeでたまたま見つけたこの動画。どうせ自己満足いっぱいのカバーなんだろう、
と見ずに飛ばそうとしたが、まあ出会い頭の一発があるかもしれないと見たら、よかった。
実によかった。

まったく知らない歌手だが、エマ・ルイスというオーストラリア出身の人らしく、
まだ若いながらもキャリアは5年ほどあるという。

この声。甘くて投げやりな表現力。そして音感が特筆レベルに良い。
彼女が歌う他の曲(オリジナル?)も聴いたが、他はうーんという感じ。

この1966年のサイモンとガーファンクルの曲と彼女の声が化学変化を起こしたのかもしれない。
もちろん私の個人的な意見である。
これはやっぱり名曲だな、とつくづく思った。
そしてハモる男も上手い。ハスキーさん。知らないけど上手い。ギターも相当に上手い。

そして、バックを務める老練な3人男たち、この人たちが地味だがまた上手い。
おそらくカントリー系のスタジオミュージシャンなのか、
安定のリズムにヒラヒラしたテレキャスのシングルコイルの音が
歌の邪魔にならない、しかし、なくてはならない存在感で、私の好みである。
さらにベースも、よく聴くとかっこいい。

このたった5人でこの厚みだからね。

━━━━以下、追記。

それで、このエマ・ルイスを聴いた時に、誰かを思い浮かべたのだが、
それが誰だったか、なかなか思い出せず、しかしやっと思い出した。

エミリアーナ・トッリーニだ。

このエミリアーナさんの顔も私は知らないのだが、以前からけっこう好きで、
彼女の一番有名な曲はおそらく「ゴラムの歌」だろう。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」の挿入歌で、
最初はビョークが歌うはずだったが、何かの都合で、
当時、無名に近かったエミリアーナが歌うことになったという曲である。

まあそれは置いといて、
重ねて言うと、エマ・ルイスを聴いたらエミリアーナを思い出した。
それでYoutubeをあちこち見ていたら、知らなかったが、
実はエミリアーナも「サウンド・オブ・サイレンス」歌っていた。
彼女にしては、かなりクセを抑えて歌っているように感じる。



しかし、エマ・ルイスに直接に影響したのは、
以前にもここに貼ったことのあるNouelaという人が歌うバージョンだろうか。



相関に詳しくはないので、それらの影響についてまったく断定はできないわけだが、
ここで言いたいことは、誰が最初にそれをやったか、ではなく、
すでにオリジン、オリジナル、オリジナリティという意味が薄れつつある昨今、
「Sound Of Silenc」という50年以上前の名曲はスタンダード化していて、
いわばファッション業界におけるクロスやスカルと同じで、つまりモチーフになっていて、
後はそのモチーフをいかに新しい切り口で、もしくは深い部分に迫ることで、
元の魂を昇華させることが出来るか、が表現方法のひとつではないか。
と、あたりまえのことを何か凄いことのように書いてみたが、

いや、本当に言いたいことはそういったことでもなく、
エマ・ルイスとハスキーさんのデュエットでの「Sound Of Silenc」は、
そんな誰の影響とかオリジナルとかという我々の詮索に関係なく、
その到達したレベルは大変に高く、何事にも一切毀損されることはない。

ただし、それでも私が最初の方に書いたように、
あまりに「Sound Of Silence」のカバーが良すぎて、彼女の他の曲、
おそらくオリジナルだと思うが、それらが私には少し色あせて聴こえてしまう現象は、
どんな表現物、表現者にもあり得ることで、
カバーしたことを安易だったとは思わないし、ぜったいにそうは書かないが、
デュエットの良さが私たちの耳に残ってしまい、
彼女単独の歌声に何か物足りなさを感じてしまうことに今後ならないだろうか。

最初に二人のミックスした声で名曲を聴いてしまうと、今度は、
単独の声ではどうしても満足出来なくなりかねない。
もちろん、そこを超えてゆく圧倒的な何かがあればさらに世界を広げてゆけるわけだが。

今日、とくに言いたいのは、イメージという化け物の恐ろしさである。
価値は減っていない。しかし、減ったように感じる、ということ。
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カワサキのファイナルの意味

2018-12-06 19:41:10 | Diary


最近、驚いたというか苦笑してしまったことがあり、それは、
Kawasaki。バイクのカワサキの話である。

カワサキのバイクラインナップに長くWという車種があり、
もちろん私などが説明するまでもないほどに有名なバイクなのだが、
たとえばメグロから始まり、W1、W3、最近のW650、W800、と続いてきたが、
私の記憶では、2016年にとうとう生産終了となり、豪華版のファイナルエディションが出た。

生産終了の理由は、古い設計のエンジンなので、
排ガス規制が通らなくなってきたことが大きな要因だと言われていた。

オールドファッションの空冷2発など他メーカーにはとっくになくなっているし、
しかもあのエンジンの造形の美しさを充分に認めていた私は、
そうか、とうとうWも終りか。なんとかして買ってしまおうかな。
などと思ったりもした。

しかし今さら重量200キロ以上のバイクに乗る気もしないから、
そのまま忘れて時間が過ぎたわけだが、つい最近、イタリアのショーにて、
カワサキから2019年新型W800が、しれっと発表された。

ファイナル・エディション(最終版)とはなんだったのか。
ファイナルという言葉の意味と疑問はどこに帰結するのか。
要するに、何が「終り」なのか。

私は客でもないのにメーカーに問いたいわけだったが、面白いことに、
カワサキのファンは、そんなことにまったく拘泥せず、
「新型、出たか」などと騒いでいるのだ。

つまり、私だけがまだカワサキに対して初心だっただけのことで、
他はぜんぜん「ファイナル」などという言葉に惑わされはしなかった。
皆「ファイナル」を、よくある「閉店セール」程度にしか考えていなかったのだ。

しかしなぁ。
あの三菱だって、エヴォルーションをファイナル・エディションできちんと終えたわけだし、
普通、ファイナル(最終)なら、それで終りだと思うが、などと、くどくど考えている。

ということは、KLXもファイナルはとっくに出ているが、それも新型が出るのだろうか。
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夢の羅列<駐車場にて・part8・最終話> 20180922 採取

2018-12-01 18:01:18 | Dreams
夢の羅列<駐車場にて・part8・最終話> 20180922 採取


夢の中の暗い駐車場で小用を足そうとするも、工事関係者たちが現れ小用は中断し、
半ケツのまま自分の車に逃げ込み安堵するも尿意は未だ激しく、
しかも暗い車内の私を目敏く見つけ窓を叩く知り合いや、
屋台の女将らからのコンタクトが続けてあったが、ようやくそれをかわし、
やっと外に出て、トイレを探し明るいビルの入り口から入るとなぜか先が壁で、
足下に通れそうな隙間はあったが、そこを滑り落ちる勇気もなく憤慨し、しかし
回りをよく見てみると、あっさり下り専用のエスカレーターがあった。



よし、降りるか。
危険は感じられなかったので、私はエスカレーターの動くステップに足をかけ乗った。

足下に微かな振動を感じながら階下へ降りてゆく。
このエスカレーターは短いから、すぐに地下のコンコースが見渡せるようになった。
エスカレーターの最後でステップが飲み込まれてゆくと同時に私は地下に降り立った。

ところが、行く手にはなぜかトランクや旅行バッグなどが2〜30ほど進行方向へと雑に並び、
まるでここが空港の荷物受け取りの場所であるかのようなことになっていた。

エスカレーターの下る勢いがついたまま床に降り立った私はそのトランクやバッグを
「はっ、ほっ、はっ、」と障害物競争のように右に左に、そして跳んで躱して進んだ。

最後のバッグを無事通過したときには、両手をV字に挙げてみたかったが、
さすがに人目につくことを避けたい年頃なのでそれはやめて、
何気なく、さりげなく、ごく自然に、地下の雑踏に紛れた。

音はざわめきに静か。夢は光に昏く。歩けど、あてどもない。

おわり。
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