10のつづき。
“美輪明宏が本物か偽物かを考える時、
「銀巴里」を忘れることはできない。”
と9に書いた。
銀巴里は1951年に開店し、1990年にその歴史を閉じた。
美輪明宏は開店の翌年1952年から閉店まで出演している。
銀巴里はシャンソン喫茶で、コーヒー代でシャンソンの生歌を聴くという店であった。
私は前にも書いたように行ったことがないから、店の内情などを知らないが、
もともとはダンスホールで、美輪が出演をするようになった後の1955年に改装を施し、
シャンソン喫茶として新装開店したらしい。
あちこちの資料を読むと、どうやら、
店の舞台に関することはほとんど美輪が任されていたようだ。
キャパシティは着席制だから、せいぜい100人。
コーヒー代だけで、観ることのチャージはなし。だと思う。
そのうちコーヒー代が上がったにせよ、2000円くらいの様子だ。
結局、経営難で1990年に閉店したが、
あれほどの名店を誰も継ごうとしなかったのは、
やっぱりどうやっても儲からなかったからだろう。
少し考えただけでも、
出演者のギャラや銀座の賃貸料、機材、など、
コーヒー代くらいではとてもやっていけない。
それに、
最初は「歌う場所さえあれば」という出演者も
それなりに有名になってくれば、出演料も上がってくるだろう。
払わなければ同様他店に移籍する人もいただろうし、
ただ、このへんのことは実際には知らないし、
とても微妙で難しいからこれ以上は推測では書けない。
そんな場所で美輪は全責任を持ったまま、
ほとんど40年を貫き通した。
その40年の間に何度も自らの世間的なブームを持ちながら、である。
“美輪明宏が本物か偽物かを考える時、
「銀巴里」を忘れることはできない。”
と9に書いた。
銀巴里は1951年に開店し、1990年にその歴史を閉じた。
美輪明宏は開店の翌年1952年から閉店まで出演している。
銀巴里はシャンソン喫茶で、コーヒー代でシャンソンの生歌を聴くという店であった。
私は前にも書いたように行ったことがないから、店の内情などを知らないが、
もともとはダンスホールで、美輪が出演をするようになった後の1955年に改装を施し、
シャンソン喫茶として新装開店したらしい。
あちこちの資料を読むと、どうやら、
店の舞台に関することはほとんど美輪が任されていたようだ。
キャパシティは着席制だから、せいぜい100人。
コーヒー代だけで、観ることのチャージはなし。だと思う。
そのうちコーヒー代が上がったにせよ、2000円くらいの様子だ。
結局、経営難で1990年に閉店したが、
あれほどの名店を誰も継ごうとしなかったのは、
やっぱりどうやっても儲からなかったからだろう。
少し考えただけでも、
出演者のギャラや銀座の賃貸料、機材、など、
コーヒー代くらいではとてもやっていけない。
それに、
最初は「歌う場所さえあれば」という出演者も
それなりに有名になってくれば、出演料も上がってくるだろう。
払わなければ同様他店に移籍する人もいただろうし、
ただ、このへんのことは実際には知らないし、
とても微妙で難しいからこれ以上は推測では書けない。
そんな場所で美輪は全責任を持ったまま、
ほとんど40年を貫き通した。
その40年の間に何度も自らの世間的なブームを持ちながら、である。