今、ニカラグアのジャバニカ種(javanica)を淹れて飲んだのだが、これが美味い。
シティローストだが、焙煎の熱にも柑橘系の酸味を失わず、しかし
コクは増して、甘みが口に残り、後味もクリーンである。
焙煎日は一ヶ月以上前だが、真空パックで、今日封切りした。やはり、
良い焙煎だと2ヶ月は美味しく飲めるというものだ。
もちろん私が焙煎したわけではなく買ったものだが、
他にその時に一緒に買ったゲイシャ種もあり、それも楽しみだ。
2パック買ったゲイシャは値段の高いパナマではなく、コロンビアなのだが、
最初のパックを飲んだ感想からすると、時間の経った味の変化にも期待ができる。
とはいうものの、コーヒーは本当に難しい。
飲む度に痛感している。
飲めば飲むほど、その難しさが新しい壁となって立ち塞がるのだ。
私はそれほど味覚に才能がなかったらしく、
コーヒーにしても結局のところ「美味いか不味いか」で判断しているにすぎないが、
それでも長年けっこうな量を飲み重ねてくると、さすがに不味さには敏感になってきて、
それが「コーヒーという種類の飲料」であっても飲めないものが増えてくる。すると、
私はべつにコーヒーに関する仕事を将来やりたいわけではないから、
そんなに味にうるさくなっても、自分で自分の首を絞めているだけではないだろうか、
と最近ふと思うようになってきた。
理由の一つは、まず外でコーヒーを注文できなくなりつつある。
知らない店だと、どんなコーヒーが出てくるのかわからず、それが怖い。
もし不味かったら飲みきる自信がないし、そこが専門店であったら、
カップにたっぷりと残す心の強さもないのだ。
席の近くに植木でもあれば鉢に流してしまうのだが、いや、
植木もかわいそうだしなあ。
つい先日、ある店のブレンドコーヒーが劇的に美味かったことを思い出し、
久しぶりに行ったが、その日はクリーンさに大きく欠けた印象を受けた。
コクとしつこさは性格の違う兄弟なので、
コクがあって、なおかつクリーンである、というのはかなり難しいと思う。
ここで言いたいことは、以前と今回と飲んだコーヒーは同じはずなのだが、
感想がまったく違ったことは、味が変わったのか、それとも舌が変わったのか、
そのどちらかしかなく、もし味が変わったのならそれでもいいが、しかし、
舌、私の味覚が変わったということなら、これはこれでやっかいなことである。
上にクリーンと表現したが、これは何かというと、つまり濁りのない味を指すのだが、
しかしクリーンならそれでいいのかというと、私はそれを求めるが、
クリーンさは「あっさり」に似ていることもあり、だから、
そんな味気ないものは飲んだ気がしない、という人もきっと多くいるはずだ。
例えば高速のSAによくある自販機のコーヒー、あのコーヒールンバの鳴るやつだが、
私はとてもじゃないが、あれは飲めない。飲めなかった。先日ひと口で捨てた。
しかし、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むことを想定するなら、
あのマディな味がかえってしっかりとしたコクになって、きっとそれを好きな人はいるだろう。
まったくそのことを否定しない。
長距離のトラックドライバーなんかが、ああいった味を好むとすれば、わかるような気がする。
私が同じ立場で、500キロをノンストップで走ってきたら、美味いときっと唸るだろう。
ニュアンスの似ているものに、千葉の漁師たちが好きなマックスコーヒー(缶)があり、
あの甘いだけの缶飲料をやはり私は飲めないが、まったく否定をしない。
海に出て身体も軋む労働をしてみれば、クリーンもアシディティもへったくれも、ないと思う。
……何を書きたかったのか。
あそうか。
これほど金と努力と時間と集中を使ってやがて手に入るものは何かというと、
けっこうなレベルの不便ではないか、ということを最近になって考えている、ことか。
まったくその通りだ。
インスタントで満足できたなら、こんなに便利なことはない。
時間も金もスリフトである。
たまに外で飲むコーヒーがきっと十分にトリートになりうるだろう。
しかし、まあコーヒーのことくらいだったらどうにでもなるが、
他にも、どうしても知りたがったが、やはり知らない方がよかった、ということはよくある。
おわり。
シティローストだが、焙煎の熱にも柑橘系の酸味を失わず、しかし
コクは増して、甘みが口に残り、後味もクリーンである。
焙煎日は一ヶ月以上前だが、真空パックで、今日封切りした。やはり、
良い焙煎だと2ヶ月は美味しく飲めるというものだ。
もちろん私が焙煎したわけではなく買ったものだが、
他にその時に一緒に買ったゲイシャ種もあり、それも楽しみだ。
2パック買ったゲイシャは値段の高いパナマではなく、コロンビアなのだが、
最初のパックを飲んだ感想からすると、時間の経った味の変化にも期待ができる。
とはいうものの、コーヒーは本当に難しい。
飲む度に痛感している。
飲めば飲むほど、その難しさが新しい壁となって立ち塞がるのだ。
私はそれほど味覚に才能がなかったらしく、
コーヒーにしても結局のところ「美味いか不味いか」で判断しているにすぎないが、
それでも長年けっこうな量を飲み重ねてくると、さすがに不味さには敏感になってきて、
それが「コーヒーという種類の飲料」であっても飲めないものが増えてくる。すると、
私はべつにコーヒーに関する仕事を将来やりたいわけではないから、
そんなに味にうるさくなっても、自分で自分の首を絞めているだけではないだろうか、
と最近ふと思うようになってきた。
理由の一つは、まず外でコーヒーを注文できなくなりつつある。
知らない店だと、どんなコーヒーが出てくるのかわからず、それが怖い。
もし不味かったら飲みきる自信がないし、そこが専門店であったら、
カップにたっぷりと残す心の強さもないのだ。
席の近くに植木でもあれば鉢に流してしまうのだが、いや、
植木もかわいそうだしなあ。
つい先日、ある店のブレンドコーヒーが劇的に美味かったことを思い出し、
久しぶりに行ったが、その日はクリーンさに大きく欠けた印象を受けた。
コクとしつこさは性格の違う兄弟なので、
コクがあって、なおかつクリーンである、というのはかなり難しいと思う。
ここで言いたいことは、以前と今回と飲んだコーヒーは同じはずなのだが、
感想がまったく違ったことは、味が変わったのか、それとも舌が変わったのか、
そのどちらかしかなく、もし味が変わったのならそれでもいいが、しかし、
舌、私の味覚が変わったということなら、これはこれでやっかいなことである。
上にクリーンと表現したが、これは何かというと、つまり濁りのない味を指すのだが、
しかしクリーンならそれでいいのかというと、私はそれを求めるが、
クリーンさは「あっさり」に似ていることもあり、だから、
そんな味気ないものは飲んだ気がしない、という人もきっと多くいるはずだ。
例えば高速のSAによくある自販機のコーヒー、あのコーヒールンバの鳴るやつだが、
私はとてもじゃないが、あれは飲めない。飲めなかった。先日ひと口で捨てた。
しかし、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むことを想定するなら、
あのマディな味がかえってしっかりとしたコクになって、きっとそれを好きな人はいるだろう。
まったくそのことを否定しない。
長距離のトラックドライバーなんかが、ああいった味を好むとすれば、わかるような気がする。
私が同じ立場で、500キロをノンストップで走ってきたら、美味いときっと唸るだろう。
ニュアンスの似ているものに、千葉の漁師たちが好きなマックスコーヒー(缶)があり、
あの甘いだけの缶飲料をやはり私は飲めないが、まったく否定をしない。
海に出て身体も軋む労働をしてみれば、クリーンもアシディティもへったくれも、ないと思う。
……何を書きたかったのか。
あそうか。
これほど金と努力と時間と集中を使ってやがて手に入るものは何かというと、
けっこうなレベルの不便ではないか、ということを最近になって考えている、ことか。
まったくその通りだ。
インスタントで満足できたなら、こんなに便利なことはない。
時間も金もスリフトである。
たまに外で飲むコーヒーがきっと十分にトリートになりうるだろう。
しかし、まあコーヒーのことくらいだったらどうにでもなるが、
他にも、どうしても知りたがったが、やはり知らない方がよかった、ということはよくある。
おわり。