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首を締めるCoffee

2018-10-30 18:32:20 | コーヒー
今、ニカラグアのジャバニカ種(javanica)を淹れて飲んだのだが、これが美味い。
シティローストだが、焙煎の熱にも柑橘系の酸味を失わず、しかし
コクは増して、甘みが口に残り、後味もクリーンである。

焙煎日は一ヶ月以上前だが、真空パックで、今日封切りした。やはり、
良い焙煎だと2ヶ月は美味しく飲めるというものだ。

もちろん私が焙煎したわけではなく買ったものだが、
他にその時に一緒に買ったゲイシャ種もあり、それも楽しみだ。

2パック買ったゲイシャは値段の高いパナマではなく、コロンビアなのだが、
最初のパックを飲んだ感想からすると、時間の経った味の変化にも期待ができる。

とはいうものの、コーヒーは本当に難しい。
飲む度に痛感している。
飲めば飲むほど、その難しさが新しい壁となって立ち塞がるのだ。

私はそれほど味覚に才能がなかったらしく、
コーヒーにしても結局のところ「美味いか不味いか」で判断しているにすぎないが、
それでも長年けっこうな量を飲み重ねてくると、さすがに不味さには敏感になってきて、
それが「コーヒーという種類の飲料」であっても飲めないものが増えてくる。すると、

私はべつにコーヒーに関する仕事を将来やりたいわけではないから、
そんなに味にうるさくなっても、自分で自分の首を絞めているだけではないだろうか、
と最近ふと思うようになってきた。

理由の一つは、まず外でコーヒーを注文できなくなりつつある。
知らない店だと、どんなコーヒーが出てくるのかわからず、それが怖い。
もし不味かったら飲みきる自信がないし、そこが専門店であったら、
カップにたっぷりと残す心の強さもないのだ。

席の近くに植木でもあれば鉢に流してしまうのだが、いや、
植木もかわいそうだしなあ。

つい先日、ある店のブレンドコーヒーが劇的に美味かったことを思い出し、
久しぶりに行ったが、その日はクリーンさに大きく欠けた印象を受けた。
コクとしつこさは性格の違う兄弟なので、
コクがあって、なおかつクリーンである、というのはかなり難しいと思う。
ここで言いたいことは、以前と今回と飲んだコーヒーは同じはずなのだが、
感想がまったく違ったことは、味が変わったのか、それとも舌が変わったのか、
そのどちらかしかなく、もし味が変わったのならそれでもいいが、しかし、
舌、私の味覚が変わったということなら、これはこれでやっかいなことである。

上にクリーンと表現したが、これは何かというと、つまり濁りのない味を指すのだが、
しかしクリーンならそれでいいのかというと、私はそれを求めるが、
クリーンさは「あっさり」に似ていることもあり、だから、
そんな味気ないものは飲んだ気がしない、という人もきっと多くいるはずだ。

例えば高速のSAによくある自販機のコーヒー、あのコーヒールンバの鳴るやつだが、
私はとてもじゃないが、あれは飲めない。飲めなかった。先日ひと口で捨てた。
しかし、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むことを想定するなら、
あのマディな味がかえってしっかりとしたコクになって、きっとそれを好きな人はいるだろう。
まったくそのことを否定しない。
長距離のトラックドライバーなんかが、ああいった味を好むとすれば、わかるような気がする。
私が同じ立場で、500キロをノンストップで走ってきたら、美味いときっと唸るだろう。

ニュアンスの似ているものに、千葉の漁師たちが好きなマックスコーヒー(缶)があり、
あの甘いだけの缶飲料をやはり私は飲めないが、まったく否定をしない。
海に出て身体も軋む労働をしてみれば、クリーンもアシディティもへったくれも、ないと思う。

……何を書きたかったのか。

あそうか。
これほど金と努力と時間と集中を使ってやがて手に入るものは何かというと、
けっこうなレベルの不便ではないか、ということを最近になって考えている、ことか。

まったくその通りだ。
インスタントで満足できたなら、こんなに便利なことはない。
時間も金もスリフトである。
たまに外で飲むコーヒーがきっと十分にトリートになりうるだろう。
しかし、まあコーヒーのことくらいだったらどうにでもなるが、
他にも、どうしても知りたがったが、やはり知らない方がよかった、ということはよくある。

おわり。

Diary 20181020 見る

2018-10-20 21:12:07 | Diary
昨日の夕方、まだ暗くはない道を歩いていたら、先で何かの作業をやっているのが見えた。
そのまま進むと、それは寺の塀から大きく飛び出した枝を伐採していたのだった。
それもけっこうな量で、警備員を2人、道の上手下手につけての作業だった。

道は寺の長い塀に沿った一通の裏道なので広くはない。
そこにバサバサと枝をエンジンカッターで切り落としているのだ。
近づきながら視線を枝から道に移すと、
小学校2年生くらいの女の子が警備員に話しかけているのが目に入った。
「何をしているんですかぁ」
まだ私は少し離れていたから聞こえなかったが、そんなことを言ったに違いない。

「伸びすぎた枝を切り落としているんですよ」
と警備員が答えたのはさらに近づいた私にも聞こえた。
「ふーん」と女の子。
そして数秒、黙ったまま感心したように切られる枝を見てから、そしてひと言。
「がんばってくださいね。」と小さな手を小さく目の前の警備員に振った。

ちょうどその時、私は女の子と警備員の間を通っていたから、
女の子の声も聞こえたし、顔もちらっと見えた。
のんびりとした顔である。
間延びした声である。

まるで時間の感覚が他の人の3倍も遅いかのような目の光。
「いえ、あ、はい。どうもありがとうございます」
恐縮というか、変に狼狽している警備員。

昨今の、なんでも速いことが有用で、遅いことは価値がない、というような風潮の中、
ああ、こんな子まだいるんだなあ、と私は思った。
きっとなんの警戒心も持っていないのだろう。
帰り道を急ぐということを知らないのだろう。
その佇まいがどうにも無垢すぎるのだ。
二人を少し過ぎてから軽く振り返って見ると、まだ彼女は立ち止まったまま話かけていた。

ああいった子は遺伝じゃなく、突然この世に現れるのではないか。
私の知識というか、経験というか、感覚というか、勘というか、適当というか、
まあそんな思いがある。
「誰にでも陽気に多弁に話しかける」性質が顕著にみられるウイリアムズ症候群という
先天性の特性が知られているが、それを思い出した。

その特性は、まるで人懐こい犬のようだとも称されるというが、
人との壁をまるで作らない、とも、現代の妖精である、とも知られているらしい。

あの彼女がそうだとは言っていないが、しかし、あの小さい女の子の目を一瞬だけ見た時、
と同時に、「がんばってくださいね」という警備員への声を聞いた時、
私まで優しさに包まれたような気がした。
なにか浄化されてしまった気がした。
幸い私を見てはいなかったが、目の光には一切の屈折がなかった。
その光は「人の心を見通す」というような意識の高さも全くなかった。
ただ純粋に「見る」だった。

「見る」以外には何もなく、そして彼女はきっと無力だった。
しかし区別なく、目をそらさず「見る」。
ただ「見る」だけ。見続けるだけ。
直接的には誰をも助けない。救わない。そんな意識もない。
しかしあの時、第三者の私でさえ少し心が軽くなった気がした。

Diary 20181014 Never Let Me Go

2018-10-14 14:42:38 | 映画
先日、CS放送で映画「Never let me go(邦題-私を離さないで)」を途中から観た。

これは、日系イギリス人のカズオ・イシグロの著作を原作にしている作品だが、
主題は重く、ここに書くのも憂鬱になるのだが、概略を無理に三行で言うと、

臓器提供のために作られたクローン人間たちのある男女3人に焦点を当て、
その短い生涯においての希望や、それを打ち砕く真実や、絶望や、普遍的な疑問などを、
クローンではない普通の人間の葛藤と現実とに相対させ、静かに、重く描いた作品。

というところだろうか。

こんな説明では著者の思いや、作品の核にはまったく届かないわけだし、
私も途中からの視聴につき、ここで語れるほどよくわかってもいないことは承知している。

映画をなんとなく観ながら、主役のキャシーを演じた女優に見覚えを感じていた。
いつも含み笑いをしているような、はにかんだような顔立ち。
最近の俳優をほとんど知らないが、しかしこの女優は見たことがある、と思った。
後で検索してみると、女優はキャリー・マリガン。
検索を進めると、ああ、これか、「ドライブ」。

「ドライブ」はやはりCS放送で観た映画だった。

謎めいた過去を持つ寡黙な主人公は、特異に備えた運転の才能により、
犯罪者の逃亡を助けるという裏仕事を請け負っていた。
ある日、自分の部屋の隣に幼い子供と住む人妻と知り合い、やがて惹かれ合う。
しかし刑務所を出所してきたその人妻の夫を助けるために手を貸したことが発端で、
マフィアおよびその下部組織からの粛清の対象になってしまうが、
夫を殺された人妻を守るために男は独り暗闇を疾走するのだった……。

という内容だった記憶があるが、その人妻がキャリー・マリガンだった。

話を「私を離さないで」に戻すと、先にも書いたが、
これは昨年、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの小説を原作としていて、
クローン人間が登場するといっても未来の話ではなく、
設定は1960年から1990年くらいであり、もしも世界が私たちの知っている設定と違っていたら、
という創作世界を舞台にしている。

などと語り始めた私はカズオの著作をひとつも読んでいないので、
話の内容についてこれ以上は何にも書くことをしないが、
話の設計方法を考えたとき、SF作家のフィリップ・K・ディックを少し思い出した。

フィリップ・K・ディックは、ご存知の通り映画「ブレード・ランナー」の原作者だが、
原作はもちろん「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」で、
しかしこの小説は相当に集中して読まないと理解が難しい。
全編まるで深い霧の中を彷徨っているような感触で、
主人公の記憶と思考とが混乱混線していくことにつき合わなければならず、
読み易くはない。といっても、私はもうほとんど内容を忘れているのだが。

読みにくいといえば、話はまた飛ぶが、
先日、図書館のリサイクル処分本の棚に、アンドレ・マルローの「王道」を見つけ、
それは以前からきっかけがあれば読んでみたいと思っていた小説だったから、
しかも返す面倒のない処分本ということで、
同じ棚のもう一冊、ミラン・クンデラの「生は彼方に」と合わせて2冊をもらって帰った。

しかし、もうこの2冊とも読み難いことこの上なく、
何が書いてあるのか頭にぜんぜん入ってこない。
苦痛が先に立ち、読解する気にもならず、どちらも諦めて、
次に図書館に行ったときに、元の棚に置いてきた。

私はどうも訳ものに弱い。
少し読んで文体や言葉使いが自分に合わないとすぐに諦めてしまう。
句読点の付け方が気に入らないだけで読み進めるのを考えてしまう。
逆に、純日本文学の宮尾登美子なんか、いくらでも読めるのだが。

結局のところ、何を書いているのかわからなくなってきた。

カズオ・イシグロを読んでからまた書いてみようかな。

Diary 20181007

2018-10-07 16:03:11 | Diary


「♪リハビリはノーノーノー。」

なぜか急に思い出した。