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夢の羅列<夜の蟋蟀>

2015-08-31 18:58:09 | Dreams



夢の羅列<夜の蟋蟀>


喝采に包まれていた。
拍手とブラボーの嵐、大喝采のまるで津波であった。

私は感極まりながら指揮台の上で観客に頭を下げた。
よかった。
今までやってきたことが報われた瞬間だった。
何もかも無駄ではなかったのだ。
すべてが無駄であるように見えながら、
すべてを無駄かもしれないと思いながら、
やってきた。
やってこなかった。
やったような気がした。
そんな無駄のピースたちが嵌まりきって、ひとつの形を作った時、
大きな意味のオブジェと成り、
私はとうとう今、全身に喝采を浴びているのだった。

ところが頭を下げたと同時に戦慄が背筋に走った。
全裸であった。
指揮台の上でたった今生まれたかのようであった。
隠す物といえば、指揮棒ただ一本であった。
誇れはしないが、もちろん誇りもしないが、
さすがに指揮棒一本では隠せなかった。

まあこんなこともあるさ。
今さら慌てても仕方がないではないか。

私は力みもせず、戯けることもなく、
見せるでもなく、隠すでもなく、
自然体に堂々とし、
観客に微笑みを返した。
でも、
「何かがおかしい」と思いながら。

演奏したのは
「リオデジャネイロ」という組曲だった。
副題として、
「残りものはママにあげる」が添えられていた。

曲の全体を通して粘り着くようなラテンのリズムが刻まれ、
左右対極ステレオに配置されたストリングスが
対位法、フーガをその左右が絡み合うように自在に演奏した。

7歳の少女が歌うアリアこそは圧巻だった。
歳暮のハムのような子だったが、
声は天使そのもの。
薄い羽衣のようなドレスがよく似あっていた。

素朴な歌い出しは単なる助走で、
中盤から徐々に恐るべき才能を見せ始めた。
しかし決して技巧だけに走らず、
アリア終盤では
とうとう作曲者すら驚愕するほどの命が歌に吹き込まれ、
天に突き抜けていくかのような光の声は、
明らかにその場すべてを支配した。

曲の途中でありながらも客はもう座っていられず、
早くもスタンディングオベーションであった。
私も指揮台から飛び降りて、
まん丸顔の天使を抱きあげたい衝動に駆られた。

その指揮台のバーには空色のオウムが演奏前からとまっていた。
演奏中も、終わった今も壊れたように
「日曜日にキテネ。日曜日にキテネ」と叫んでいるのだった。
どこから来て、何のためにここにいるのか、このオウムは。

何かおかしい。

さすがに意味がわからない。
しかも手の指揮棒は、いつの間にかケン玉に変わっているのだった。

気がついた観客たちが「やれ」とまたやんやの大歓声である。
しかも調子づいた司会者が私に、ケン玉をやりながら、
「恋をした二十歳の時のキモチ」をスピーチしろというのだ。

やっぱり何かがおかしい。
私はそう考えながらも玉を下に垂らし構えた。
これ、得意じゃないんだよなあ。
構えた私を見てまた大喝采。

その時ふいに、どこからか風が吹いてきた。
やけに冷たい風が私の顔のあたりを冷やすのだった。
「あれ」
僅かな疑念が台に立ってる感覚を消してゆくようだった。
オウムの声も遠ざかってゆく。
深い沼の底からすうっと浮かび上がるように、
私は現実の薄暗い部屋のベッドに戻ってきた。

外はザーッと激しい雨音である。
目を少し開けると、窓のカーテンが風に揺れていた。

「喝采か」
私は目を閉じた。
閉じればまた現実感は夢に咲く睡蓮のように浮遊するのだった。
ふわふわとしたまま、さっきまで見ていた夢を何度も反芻した。
現実と夢の一歩手前を行きつ戻りつしながら、
演奏曲やオウムや少女を思い出したりした。
そしているうちに段々とはっきり覚醒してきた。

コーヒーでも淹れるか。
そうだ猫にエサをやらなければ。

いつの間にか雨脚は弱まり、
日もすっかり暮れて、
どこか暗がりでコオロギが鳴いている。

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高い城の男

2015-08-22 23:59:58 | Diary



一時期のあの暑さはどうしたのだろう。
あれに比べると、
30度くらいは「涼しいな」と思う。

1週間ほど続いたあの猛暑の日の昼間、
あまりの暑さに仕事が手につかず私は、
浴槽に水を張って入ってみたのだった。

エアコンで「部屋がキンキンに冷えている」という状態が
苦手な私は水中に活路を求めたわけなのだが、
これがよかった。
実によかった。
すごく快適で、
それからの猛暑の日々には、
日に3度くらい水に頭まで沈めた。

次亜塩素酸を少し入れると、
これはプールの消毒剤なので、
なんとなく「夏」の匂いになるのもよかった。

しかし頭まで水に沈めたままだと、
そのうち浮かべなくなってしまうので、
「そうだ。ここで本を読もう」とひらめき、
昼の一番暑い時間に1時間くらい、
水に浸かったまま本を読むことが
しばらくの間、日課になった。

買っておいたフィリップ・K・ディックや、
小泉八雲を読んだ。

小泉八雲はまあ「小泉八雲」なんだけど、
P.K.ディックを読むことは、なかなか難しい。

有名な作家だから改めて説明することもないのだが、
リドリー・スコットの「ブレードランナー」の原作になった
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を書いた人だ。

原作と映画では追求点が違うのだが、
やっぱり映画が名作すぎたということが特筆される。

P.K.ディックも映画の脚本に反対しつづけていたが、
リドリー・スコットのフィルムを見た途端に、
完全支持に回ったという。

いろいろな考え方があるわけだが、
映画では、
「本当に生きていることとは」
という部分を主題にしている、かな。

原作でも同じように、
「生命とは」を主題にしているが、
「生きていることにはどんな意味があるのか」と
問われているような気がする。

それは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のさらに
元になった短編「小さな黒い箱」に顕著で、
読後にバリバリと仕事をする気は決して起きない。

P.K.ディックの著作にはほとんどが
「現実と虚構」「自分の意識は本当はどこにあるのか」など、
後の映画マトリックスや、デイビッドリンチなどの作品に顕れる
形而上的世界が物語の奥に潜んでいて、
はっきり言って、これらを深く読み込んだ場合、
素質のある人は統合失調症を発症しかねないと思う。

話を戻して、
猛暑の水中で読んだのは「高い城の男」だった。

第二次世界大戦で、日本とドイツが勝ち、
アメリカ大陸を分割統治しているという設定の物語である。

その物語の中で、
「もしもアメリカ及び連合国が勝っていたら」という設定の
小説が人々によって読まれている。

P.K.ディックの作品の中では読みやすい。
錯綜につぐ錯綜ということもない。

とはいっても、
読み始めたら最後まで一気に読んでしまう、というように
面白いかというと、そんなこともない。

活劇ではないから、
一々考えながら進まなくてはならないし。

物語を通して「易」が重要な位置で語られ、
「易」は「易経」ともいい、
私も「易経」を一冊持っているが、
「易」とはご存知の通り占いのことで、
偶然と必然を「易経」という回答書によって判断し、
今後の道筋を占うというもの。

ただし、
「易経」に書かれている文章は象徴詩的なので、
解釈によっては、どうとでも言える。
それに、
「易経」はどうしても翻訳文なので、
その翻訳が合っているのかという心配もある。
漢文は翻訳が難しいと記憶している。

だから、
出た目を3人の易者に解釈してもらいたい気がするのは
やはりタブーなのか。
まあそのへんの回避の仕方もきっと用意してあるのだろうね。

いや、決して占いを否定しているのではない。
ただ、せっかく「コイン投げ」など偶然の中の必然を、
言い方を変えれば「未知の力」を使っているのに、
理解するには「人の解釈」という仲介が入るという部分が
どうにももったいない気がする。

もっと言えば、
「無意識の力」で得た目を、
「意識の解釈」で占うという、ここに釈然としない。
まあいいんだけどね。

その東洋的「易経」を
決して日本人だけではない登場人物たちが場面ごとに使う。

この小説は最近、映画だか配信動画だかになったらしく、
日本での公開はいつなのかわからないが、
それなら「易」が流行るかというと、そんなこともないだろう。
「易経」は難しいからね。
難解なものは今の日本では流行らないと思う。
これが「コックリさん」だったら再ブレークだったが。

小説の最後は、
やはりF.K.ディック原作の
映画「トータル・リコール」みたいな感じがある。




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夢の羅列<エンジン>

2015-08-19 19:25:17 | Dreams
夢の羅列<エンジン>


夢の中で、
私は歩いていた。
それは起伏の多い、
たとえば横浜の保土ヶ谷あたりのような国道沿いの歩道だった。

「パン、パパン、ドパン、………、パン、…パン、ペシッ」

まるで規則正しくない単発のエンジン音が
歩く私の後方から聞こえてきた。
爆竹をあたりに投げ散らかしながら走ってきたかのようだった。

私は上り下りのちょうど頂きにいたらしく、
ガラクタバイクは私がずっと歩いてきた坂の下から上ってきた。

私の右側を通り過ぎた。
おお、サイドカーか。

ゴーグルにヒゲ、
GB的な革の上下というクラッシックな出で立ちの男二人が、
悪戦苦闘しながら私のすぐ横を通っていった時にはもう
エンジンがすでに死んでしまっていたのか、
「カシャーーーーー」というチェーンの乾いた音だけで、
あの不規則な爆発音はしなかった。

走りながら二人が怒鳴るように会話しているのが一瞬聞こえた。

ああ、わかった。
すぐに下り坂だから、そこでエンジンをかけ直そうというわけだな。

緩い右カーブをバイクは余力で下っていった。
そして勢いがついたように見えた時「カチャッ」と音がした。
ギアが入ったな。たぶん3速だろう。
僅かな間をおいて、「パンっ」
さらに、「パン、パパパパン、パンパン、ドパンパン」

お、かかった。

楽しそうだ。

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夢の羅列<ロングアイランド>

2015-08-17 20:35:00 | Dreams


夢の羅列<ロングアイランド>


夢の中で、
私はカクテルを作っていた。
何を?
ロングアイランド・アイスティーである。

ウォッカ、ジン、ラム、テキーラなど、
40度以上のスピリッツが4種入って、
実際はかなり強いカクテルではあるが、
飲むとなぜか不思議とアイスティーのような味なので、
ついつい飲み過ぎてしまう、というとんでもない代物である。
もちろんティーはまったく入っていない。

これを現実で最後に作ったのも、最後に飲んだのも、
えらい昔ではあるが、
夢の中で出来たグラスにスプーンを挿し、ちびっと味見をしてみると、
いや、これがなかなか悪くなかった。
まさにアイスティーの味を再現していて、
しかも絶妙な甘さ。

飲みやすいし、
飲ませやすいなあと、つくづく思った。

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なぜかシャンソンを語る 9 美輪明宏

2015-08-15 22:14:33 | なぜかシャンソン
8のつづき。

「黄色い頭が浮かんで飛んで行く」
という前回に書いた部分について、
今読み返したら、
当日、美輪さんが舞台の上で実際に黄色い頭だったか
よく憶えていないことに気がついた。

まあ、いいか。

それで、話の焦点は、
美輪明宏が「本物なのか偽物なのか」を結論づけよう
ということになってきたのであるが、
そこを判断するには他の何よりも彼の「行動」を見るべきだ、
と前回までに書いた。

「本物か偽物か」
もちろんこれは純金かメッキかを問うものではなく、
はたして24kなのか、それとも22kなのか、という私の疑問である。
言い方を変えると、
純粋なのか、僅かに混ざっているのか、だ。

その「行動」を考える時に忘れることが出来ないのが、
「銀巴里」というシャンソニエ、今でいうライブカフェが
1990年まで銀座7丁目にあったことではないだろうか。

私は残念ながら行ったことがない。

行けなくもない歳だったが、
閉店した1990年の時点で私は美輪明宏を
たぶんよく知らなかったのではないだろうか。

それ以前に銀巴里の名を微かに耳にした記憶はある。

六本木の小さなバーで、
ほとんど無名のピアノ弾き語りの女性歌手が
呟くように歌う暗く沈んだ曲をシャンソンと知り、
彼女が休憩時間に私に語った「時々は銀巴里に行く」
という情報の断片を、まだまだ若かった私は
「ふーん」という一言にもならないほんの相槌で片付けてしまい、
つまり私は銀巴里には行かなかった。

という後悔の念を行間に滲ませながらこのブログを
今頃トボトボ書いているわけであるが、問題は
美輪が「本物なのか、ほぼ本物なのか」である。

つづく。
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なぜかシャンソンを語る 8 美輪明宏

2015-08-08 21:06:53 | なぜかシャンソン
7のつづき。

リサイタル後半はシャンソンを美輪は歌った。

焼け野原に落ちる夕日のような色の舞台で、
シャンソンの歌詞に込められた物語を美輪は、
主人公が瞬時に乗り移ったかのように、
一曲数分間の世界を構築し、
我々にその夢を垣間見せ、
愛、あるいは狂気の余韻を闇に残して
幕間にその都度消えた。

一曲ごとの演劇を私たちは息をすることも忘れたように魅入り、
美輪が袖に消えると一斉に「ふーっ」と長い溜息をつくのだった。

そしてまた美輪さんは何事もなかったように舞台に現れて、
いろいろな話をし、
それが次の曲の前振りだったか
脈絡がなかったかはもう憶えていないが、
次の前奏が始まるとまた途端に瞬間的に
会場は新たな物語に包まれるのだった。

それを私は見ながら、
ああ、この人は如来か菩薩かインドの神様なのかもしれない、と思った。
まあ如来も菩薩も本来インドの神様なのだけれど、
少なくとも一神教の系統ではないなと感じた。

観ているうちに黄色い頭の美輪さんが浮遊して、雲に乗って、
飛んでいってしまうのでは、という感覚に満たされ始めた。
もし本当に飛んでいっても不思議ではないという気持ちだった。

そしてもうひとつ、
「ああ、この人は強いな」だった。

善悪を問わず飲み込んで溶かしてしまう超越性を感じた。

美輪さんについてはっきりと書いてしまえば、
私としては気に入らないところもあった。
具体的には、スピリチュアルだのオーラだの、
○○になれるアプリだの、である。

私はその日、そこの部分を見極めに行ったのだった。
「本物か偽物か」をである。

その日から後、長い時間を美輪明宏について考えたが、
結論から言うと、
私の小さな尺度では計りきれないのだった。

混沌としているからこその完成形という存在を理解するには、
私にはまだ早かった、ということか。しかし、

「本物か偽物か」
これを美輪明宏に問う時、私が判断の基準にするのは結局、
言葉ではなく、姿かたちではなく、行動である。

つづく。
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なぜかシャンソンを語る 7 美輪明宏

2015-08-04 20:58:29 | なぜかシャンソン
6のつづき。

美輪明宏は、日本人が伝承すべきこととして、
童謡や唱歌の重要性を説いている。
私もまったく賛成である。

メロディだけでなく、
歌詞に使われる言葉の格調の高さによる幼児教育の有効性を
美輪は説いている。
まったくその通りである。

リサイタル2部構成の前半をそのような曲調でまとめたことは、
並の歌手に出来ることではない。なぜなら、
後半のシャンソンとはまったくその趣が違うからだ。

唱歌や童謡を歌ってから、
それではあらためまして、シャンソンでございます。
といっても、聴衆はイメージの統一に苦しみ、
未消化のような気持ちのまま帰路につくことにならないか。

それをさせないためには、
ふたつのイメージを凌駕する、もしくは
つなげてしまうほどに強力なイメージが必要である。

それこそが美輪明宏という存在感で、
彼の、いや彼女の、いややっぱり彼の圧倒的な存在感が、
何もかもを飲み込んで、
咀嚼し、
あらためて旋律に乗せて歌う時に、
シャンソンや唱歌という枠ではなく、
「美輪明宏のうた」で統一され、
まったく違和感なく、
片や日本の伝承歌、片やフランスの色恋歌を
すんなりと私達に聴かせてしまう。

つづく。
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なぜかシャンソンを語る 6 美輪明宏

2015-08-01 09:21:28 | なぜかシャンソン
5のつづき。

(数年前の)
美輪明宏リサイタルの当日、車で行くのが一番楽で早いので、
環七を真っ直ぐ走り、すぐに着いた。

近くの店でコーヒーかなんかを飲んで、
すでに暗くなった人見記念講堂前で少しだけ並んで入場した。

たしかロビーに大きなふたつの花が飾られていた。
ひとつだったかな。
なにしろ、そのうちひとつの贈り主の名は「江原啓之」だった。
もちろん花からはオーラが噴き出していた、ような気がする。

…あの江原某という男、私ははっきりと嫌いだが、
歌はけっこう上手いんだよね。
上手そうに歌わなければもっといいのに、と思う。

会場ですぐに感じたのは、
「若い人が多いな」だった。
というよりも、
「若い人がいるな」か。

他のシャンソン歌手の会場では見られない光景だった。
とくに石井好子さんの時など、
「会場までは這って来ました」というほどに
危うい感じのお客さんが散見され、
まあ会場前の道路にはリムジンがズラーっと並んでいたが。

着席し、しばらくすると暗くなって公演が始まった。
なんというか、
「戦後の荒廃した街の夕焼け」のような演出照明の背景がよかった。
戦後の荒廃した、という部分は私の主観だけれど。

たしか2部構成で、
前半は日本の童謡など、
とくに伝承という意味を込めたに違いない曲構成を美輪は丹念に歌った。
圧倒的という形容がこれほど似合う人もいないだろう。

しかし、
美輪さんがラジオなんかの収録中に
ほんの鼻歌で歌う童謡のほうが、私としては好みかな。

つづく。
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