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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p15 感想その12「石の重さとベケットの名前」

2018-03-10 21:06:53 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p15 感想その12「原文・石の重さとベケットの名前」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

参照「石のリアリティ」


先日、一応の結論を書いたが、核心にはきっとほど遠いなという感は否めない。

さて、英文の原作を注文したらすぐに届いたので、早速、あの石の重量の部分を確認してみた。

'They weigh somewhere between sixty and seventy pounds'
Murks said.'Just enough to make you feel each one.'(108p)


「一つ25キロから30キロある」とマークスは言った。
「ちょうど1キロ1キロが実感できる重さだ」(177p.178p) 柴田元幸訳


1ポンドは約0.453キロであるから、60ポンドは約27キロ。70ポンドは約31キロ、になる。

すると訳はとくに間違ってはいないことが証明された。

それでは作る壁のサイズはどうだろう。


'Two thousand feet long and twenty feet high-ten rows of a thousand stones each.(106p)


「長さ600メートルで高さ6メートル、一段につき千個の石が十段。……」(174p) 柴田元幸訳


これも間違ったところは何もない。

そうすると、以前にも書いたが、
30キロの人が持てるほどの小さな石を十段積んでも、
どう考えても6メートルの高さにはならないのに、小説では「なる」と考えられている。

だからリアリティがかなり薄い。

私はこの部分に作者のどんな意図があるのか、今のところ明らかにはできない。

そして今回もう一つの問題というか衝撃。
英文の原作が届いて、裏表紙を見てあっと思ったこと。それは、

「ボール・オースターはこのブリリアントで不安定な寓話にサミュエル・ベケットとグリム兄弟を溶かし込んでいる」

と書いてあったのだ。

グリムはまだしも、ベケットは不条理劇作家じゃないか。

不条理━━事柄の筋道が立たないこと。

日頃、不条理な夢の記述をさんざんしておきながら、
私にはこの不条理の物語というものを明確に理解する読解力なんて、
はっきり言って、ない。

しかし読んで初めて感じた抽象画的な感覚はけっして遠くはなかったな。

それにしても、
超絶悲観論者で鬱病のベケットはたしかあのカフカが好きだったような気がする。

フランツ・カフカ。有名なのは「変身」だったか。

若い時にカフカをそれだけ読んだ記憶はあるが、まったく理解できなかった記憶もある。

なんだったか。目が覚めると虫になってたんだっけ? それしか憶えていない。

虫、苦手だからなあ。

そうか。ポール・オースターを調べてみればいいのか。

……Wikipediaで読んでみると、やはりベケットやカフカに影響を受けていると書いてある。

この「偶然の音楽」これ一冊だけで考えようと思っていたから、
調べるのは少し自分的にルール違反である気がするが、まあ仕方がない。
何にも道標は必要だ。

不条理。ベケット。カフカ。そしてグリム。

やっかいこの上ない。

ところで寓話ということは、つまり、寓意があるということになるわけか。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p14 感想その11「序章について」

2018-03-05 19:00:13 | 本の要約や感想
偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫


<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク


まる一年のあいだ、彼はひたすら車を走らせ、アメリカじゅうを行ったり来たりしながら金がなくなるのを待った。(5p)柴田元幸訳


このような書き出しのほんの12行(日本語訳で)の序章には、この小説のほとんど全てが書かれているような気がする。だからいつもここへ戻って読み返す。しかしどうにも霞がかかったような文章で、いくら読んでも明確な答えを得ない。

アメリカ中を車で走り回った挙げ句、もうどうにもならないと考えていた時に、風で小枝が足元に落ちてきたようにジャック・ポッツィと出会った。ジム・ナッシュは彼をひとつの猶予として見た。手遅れになる前に自分を何とかするための、最後のチャンスとして捉えた。

そんなわけで、あっさりと彼はやってのけた。恐れに震えたりもせず、目を閉じ、飛んだ。(5p)柴田元幸訳


この序章の一番の問題はこの最後の一行で、これが何を意味するかで小説の意味は全く違ったものになってしまう。

この「目を閉じ、飛んだ。」は、単純に考えると小説最後のシーンにリンクすると思えるが、そうすると「あっさりと彼はやってのけた。」という部分が不可解に感じられる。なぜならジム・ナッシュは「手遅れになる前に自分をなんかする」ことを考えていたのだから。

「やってのけた」ということは、見事にやり通した。もしくは成就した。などのどちからといえば華々しく肯定的な意味になるが、いったい何をやってのけたのか。「やってのけたこと」が小説最後の結果だとしたら、「手遅れになる前に自分を何とかするための、最後のチャンスとして捉えた。」に矛盾しないだろうか。

ここを読み違えたくなく何度も読み返すわけだが、頭が悪くて、まだわからないね。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

2018-02-27 18:42:49 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

妻に去られたナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。すべてを捨てて目的のない旅に出た彼は、まる一年赤いサーブを駆ってアメリカ全土を回り、〈十三ヶ月目に入って三日目〉に謎の若者ポッツィと出会った。〈望みのないものにしか興味の持てない〉ナッシュと、博打の天才の若者が辿る数奇な運命。現代アメリカ文学の旗手が送る、理不尽な衝撃と虚脱感に満ちた物語。(裏表紙より)


この本を読み終えて私が一番感じたことはこのブログにも何回か書いているが、はい読み終わりました。一応筋は通っていました。さてしかし内容に意味があったのだろうか。もしかすると作者はサイコロでも転がして書いたのではないか。いったい何が主題なのか。だった。

この文庫本は去年に部屋を掃除していた時に出てきたもので、いつどこで買ったのかも憶えておらず、題名すら記憶になかった。しかしその題名から私がどこかの古書店で内容も見ずに題名だけで買ったことはまず間違いなかった。

それで去年のクリスマス頃に読み始め、平易な文章だからすぐに読み終えたが、私の心は疑問符だらけになり、上に書いた感想をまずは持ったのだった。

それからこのブログになんとなく━━他に書くことがなくて━━中盤までの要約を書いてみて、最後の部分まで書くのはさすがに躊躇われ、私がテキトーに創作して終りにしたが、それでは少し無責任な気がしてきて、それなら感想を書いてみるか、という気になり、書き始めたら、これはやっかいな作品だな、ということに気がついて、現在に至るわけだ。

よし、もう私の結論を書いてしまおう。
この作品に意味があるのか、ないのか、を私は読後に強く感じたわけだが、つまりそれは作者の、ポール・オースターの思想の基盤からの意図で、つまり、私たち人間が生きることには意味があるのか、それともないのか、言い換えれば、意味を持って生まれてきたのか、それとも何も持たずに生まれてきたのか、これがこの作品の主題だ。と私は思う。もっと言い換えれば、この世界は必然なのか、それとも偶然なのか、の違いとも言える。

しかも、この作品は完成品ではない。しかしおざなりな未完成品でもない。おそらく作者のイメージする様々な描写と設定を象徴的に筋の中に嵌め込んだ明確な現実とも幻想ともいえない物語で、いやこれは物語というより詩的文章といったほうがむしろ理解し易いだろう。

それではいつ完成するのかというと、これは月並みだが、読者が解釈をして初めて作品は完成する。意味があると思えば意味のある作品になり、無意味であると思えば無意味な小説である。妻に逃げられ、子供とも離れ、疾走し、迷走し、出会い、賭けて、負けて、囚われて、壁を作り……、単に筋だけを追ったら、ああ面白かったね。それで終りだ。

だがもしこの小説に意味を見出そうとして読んだなら、その人の数だけ解釈と理解は生まれ、ゆえに作品も無数に派生することになる。そしてこれは言い過ぎになるかもしれないが、もしかすると著者本人もこの作品の真の意味を書いた当時にはわかっていなかったのではないだろうか。いや、決して悪い意味ではなく、なんというか、自分で書いて自分の手に余るというか、それくらい大きさのわからない作品というか、たとえば覗けばいつも自分の顔が映る鏡のような明確さはなく、箱に入った<夢の鉱石>のように、蓋を開けると乱反射をして、見つめても光の芯が見えないというような。

主人公ジム・ナッシュは自身の存在の意味や意義を探して全米を疾走したが、それはそのまま作者の姿であり、作者もこの小説を書きながら希望を持ったり失ったりと迷走したに違いない。なぜかそう思うかというと、ポール・オースターはどうやら自分の属性を悲観的な側にあるとこの小説の当時考えていたようだが、心の花びらを占いのように「悲観。楽観。悲観。楽観」と一枚一枚と毟っていくと、どうも最後に残るのは彼が好むと好まざるに関わらず、それはごく小さな楽観であるように私には感じられるからだ。だから当時まだ若かったポール・オースターは楽観的であろうはせず、しかし悲観的にもなりきれず、自分はどっちにいるのか、行くのかと迷った挙げ句、最後にジム・ナッシュをあのように光へと収束させてしまったのではないか。

わかり易く書けば、ポール・オースターはこの作品を書いた時点(1990)では、まだ十分に迷っていたのではないか。最新どころか、これ以外の作品を私は読んでいないから、現在の彼の心境を私は知らないが、推測するなら、もしかすると悲観や無意味の殻を破って楽観の光が作品から漏れ出しているのではないだろうか。なぜなら、人間やはり齢をとると自分の最奥の芯にあるものが出てくるものだから。

結論を書いたから、もうこれで終りにしてもいいのだが、それではあんまりだから、この結論に至った考察の検証を私なりにしようと思うが、きっと飛び飛びで長くかかる。そして上に書いた結論も変わる可能性もある。私は彼について名前すら知らなかったので、今日のところの結論はまったく反対に変わる可能性もある。今日は大きな勘違いだったかもしれない。しかしこの勘違いが後になって自分でも笑えて面白いというもの。

コーヒーと本と

2018-02-24 19:19:19 | 本の要約や感想
今日は暖かいので、コーヒーの抽出温度をその分だけ下げて淹れてみたところ、
先日、ハワイコナのブレンドのドリップ時に82度と書いたことを思い出し、
あれは寒い日だったから低めとはいってもあの温度にしたわけだが、
今日くらいの陽気であれば、イタリアンローストは75度くらいにしても、
いや、したほうがいいような気がした。もちろん焙煎日からの日数にもよるのだが。

今朝、ドトールのクリスタルブレンドを
クレバーのドリッパーで淹れた300ccはとても美味くてよかったが、
今、これを書いている途中に淹れてきたインドネシアのシングルはあまりよくない。
まあ75点というところ。
飲みながら何が悪かったかを考えているが、抽出時間が20秒ほど長かったかもしれない。
なお普通のハンドドリップね。ハリオね。紙ね。

今日は朝からずっと本を読んでいたのだが、もう夕方か。
目も頭も疲れたから休憩している間にコーヒーを5種類、1キロ注文してやった。
この中に一つでも当たりがあればうれしい。

それにしても「偶然の音楽」のこと。やっかいな本に手を出したなという感がある。
以前、フラナリー・オコナーを読んだ時に感じたほどの拒絶感はないのだが、
ポール・オースター(柴田元幸訳)は読み易いので進むが、読んでいる途中に、
これを読むことに意味があるのだろうか。という疑問が湧く瞬間があり、
まだ「偶然の音楽」だけしか読んでいないわけだが、
教訓もなし、目を見張るほどの成長もなし、幸福もなし、カタルシスなし、希望なし。
最後まで読んだとしても「で?」という感覚が残ってしまって、なんというか、
登場人物たちが読者を独り残して皆消滅しまったような感じで、ひどく淋しい。

主人公のジム・ナッシュも「寂しくて気が狂いそう」(柴田元幸訳)と話の途中でつぶやいているが、
そこを読みながら少し笑ってしまうのはそんな結末があるからだろうか。それとも、
私の性格があまり良くないせいだろうか。たぶん後者。

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p12 感想その9「スローダウン」

2018-02-14 17:46:42 | 本の要約や感想
感想を書くと宣言しておいて、相変わらずまだ筋を追ってるが、中盤までは話の土台だと思うので遠慮なく書いている。しかしここから先はもうほとんど筋を書いたりするつもりはない。あらすじ全文くらいは検索すればいくらでも出てくるし。

あらすじをしつこく何度も繰り返すように書いたのは私の頭の中を整理し、かつ物語を自分に浸透させたいからであるのと、このブログをかろうじて読んでくれている人へのわずかなサービスであったが、ここから先の私の感想は、小説を実際に読まないとおそらくわかりにくいかと思う。誰にでもわかり易く書こうとすると、最後までを詳しく説明しなければならないので。

とはいっても、この小説、というかこの著者ポール・オースター。決してわかり易い作家ではない。そして、わかり易く説明できる作家でもない。平易な文体で難解な構造を作り出しているような気配がある。

ここで何がいいたいかというと、私にはこの作家作品はちょっと難しかったかもしれない。言い換えると、レベルが高かったかな。最初に読んだ時にはまあ普通のちょっと設定が面白い小説だなくらいに思っていたのだが、読めば読むほど、考えれば考えるほど、自分の思考能力の単純さを痛感せざるをえない。

なんとなく、本当になんとなく、他に書くことがなくて始めた本の感想文なのだが、恥ずかしいことに今、私の目の前にも高い壁が立ち塞がっていて、どうやって前に進もうかと考えている。

この作家をこの作品しか読んでいないことも前が見えない原因になっているかと他の作品を注文しかけたが、いやあくまでこの作品だけで突破したいと考え直し注文は止めた。どうやら著者のエッセイ集にこの「偶然の音楽」に関するかなり答えに近いことが書いてあるらしいのだが、それは私にとって後日の答え合わせ的な楽しみにとっておきたい。

この感想文を書き始めた時には、5,6回の投稿でまとめようと考えていたが、今日もうすでに9回目で、しかもその内容のほとんどが話の筋である。しかし本日のところの自分なりの感触では、これは半年以上かかるかもしれない。連続ではなく、考え考えのことだが。

短距離走かと思って参加したらマラソンだったということで、ここで少し息を整えて、長距離のためのペースに切り替えるつもり。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫



偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p11 感想その8「壁へのステップ」

2018-02-10 20:36:07 | 本の要約や感想
前回では、この小説は途中からリアリティが薄くなるような気がする。と書いた。

どこからか? というと、ジム・ナッシュが「世界の街」を初めて見たあたりから、そして、その直後のディナーの場面でとくにストレンジな雰囲気が食堂に漂う。

時系列を少し前から説明をすると、ジムとジャックはニューヨークから車に乗ってペンシルバニアにある二人の富豪の住む屋敷へ苦労して辿り着いた。

フラワーとストーンと呼ばれる男二人が出迎え、飲み物をジムとジャックに振る舞い、自分たちがどうして金持ちになったかを語った。

その後、屋敷の部屋や調度品の紹介と案内と自慢話のツアーが始まり、最後にフラワーとストーンのそれぞれのプライベートな部屋に通された。

フラワーの部屋には奇妙な骨董品ばかりが蒐集陳列され、ストーンの部屋では「世界の街」というミニチュアの街並が広がっていた。

「世界の街」はストーンが部屋の中でライフワークとして取り組んでいる手作りの街で、広い台の上のその架空の街にはその街に住む人々の人形たちに混じってストーンやフラワーのミニチュア人形も置かれていた。

そしてストレンジ感のある問題のディナーが始まり、その後にポーカーのルールを決めてゲームが始まった。

静かに始まった勝負は中盤からジャック・ポッツィにツキが回ってくるとジャックは勝ち続け、ジャックの後ろで観ていたジム・ナッシュはこれで勝負はついたなと安堵し気を緩めてしまい、1時間ほど外に出て戻ってみると形勢はすっかり逆転していて、ジムはポケットに残っていた金をすべてジャックに託し、さらにボルボをも賭け金に替えて勝負をしたが、ジャックにツキが戻っては来ず、完全に家主たちに負けてしまった。

車がなければ田舎の果てにあるようなこの屋敷から帰れないため、車を取り戻すためのカードゲームを今度はジムがフラワーを相手に行ったが、これにもあっさりと負け、この瞬間ジムとジャックはこの車の勝負の負け分として1万ドルの借金を負ってしまった。

ストーンとフラワーにしてみるとこれはジレンマだった。
二人を帰せば逃げられる。帰さなければ金が返ってこない。
そこでストーンが提案をする。

「壁を作ってもらうという手もある」

フラワーがそれは名案だと叫ぶ。

壁とは何か。

ストーンとフラワーはアイルランドを旅行した時に廃墟になった城に巡り会った。城は崩れてしまっていて、形作っていた石を持ち主に交渉し買い取り、このペンシルバニアの屋敷まで運ばせたのだった。

その1万個の石は敷地の中で今は山のように積み上げてあるが、二人の計画ではこの石を使って長さ600メートル、高さ6メートルの直線の壁を作るつもりだった。

しかし建設にあたって監督役には屋敷の番人カルヴィン・マークスがいるが、実際に力仕事をする人間がいなかった。

そこにジム・ナッシュとジャック・ポッツィが現れて、丁度良く負けたというわけだ。

時給10ドル。1日10時間労働。二人で1日200ドル。
借金は1万ドルだから、50日の労働で片がつく。
この時点で8月の末なので、10月中には借金を払い、ここを出られる。
壁は50日では完成しないだろうが、二人は借金を払った時点で自由を得られる。
生活は敷地内にあるトレーラー、つまりキャンピングカーでする。
食料や生活に必要な物は何でもマークスが届けてくれる。

ギャンブラーで華奢なジャックはその提案を一蹴したが、元消防士のジムは、もしかするとこの壁を建てる作業は自分を見つめ直すいい機会になるのではないかと思った。

ジャックは逃げようと言ったが、ジムは逃げることは出来ないと答えた。
この描写は、悩めるジムにとっては労働から、というよりも、自分の人生からもう逃げたくないということだろう。

ジムはジャックだけを自由にしてやり、独りになっても、そのため日数が倍かかってもこの提案━━ジムにとっては突如現れた機会━━をやり遂げようと思い始めた。

ところが、誰にでも噛み付きそうに苛立っていたジャック・ポッツィは考えた末に自分も残るよとジム・ナッシュに言った。

ジムはジャックが自分を独り残してここを去るだろうと確信していたから、その申し出にジムは自分でも唖然とするくらいに嬉しかった。

負けた二人と金持ちの二人は労働条件に関する契約書を取り交わし、壁の建設は始まった。

ここで私が前回指摘した石の重さの問題が出てくるわけだが、500キロ以上とすると話の前提がまったく変わってしまい、とてもジムとジャックの二人の力だけでは石はぴくとも動かないから、やはりここは素直に1個が30キロ程度として読みすすめたい。

起承転結という型に合わせて考えてみると、ジム・ナッシュが旅に出るまでが起、ジャックに合うところが承、そしてこの壁の建設を提案されるあたりが転ではないかと思う。

とはいっても、この小説は決して話の筋を読むことが大事なのではなく、筋や登場人物の心模様、演出、設定、セリフ、小道具、など、すべてを合計し、そこに自分の想像の火をつけて上がってくる煙の色や形や匂いを感じる取るようなことが重要ではないかと思う。

簡単に言えば、書いてあることを読んで、書いてないことを感じるということだが、まあそれはどの本にでも言えることだった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p10 感想その7「石のリアリティ」

2018-02-07 19:49:41 | 本の要約や感想
……いろいろあって自己喪失をしたジム・ナッシュは何か心を埋めるものを見つけようと買ったばかりの赤いボルボで全米を約一年ほど衝動のままに走り回ったが、しかしいいことは何もなかった。遺産の金も少なくなって先行きの不安に苛まれトボトボと走行中に若い男ジャック・ポッツィを拾った。ジャックはギャンブラーで、明後日に特別なゲームがあるという。ジム・ナッシュは金を、ジャック・ポッツィはポーカーの腕を、と互いに補い合い、ニューヨークを経由してペンシルベニアにある二人の富豪の住む屋敷へと向かった。

ここまでがこの小説の土台といっていいだろう。

私はこの小説を去年末ごろに初めて読んだ時に、もしかするとこの物語は、この土台部分までが現実の話で、屋敷に着いたあたりからジム・ナッシュの精神の変調による幻もしくは夢のような設定なのかと思い、その境目の描写を探したのだが、明確なそれはどうしても見つからなかった。

たとえばデビッド・リンチの映画のように。たとえばフィリップ・K・ディックの小説のように、スイッチのオンオフで二つの世界を出たり入ったりするような構造なのかなと、この初めて読んだポール・オースターという作家のどうにも掴みどころのない小説に感じたが、どうもそうではなさそうだ。少なくとも明確にそうだとは言えない。

大一番のポーカーには結局負けて、二人の富豪に借りた1万ドルを不可解かつ巨大な壁を作るという肉体労働で支払うことになるのだが、その長さ600メートル、高さ6メートルの壁を作るという発想と計画自体が現実離れしていて、物語のリアリティを私はそのへんから薄く感じ始めた。

リアリティを薄く感じた根拠を具体的に一つ挙げると、ストーンとフラワーがアイルランドで見つけた廃墟になった城の残骸の石を自分たちの屋敷の敷地まで船で運ばせたわけだが、その数は1万個と記述がある。

その1万個の石で長さ600メートル、高さ十段6メートルの壁をジム・ナッシュとジャック・ポッツィがマークスの監督の下で積み上げるわけだが、ジムがその石を初めて目にした時に、さてどれくらいの重さか試しに持ち上げてみる描写があり、そこには1個が25キロから30キロあると記述されている。

ジム・ナッシュは力を振り絞って石を持ち上げ、何歩か歩いて石を降ろし、「やれやれ」と言った。

私はここでどうにも首を傾げた。なぜかというと、石はそんなに軽くないので。

高さが10段で6メートル。そして長さが600メートルの壁━━つまり、1段を1000個直線に並べて、それを10段積む━━を作るなら、単純にその石はだいたい幅・奥行き・高さがどれも60センチくらいの大きさだと推測できる。

壁の厚みだけが記述にないので石の奥行きが不明だが、しかし600メートルの直線の壁を作るとなれば幅より奥行きが短いということは考えられない。

3辺が60センチの立方体がもし比重の基本である水であったら、水の比重は1だから、60×60×60で、216キログラムになるだろう。

基準の水の比重1に対して自然石の比重は今調べてみたら2,6以上ということなので、216キロを2,6倍すると、石1個の重さは少なくとも約560キロになる。

まあ、それくらいあるだろう。
それとも私の計算が間違っているのだろうか。

ちなみに、約30キログラムの石の3辺はというと、計算すると約22.6センチだ。

1個560キロと30キロでは、まったく違う話になってくるわけで、560キロなら重機が必要だ。小説の記述のようにレディオ・フライヤー(子供用荷車。小説中ではファースト・フライヤー)なんかではとてもじゃないが運べない。

実はこの小説は映画化されていて、その映画はかなり小説の内容に沿ったものになっているらしく、私も興味があったので飛ばし飛ばし観たが、石を運ぶ作業の場面でたしかにレディオ・フライヤー様の子供荷車を使っていて、しかも運ぶ石も1個30キロもしくはもっと軽く見えるほどの大きさだった。

ということは、どういうことなんだろうか。

誰かが間違っているのか。それとも私が考え違いをしているのか。何かの意図がここに籠められているのか。

たった30キロの石を10段積み上げても、いくらなんでも6メートルにはならないだろう。1000個並べたって、600メートルにはならない。そんなことは感覚的にもすぐわかる。長さ1メートルの<巨石>を600個並べてやっと600メートルなのだから。

だからといって訳者が間違っていることは考えられない。校正も校閲も入っているだろうし。そして映画の映像によれば、原文もきっと30キロ程度の石だと書いてあるのだろう。そうか、訳していない原作を手に入れれば何かは少しわかるのかもしれない。まあそれは後にして。

結局のところ何が言いたいのかというと、この小説は途中からリアリティが少し薄れてくるということは気のせいではないのだが、とはいってもデビッド・リンチの作品ほど錯乱や狂気が前面に表れているわけではまったくなく、先にも書いたが、現実からリアリティが薄れてくる段階がとても静かで、明確な境目は今のところ私にはわからないし、そして最後まで世界は破綻しないのだが、いやあれは破綻といっていいのか。

富豪の片割れストーンのライフワーク「世界の街」をジム・ナッシュが目にしたあたりからが奇妙な感覚が漂い出し、その後のディナーで一層おかしくなってきて……、

だいたいこのストレンジ感溢れるディナーの設定はこの小説に必要だったのだろうか。

富豪の二人の奇妙な生活ぶりをそこに象徴させたのだと思うが、この小説中、この場面がとくに異質に感じられ、もしかするとここがこの小説を読み解く鍵なのかもしれない。

つづく。

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p9 感想その6「ジャック記憶」

2018-02-03 17:44:54 | 本の要約や感想
あらすじ箇条書き
(消防士のジム・ナッシュは美人妻に逃げられ心に穴が空き、残された娘を姉ドナに預ける。
順序が悪く、父の遺産20万ドルが手に入る。
娘を迎えに行くが、娘ジュリエットはそれを望まず、ジムも無理を通すことはしなかった。
ジム、心の穴が大きくなり、そして経済的抑圧の解放から有給の2週間を車で暴走。
ボストンに戻り、考えた末に仕事を辞め、家財を処分し、家も退居し、宛てのない旅へ出立。
1月。カリフォルニアで知り合いのフィオーナに偶然会い、結婚も考えるが、7月に拒否される。
心の穴がさらに広がり、以前にも増して激しく全米を暴走。
夏の出立から約1年近くが経過し、遺産の残りが少なくなり、不安から暴走は迷走に変わる。
心が折れる寸前に何かを求めニューヨークへ向かう田舎道で怪我をしたジャックを拾う。
ジャックの金持ちとのポーカー勝負の話を聞き、ジムは投資家としてそれに乗る。
二人はニューヨークへ向かう……。)



ニューヨークへ着くと、ジムは怪我をしているジャックを連れてプラザホテルにチェックインした。高級ホテルだが、ジムはこの新コンビの主導権を握るために金のかかる演出をしたのだ。

ルームサービスでとったランチの最中にジャック・ポッツィーはふと思い出したことを長く語り出した。このホテルには来たことがある。以前、父親に連れてこられたのだ。

父と母は早くに離婚していて、オレが8歳の時に一度、父は会いに来た。金持ちだと見せびらかすように振る舞って帰っていった。100ドルくれた。オレはそれをずっと使わなかった。

12歳くらいのときに親父はまたやってきて、このプラザホテルへ泊まった。ボクシングを観て、バスケットも観た。ステーキを食った。親父はタフガイを気取っていた。明日なんかないかのように金をばらまいた。別れ際にまた100ドルくれた。親父の金遣いの荒さに自分と母の生活ぶりがバカバカしくなって、前の分とこの金でお袋に真珠のネックレスを買った。お袋は泣いて喜んだ。

高校を卒業したときに親父から5千ドルの小切手が送られてきた。嬉しかったが、ムカつきもした。一応礼状を書いたが、返事はなかった。それから音信はない。

この会話のあと、ポッツィに対する自分の気持ちが微妙に変わったことをナッシュは感じた。いくぶん情が湧いてきて、渋々ではあれ徐々に、この若者には根っから好ましいところがあることを認める気になってきた。だからといって信用する気になったわけではなく、警戒心はまだ残ったものの、こいつを見守ってやろう、こいつを導き、護る役を引き受けてやろうという気持ちになってきたのだ。(75p)柴田元幸訳


会ったばかりのジムとジャックの間は会話を通して縮まっていった。
ジムはジャックの話の中に、幼い頃にやはり父と別れた自分を見たのだった。

他人のなかにひとたび自分を認めると、もうその人間が他人には思えなくなってくる。(中略)ポッツィとのあいだの距離が、こうしてにわかに縮まった。(75,76p)柴田元幸訳


明後日には金持ちの豪邸をを訪ねるため、ジムは自分とジャックの分のブレザーやスラックスを買った。

翌朝、一晩よく寝て、案外と元気を取り戻したジャック・ポッツィのポーカーの腕をジムは試した。

ジムもプロではないにしろ、自分のポーカーの腕をそれほど悪くは思っていなかったが、ジャックは正に次元が違った。何度やってもジムはジャックに勝てなかった。コテンパンであった。ジャックは口から生まれてきたような普段とはまるで別人のように真剣な顔でカードを捌くのだった。

「言っただろ」とポッツィは言った。
「ポーカーとなると気は抜かないのさ。十回に九回は勝つ。自然の法則みたいなものさ」(86p)柴田元幸訳


翌朝の午後に二人はカモの待つペンシルバニアのオッカムの町へと出発した。

運転をしながらジムは、車を走らせ続けた日々の終り、そして別の何かが始まる予感を感じていた。今夜ジャックが勝つ確率は高いが、最悪の事態を覚悟しておくように自分に言い聞かせた。しかしどんな事態を想像しても恐怖を感じなかった。今後自分の身に起きることに自分が関与していないかのようだった。俺はどこにいるのか。自分の内部が死んでしまったのか。破滅さえ怖くなかった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p8 感想その5「ジャック」

2018-02-01 18:11:31 | 本の要約や感想
心の迷走中、そろそろ悪い意味でのゴールインを間近にして、しかしまだ何かを求めニューヨークーへと向かう田舎道で、ズタボロに怪我をしたままヨタヨタと歩く若い男をジム・ナッシュは拾った。見たところ22,3歳ほどの華奢な男はジャック・ポッツィーと名乗り、彼はポーカーを得意とするギャンブラーであった。

ジムにとってジャックはひとつのチャンス、もしくは転機、またはジムの心細くなった財産を元に戻してくれる力を持った、ゆえに十分に利用価値のある針金のように痩せた若者であった。

車に乗ってしばらくは何かに怯えるようにジャックは口を開かなかった。しかし、ガソリンスタンドのトイレで顔と身体を洗い、ジムのTシャツに着替えてコーヒーを飲んだらやっと落ち着いたのか、もう追っ手も来ないと安心したのか、その口は止まらなくなった。

昨夜から今朝までポーカーをやっていた。相手は苦労して見つけてきたカモたちだった。

ニューヨークの金持ち連中だよ。弁護士、株のブローカー、会社のお偉方。スリルさえ味わえりゃ負けても気にしない。(中略)こういう連中と年中やらしてもらえりゃ、俺も30前に隠居できるね。あいつら最高だよ。根っからの共和党で、ウォール・ストリート流のジョーク飛ばしてドライマティーニ飲んでさ。5ドルの葉巻くわえて。アメリカ生粋のケツの穴どもさ。(40p)柴田元幸訳


朝の4時になった時、ジャックのポケットには最初に入れてきた元金5千ドルの他に4千ドルが入っていた。負ける気がしなかった。負ける理由もなかった。あと3千ドルくらい勝って締めくくろうと思った。しかしその時、強盗が4人押入ってきて、テーブルにある現金5万ドルを奪って逃げた。

ジャック・ポッツィを除く5人は皆顔見知りで、疑いの目はジャックに注がれた。おいゴロツキ。おまえが強盗を引き込んだのだろう。汚い言葉で罵られ疑われた針金ジャックは相手に食ってかかり、ついに殴った。そして殴られた。殴られた。また殴られた。死ぬほど殴られてから、隙をみて外に逃げ出した。そして走り疲れて歩いている時にジムに拾われたのだった。

ジャックは明後日、人生最大のゲームに誘われているが、その元金が奪われてしまい途方に暮れていることをジムに打ち明けた。ジムは何かを閃いた。

「そのゲーム、いくら要るんだ」

「すくなくとも1万ドル」

「いくら儲かるんだ」

「3万か4万。ひょっとして5万ドル」

ジムは元金の1万ドルを自分が出す代わりに、勝ち金を五分五分で山分けする条件を出し、ジャックはそれを呑んだ。二人の夢を乗せて車は一路ニューヨークへ。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p7 感想その4「フィオーナ」

2018-01-29 19:31:11 | 本の要約や感想
ジム・ナッシュは全米中を目的地もなくただ駆け巡るだけの旅の途中、カリフォルニアのバークレーの本屋で懐かしい知り合いの女性フィオーナと偶然に再会した。

ジム・ナッシュは今は家財をすべて処分し帰る家もないわけだが、もともとは東海岸のボストンに妻と娘と暮らしていた。

そして前回までに説明したような経緯でアメリカ中を車で走り回っていたのだが、今回は真反対の西海岸の、と或る本屋に旅行の案内書でも買おうかと立ち寄ったのだった。

この余裕。この贅沢。

自分の生活エリアから5000キロも離れた場所でなんとなく本屋に立ち寄るという自由さ。

ついでにシェイクスピアでも買おうかと棚の前で選んでいたら、突然、横から腕が伸びてきて、本を一本指で指し、

「これにしなさいよ。ジム」

見れば2年ほど前にボストンで消防士の自分を取材した女性記者で、当時もなんとなく互いに惹かれ合ったが結局何もなく、そのまま取材の終了とともに関係は途切れたフィオーナであった。

それから4晩をフィオーナの部屋で供にし、ジムはこのまま一緒に暮らすこともひとつの望みとして感じたが、しかしどうしても旅への誘惑に勝てず、また旅だってしまう。

しかし、それから半年ほど、7月の終りまで、3週間に一度はフィオーナの部屋へと戻った。

前年に死んだ父から受け取った遺産は20万ドル。'90年代当時なら日本円で3千万円くらいだろうか。そこから娘の信託預金に6万ドルを残した。そして一年近くの放浪で全財産は底が見え始めた。

ジムは考えた。金の終りは旅の終り。そして自由の終り。自由の終りは未来の終り。よし、所持金が2万ドルまでは旅を続けよう。しかし2万ドルを切ったらカリフォルニアへ戻ってフィオーナに結婚を申し込もう。ジュリエットを引き取って、さらに弟や妹を作って幸せに暮らそう。それが自分の存在する意味だとしてもいいじゃないか。

ところがその頃、フィオーナには元恋人が戻ってきていて、ジムに泣きながらそのことを告げた。そして「あなたは当てにならないの」とも。

心の底ではフィオーナの言うとおりだと思ったが、(中略)怒りの炎は何日も燃えつづけ、それがようやく収まりかけてからも、足場は取り戻されたというよりむしろ失われてしまっていた。第二の、さらに長い苦悩の日々にナッシュは墜ちていった。(30p)柴田元幸訳


そしてまた、いやさらに、もっと自分をまるで追い込むかのように過酷な長距離のドライブをジムは続けたが、経済的に、精神的に、袋小路に陥ったことを悟り、じきに何かが起きないことには金が尽きるまで旅を続けてしまうだろう。金が尽きた時、それは旅の終りと同時に、自分の人生の終りではないかと感じるようになった。(人生の終りとの記述はないが。)

そのため、車中泊を繰り返し倹約をしたり、逆に士気を高めようとニューヨーク州のサラトガにホテルに部屋を取り、競馬場に通い一週間を過ごしたりした挙げ句、財産はまたさらに減ってしまい、その時、旅立ちから1年と2日が経っていて、手持ちの金は1万4千ドルになっていた。

まだ絶望に屈したわけではなかったが、もうその日も近い気がした。あと1,2ヶ月のうちに完全なパニックに追いやられてしまうだろう。(31p)柴田元幸訳


ジムはニューヨークへ行くことにしたが、高速ではなく、田舎道をゆっくり進むルートを選んだ。ゆっくりと走ればだいぶまいっている神経も落ち着くかもしれないと思ったのだった。

妻に逃げられ、娘は父親が誰か忘れかけていて、自分の存在理由を見失い、それを見つけに旅に出たというのに、やっと見つけた暖かな未来フィオーナに慎重に着陸をしようとしたら最後に拒絶をされてしまい、やけになって速度を上げて走り回ったが何も見つからず、とうとう自由を買うための経済力も底が見え、節約をしたり、逆に賭けに打って出たり、そして今、望みもほとんど尽き果てて、速度に疲れたジム・ナッシュは緩い速度でニューヨークへの田舎道を走っているのだった。これをまさに迷走というしかない。

牧草地を見ながら45キロくらいで走っていると若い男がよたよたと歩いているのが目に入った。服は破れ、顔は腫れて、ひどい状態であることがわかった。

ジムは車を停めて、助けは要るかとその若い男に訊ねると、男はひと言も言わずによろよろと怯えた顔でジム・ナッシュの車に、いや人生に入ってきたのだった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p6 感想その3「出立」

2018-01-23 20:41:11 | 本の要約や感想
ジム・ナッシュはミネソタの姉の家を出てから車で宛てのない旅を2週間続けた後、
ボストンの家に戻り、消防署へも復帰するが、やはり気持ちは落ち着かなかった。
考えた末に、ジムは消防署を辞め、家財を処分し、また旅に出る。

家財の処分の最後に、ジムが13歳の誕生日に母に買ってもらったピアノとの別れがあり、
その描写が印象に残る。

母がピアノを買ってくれたことを、ナッシュはこれまでずっと感謝してきた。それだけの金を捻出するのがどんなに大変だったか、彼もよくわかっていた。(中略) 音楽のおかげで世界がよりはっきり見えるような、目に見えぬ秩序のなかでの自分の位置がわかってくるような、そんな気がしてきた。(中略) がらんとした壁を聞き手に長いさよならリサイタルを行った。数十曲あるお気に入りを、ひとつ一つ弾いていく。クープランの「神秘な障壁」からはじめて、ファッツ・ウォーラーの「ジルバ・ワルツ」まで、指が麻痺して弾けなくなるまで鍵盤を叩きまくった。それから、過去六年間世話になってきた調律師(アントネリという盲人)に電話をかけて、ボールドウィン(ピアノ)を彼に450ドルで売る話をまとめた。(18,19p)


そしてまた目的も目的地もない旅が始まった。
夜通し十数時間を運転し、疲れ果ててモーテルに眠り、目覚めてはまた夜の道を疾走するのだった。

肝腎なのはスピードだった。運転席に座って、空間にわが身を投げ出す悦び。それこそがほかのいかなる善にもまさる至上の善となった。それはいかなる犠牲を払っても満たすべき渇望だった。自分のまわりの物は一瞬以上何ひとつ持続せず、瞬間から瞬間へと時が移っていくなかで、連続し存在しているのは自分だけのような気がした。何もかもが変化していく渦巻にあって、彼は一個の固定点だった。世界が彼の体を突き抜け、消えていくなか、完璧に静止状態にあるひとつの物体だった。(19,20p)


音楽と対峙する在り方の描写も重要だ。

運転しながら、バッハ、モーツァルト、ヴェルディのテープをえんえん聴いていると、まるで自分の中から音が湧き出てきて風景を浸しているような、可視の世界を彼自身の思考の反映に変えているような、そんな気持ちになってきた。三、四ヶ月も経つと、車に乗り込むだけで、自分が自分の体から離れていく気になれた。アクセルを踏んで車をスタートさせるだけで、音楽が彼を、重さの存在しない領域へ連れていってくれた。(20p)


ここで、ジム・ナッシュはなぜそんな目的のない旅に出たのかを整理しておくと、
たしかに発端は前回に書いたようにミネソタからの帰り道に道を間違えたことだ。しかし、
すぐに帰る必要のなさに気がつき、しかも金もあり、止める者もいず、暴走に至ったわけだ。
2週間後にボストンに戻り、自分の行動を顧みて、神経衰弱にでもなったのかと考えたが、
いや、ジムは糸の切れたような行動をものすごく楽しんだのだった。

ところが家に帰っても妻はすでに男と去り、今なら金はあるのに娘は姉の家族にとられてしまい(とられたというのは語弊がある。姉の家族は理想的で素晴らしく、娘のジュリエット自身もその環境を望んだ。しかしジムにしてみるとまんまと姉の家族にとられてしまったように感じられた)、つまりジムは自分の意味を失ってしまったといえるだろう。言い方を代えれば、存在価値を見失ったということ。しかし何度も言うが、遺産が入り今なら金はある。その時点ではまるで無尽蔵のように感じられるほどに金はあったのだ。姉の助言に従って念のために娘のために信託基金を作り、残った金の生む余裕でジムは旅に出た。それは意味、もしくは意義、自分の価値を見つけるために。

そういう瞬間(事故の危険性のこと)のおかげで、自分のやっていることに、危険という要素が加わる。それこそ何にも増して、彼が求めているものだった。自分の人生をわが手に引き受けているのだと、感じられることこそ。(21p)


それと同時に上にも書いたように、金を心配せずに好きな音楽を聴きながら右へ行こうと左へ行こうと誰にも文句を言われず全米を駆け抜けることは純粋に楽しかったのだろう。今まで必要以上に経済力に抑圧を受けてきた人生の青年から中年への過渡期にジムはまさにタガが外れた状態になったのだ。

そしてそんな旅の途中のカリフォルニアのバークレーの本屋で懐かしい知り合いの女性フィオーナと偶然に再会した。

つづく。

偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p5 感想その2「無意味」

2018-01-21 22:33:17 | 本の要約や感想
感想を書くなどといっておいて筋を追ってばかりいて、まだ感も想もないが、
この小説、少しへんな掴みどころのない感じがあり、どうにも攻めあぐねている。
最後まで読んだとしても、大きな感動があるわけじゃなし、成長があるわけでもなし、
教訓もなし、まして涙で心が洗われるようなカタルシスなんかは一切期待できない。

それなら何があるんだ?

私もわからないから、まだ筋を追っている。

そして話の最初から最後まで払拭できない大きな疑問がひとつあり、それは、
この小説は実は意味もしくは主題がないんじゃないか、というもの。

意味がゼロということはないだろうが、大きな意味の存在をふつうの小説なら
どこかで在り在りと感じるものだが、この小説にその影があるような気がしない。

だから不気味なんだよね。

劇中に登場する人や物もジャック・ポッツィーを除いてそれほど意味を持たされていない。

抽象画家がキャンバスに絵の具を無作為にバシャーッと塗ったくった画に、
あとから評論家が無理無理意味付けをしているような構図を思い浮かべてしまう。

だから私が読んでいる途中で強く思ったのは、

「もしかすると、行き当たりばったりで書いたのではないのか」だった。

いや、もちろんそういった小説の書き方はあるだろう。
主人公の設定を終えたら小説の中でどんどんその主人公が勝手に動き出し、
作者はその姿を書き写すだけ。

まあ実際には「だけ」ということもないだろうが、
今のところそれに近い感触をこの小説に感じている。

これは何々を描いた小説だ、とひと言で言えない気持ちの悪さが残る。

つづく。

偶然の音楽/ボール・オースター(柴田元幸訳)/p4 感想その1「発端」

2018-01-20 16:56:27 | 本の要約や感想
(消防士のジムは離婚した直後に父の遺産を手にし、幼い娘を姉にあずけ、退職し、
目的も目的地もない車での独り旅に出たが、約1年後、金の底も見え始め、
先行きに不安を感じていた矢先、怪我をしたギャンブラーのジャックを道で拾い、
車中で聞いたジャックの儲け話に投資者として加わることにした。
儲け話は二人の富豪とのポーカー対決で、やっと到着した豪邸に着くと
その二人の主が奇妙な暮らしをしていたが、夕食の後、ゲームは始まった。
自画自賛の言葉通りにジャックは強く、勝負は決まったかに見え、傍観者のジムは
張りつめていた気を緩め、少し部屋を出た。しかし戻ってみると
形勢は逆転していて、ジムの有り金と車までも賭けたが、すべて負けてしまった。
しかも1万ドルの借金までが残り、金持ち二人にしてみると、帰せば逃げられる、
しかしここに残られても1万ドルを得られない、というジレンマに陥った。
そこで元検眼士のストーンが奇妙な提案をしたのだった。それは巨大な壁を建てることであった……。)



主人公はジム・ナッシュで、ほとんどが金の問題により妻に去られ、
置き去りにされた2歳の娘ジュリエッタの世話と消防士の仕事を両立できず、
娘をミネソタの姉夫婦にあずけたのだが、
その直後に何十年も合わずにいた父の遺産20万ドルが転がり込み、
ジムはすぐに借金の残金を払い終え、新車を買い、有給をまとめて取り、
娘の様子を見に、そしてできれば連れて帰るためにミネソタへ向かうが、
娘はすっかりと姉の家族になってしまっていて、娘は父ジムを見ても戸惑うのだった。
その姿を見てジムはいったんボストン(マサチューセッツ州)へ戻り、今後をよく考えることにした。
そして夏の日の午後、姉の家族に見送られてジムは車に乗った。

そして物語はほんのミスから思わぬ方向へと展開していく。

車に乗ったジムは道を間違い、逆方向のフリーウェイに乗った。
その間違いをジムはわかっていたが、しかし有給の残りはまだ2週間もあり、
すぐに職場へと戻る必要もなかった。

それから7時間、車をただ走らせ、ガソリンを補給し、さらに6時間疾走し、
ワイオミングで力尽きた。

次の日も夜通し前日と同じように走って、ニューメキシコを半分まできたところでやっと止まった。

その二晩目が過ぎたところで、もはや自分で自分をコントロール出来なくなっていることをナッシュは悟った。(13p)柴田元幸訳

ここまでがこの小説の発端で、
普通の人が今まで自分を抑えていた何かを失った時、
もしくは抑えていたものが取り除かれた時、
ほんのきっかけから自分でも予期しなかった行動に走り始めたことが描かれている。

何か訳のわからない圧倒的な力に彼は捕らえれてしまっていた。狂気に追いやられた動物が、闇雲にあちこち走り回っているようなものだ。けれども、もう止まろう、と何度決意しても、どうしてもそうすることができなかった。毎朝自分に向かって、もうたくさんだ、これでもうやめよう、と言い聞かせながら眠りにつき、毎日午後になると、いつも同じ欲望、車に這い戻りたいという抑えがたい渇望とともに目ざめるのだった。

あの孤独が、空虚を突き抜けていく夜通しの疾走が恋しかった。(13p)柴田元幸訳


つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p3

2018-01-06 21:24:39 | 本の要約や感想
(消防士のジムは離婚した直後に父の遺産を手にし、幼い娘を姉にあずけ、退職し、
目的も目的地もない車での独り旅に出たが、約1年後、金の底も見え始め、
先行きに不安を感じていた矢先、怪我をしたギャンブラーのジャックを道で拾い、
車中で聞いたジャックの儲け話に投資者として加わることにした。
儲け話は二人の富豪とのポーカー対決で、やっと到着した豪邸に着くと
その二人の主が奇妙な暮らしをしていたが、夕食の後、ゲームは始まった。
自画自賛の言葉通りにジャックは強く、勝負は決まったかに見え、ジムは
張りつめていた気を緩め、少し部屋を出た。しかし戻ってみると
形勢は逆転していて、ジムの有り金と車までも賭けたが、すべて負けてしまった。
しかも1万ドルの借金までが残り、金持ち二人にしてみると、帰せば逃げられる、
しかしここに残られても1万ドルを得られない、というジレンマに陥った。
そこで元検眼士のストーンが奇妙な提案をしたのだった。)


「あの壁を作ってもらうという手もある」

<あの壁>とは何かというと、金持ちの二人がアイルランドへ旅行に行った時に、
朽ち果てた15世紀の城の残骸を見つけて、何かを感じ、持ち主に交渉し、
その1万個にもなる石をアメリカのこの屋敷に運ばせたのだった。
石で城を復元するのではなく、シンプルに、
高さ6メートル、長さ600メートルの壁を屋敷の敷地内に建てる計画であった。

しかし実際に建てる作業を誰がやるのかが未定であった。

そこにタイミングよく二人がゲームに負けて、1万ドルの借金の分を
時給10ドル、1人1日10時間で100ドル、二人で200ドル、
つまり50日の労働で帳消しにするという条件を勝った二人が負けた二人に提案したのだった。

痩せて力のないジャックは反対したが、結局、同意して二人は働き始めた。
実際に作業をするのはジムとジャックだったが、設計、指導、監督は
屋敷の使用人のカルヴィン・マークスであった。

☆☆☆

いやいやながらも二人はカルヴィンの監督の下、作業を始め、まずは
石を置く地面を平らに整地し、さらに浅く溝を掘る工程だった。しかし、
二人にとっては最初は厳しい仕事だったが、段々と身体が慣れて、
むしろ規則正しい生活と肉体労働に楽しさまでも感じていた。

整地も済み、溝も堀り上げ、石を運び、積み上げ始めると、
二人はその15世紀にアイルランドに建造されたという石の魅力と、
段々と積み上がっていき姿を顕し始めた壁の存在感とに神聖を感じるようになり、
無駄口を叩くばかりであったジャックも次第に仕事に対する姿勢が変わり、
さらに冷たく見えたカルヴィン・マークスの実は温かい人柄とその能力の高さに、
いつの間にか二人は親愛を示し、絶大な信頼を寄せるようになった。

さすがに50日では壁は出来上がらず、2年後のクリスマスを前にして壮大な壁は完成し、
夕暮れ前の赤く染まった空にそびえ立つ壁を無言で見つめる3人。
時間が止まればいいと誰もが思っていた時、屋敷の方から人影が現れ、
この2年間、一度も姿を見せなかった屋敷の主たちストーンとフラワーがやってきた。

人影は二人だけではなく、他にもいた。
それはストーンとフラワーが今日のために捜して呼び寄せた
ジムの娘のジュリエットとジムの姉のドナであった。

3人は抱きしめ合い、邂逅を喜んだ。

その姿を目を細めて見守るジャック、カルヴィン、ストーン、フラワー。

ジムは焦燥感に疾走したあの赤いボルボでの旅の果てにここに辿り着き、
運命によってか、この壁を自らの手で作り上げ、それはいつの間にか
自己を再生することであったという結果を娘と姉を抱きしめながら噛み締めていた。

ストーンとフラワーは壁が完成したことへのボーナスとして、
ジムに10万ドルと、もともとジムのものであったボルボを返した。

ジャックはカルヴィンに幼い頃に別れた父を重ね見て、考えた末、
屋敷に残り、カルヴィンの下で働くことになった。
もちろんそばでニンマリと笑う主二人のポーカーの相手もするのだ。

誰しもが心に傷を持ち、それがいつどのようについたものか人はわからず、
それをどう癒したらいいのか、いったいどこに傷があるのかさえもわからず、
傷ついたまま年老いてしまう。

私たちは心に負った傷の場所と大きさをよく知る時間が必要で、
時には前に進むことではなく、傷を治すことに重きを置くことが
実は最善かつ最速なのではないかとこの小説を読み考えさせられた。
ということはまったくのウソっぱちで、なぜなら、この要約の後半は私の作り話だから。

☆☆☆印から後は私のでっち上げです。

実際には私が作った<ありがちな話>ではないので、
興味があれぱ実際に読んで下さい。
結末には自己責任にて対処して下さい。

おわり。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫


偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p2

2017-12-30 20:46:59 | 本の要約や感想
(消防士のジムは離婚した直後に父の遺産を手にし、幼い娘を姉にあずけ、退職し、
目的も目的地もない車での独り旅に出たが、約1年後、金の底も見え始め、
先行きに不安を感じていた矢先、怪我をしたギャンブラーのジャックを道で拾い、
車中で聞いたジャックの儲け話に投資者として加わることにした。
儲け話は二人の富豪とのポーカー対決で、やっと到着した豪邸に着くと
その二人の主が奇妙な暮らしをしていたが、夕食の後、ゲームは始まった)


ジムを抜いたジャックとフラワーとストーンの3人でポーカーは始まった。
ジムはジャックの掛け金を出す役割で、3人の気にならないように部屋にいたが、
ジャックが彼の言葉通りに二人に勝ち続け、もうゲームの勝敗の行方が見えた頃、
ジムは部屋を抜け出し、屋敷の中を見て回り、1時間後に部屋に戻ってみると、
形勢は逆転していて、ジャックの勝ち分はすっかりとなくなっていた。
その後もツキは回ってこず、
ジムがポケットに残っていた有り金をチップに替えて挑んだ大きな勝負に
ジャックは負け、ジムとジャックの負けは確定した。

一文無しどころが未払い金まであり、しかも車も賭けて失ってしまった二人は、
車を貸してもらって帰ったら、残金と車の代金1万5千ドルを送金すると提案するが、
金持ちの二人はその言葉を信用せず提案を断る。しかし、かといって
ジムとジャックが残っても未払い金を払うことも出来ず、ジレンマに陥る。

そして元検眼士のストーンがまったく奇妙な条件を思いつく。

「二人にあの壁を作ってもらうという手もある」

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫