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20201201 中野重治の詩は抒情なのかわからない。抒情って何だ?

2020-12-01 18:39:28 | 本の要約や感想

20201201

昨日、ひとつ前のページの文章を書いて公開にしたのだけれど、夜中にはっと目が覚めて、その時、頭に浮かんだのはなぜか「抒情」という言葉で、よくよく考えてみたら自分は抒情の意味をよくわかってないのではないか、と深夜のベッドの上で心配になり、PCを立ち上げて少し確認したら、ますますわからなくなり、しかし眠いし、それで一旦、昨日の文章を非公開に処理して、また寝たという次第。もちろん少し恥ずかしい気持ちとともに。しかし「抒情」の意味はけっこう難しくて、これを書いている今でも明確にわからない。言葉の意味が広くて深いのがその原因であるかと。

通常、抒情(叙情)の意味とは「自分の感情を述べ表すこと」であるらしい。すると自分の感情を詩に書き表している中野重治は抒情詩人ということになり、昨日書いた私の文章における中野が抒情を拒否したという箇所はまったくの私の勘違いであったことになる。

昨日までの私の抒情や抒情的などの意味の認識はというと、赤とんぼや故郷などの童謡を抒情歌と呼ぶが、私はその雰囲気を抒情、抒情的だと思っていた。間違いではない。そして童謡ではなく、クラッシック音楽などにも抒情的というニュアンスがあり、それは哀愁や切なさを含んだ物悲しいのにどこか心地よい曲調を指す場合が多いと思う。

しかし、それが詩についての抒情ということになると少し変わってくるらしく、自分の感情を込めることを抒情とするなら、やはり中野重治は抒情詩作家であるといえる。ところがいくつかの中野についての文章を読むと、やはり中野重治は初期は抒情詩を書いていたが、共産党員になった頃に抒情に決別した、というような見解もあったり、いや中野は「新しい抒情」を生み出した抒情詩作家である、という人もあり、私は悩むところである。

この「新しい抒情」という考え方がおそらく詩の業界にはあるらしく、私は業界人ではないから知らなかったが、つまり、要するに「抒情」の意味も時代とともに変わっているようなのだ。

私としては抒情はあくまでもその言葉が嬉しくとも悲しくともある種の心地よさを持っていたいと思うので、デブ助云々に抒情であるとしたくはないが、まあ学識としての判断に準じたい。それに詩というものをカテゴライズするところから困難であるとしかいえなくもない。

この追記で何を言いたかったかというと、まずは私の認識不足。そして抒情という言葉の捉え方が業界によって違っているということ。そして「新しい抒情」というような複雑さがあるということ。です。だから昨日の文章は消さないが、当たっているかもしれないし、まるで見当違いなのかもしれないので、ご理解ください。以上。

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20201130 中野重治の詩を読んで、ほんの個人的な感想文。追記あり。

2020-11-30 18:43:00 | 本の要約や感想

20201130


  ここは西洋だ
  イヌが英語をつかう



  中野重治 「帝国ホテル」より抜粋 昭和29年 昭和詩集 角川書店発行




詩人中野重治という名前はけっこうな重さを持っていると思うが、私は彼の作品を読むのはこの本でが初めてである。

中野重治Wikipediaリンク

名前だけは知っていた。なんとなく抒情詩作家であるような気がしていた。しかし真逆でした。共産党員のプロレタリア詩人で、冒頭に貼った抜粋のようにかなり挑発的で辛辣で、抒情の欠片もないというか、抒情は拒否だという気概があり、しかしそれは抒情を理解しないということではなく、自分は抒情を行かず、人が目を背けるような場所を歩こうと決めていたようだ。まあ私は彼のいくつかの詩を読んだだけなので、その後変わったの変わらなかったのか、わからないが、Wikipediaを読むと「死ぬまで左翼」といった様子である。とはいえ現代の共産党とは違い、理想を追いかけた当時の謂わば良い左翼であり、それは作品に顕れている。人に嘘があれば詩は書けない。そこに嘘があるかないかわかる人にはわかる。ただし嘘といっても日常の金の無心につく嘘などではなく、自分が紙の上に吐く言葉に嘘があるかどうかである。


冒頭の抜粋は題名通りに帝国ホテルのことを書いていて、暗喩ではなく明確明瞭に揶揄している詩なのだが、なかなかキビシイですね。つづきを少し貼りましょう。



  それからここは安酒場だ
  デブ助が酔つぱらつている

  それからここは安淫売屋だ
  女が裸で歩く


イヌとはおそらくホテルの従業員だろう。デブ助は外国人かもしれない。女はそういった商売の人だろう。(補記。そういった商売の人ではなくて、露出の多いドレスのご婦人を指しているのかもしれない) 安淫売屋が悪いというのではなく、お高く気取っているけど安淫売屋じゃねーか、という感情を読み取れるが、ホテルはその大小にかかわらず今も昔もそういった側面は少なくないので、中野さんの気持ちはわかる。いかにも共産党員らしい視線での作品で、いわゆるブルジョアを毛嫌いしているといった気持ちが露骨に表れていて、しかもそれが直球で表現されているところが私にとって好ましく面白い。デブ助などという言葉を他の詩に見たことがない。

もちろんデブ助も比喩だとも考えられ、単にホテルに来るたとえば大柄の外国人を指すのではなく、日本という国の上に何かのよからぬ手段で立ち、まだまだ貧しい地方の生活など顧みず、戦後の混乱に焼け太る誰かの姿を指しているのかもしれない。(訂正。帝国ホテルという詩は昭和三年以前に書かれたようなので、戦後という理解は当たらない)

最後にもう一つ、彼の思考の根底がよくわかる詩の抜粋を貼っておこう。中野さんはどうも汽車とか機関車が好きなようだ。


  きかん車
  きかん車
  まじめな
  金で出来たきかん車


━━以下追記━━12/1

昨日、上の文章を書いて公開にしたのだけれど、夜中にはっと目が覚めて、その時、頭に浮かんだのはなぜか「抒情」という言葉で、よくよく考えてみたら自分は抒情の意味をよくわかってないのではないか、と深夜のベッドの上で心配になり、PCを立ち上げて少し確認したら、ますますわからなくなり、しかし眠いし、それで一旦、昨日の文章を非公開に処理して、また寝たという次第。もちろん少し恥ずかしい気持ちとともに。しかし「抒情」の意味はけっこう難しくて、これを書いている今でも明確にわからない。言葉の意味が広くて深いのがその原因であるかと。

通常、抒情(叙情)の意味とは「自分の感情を述べ表すこと」であるらしい。すると自分の感情を詩に書き表している中野重治は抒情詩人ということになり、上に書いた私の文章における中野が抒情を拒否したという箇所はまったくの私の勘違いであったことになる。

昨日までの私の抒情や抒情的などの意味の認識はというと、赤とんぼや故郷などの童謡を抒情歌と呼ぶが、私はその雰囲気を抒情、抒情的だと思っていた。間違いではない。そして童謡ではなく、クラッシック音楽などにも抒情的というニュアンスがあり、それは哀愁や切なさを含んだ物悲しいのにどこか心地よい曲調を指す場合が多いと思う。

しかし、それが詩についての抒情ということになると少し変わってくるらしく、自分の感情を込めることを抒情とするなら、やはり中野重治は抒情詩作家であるといえる。ところがいくつかの中野についての文章を読むと、やはり中野重治は初期は抒情詩を書いていたが、共産党員になった頃に抒情に決別した、というような見解もあったり、いや中野は「新しい抒情」を生み出した抒情詩作家である、という人もあり、私は悩むところである。

この「新しい抒情」という考え方がおそらく詩の業界にはあるらしく、私は業界人ではないから知らなかったが、つまり、要するに「抒情」の意味も時代とともに変わっているようなのだ。

私としては抒情はあくまでもその言葉が嬉しくとも悲しくともある種の心地よさを持っていたいと思うので、デブ助云々に抒情であるとしたくはないが、まあ学識としての判断に準じたい。それに詩というものをカテゴライズするところから困難であるとしかいえなくもない。

この追記で何を言いたかったかというと、まずは私の認識不足。そして抒情という言葉の捉え方が業界によって違っているということ。そして「新しい抒情」というような複雑さがあるということ。です。だから上の文章は消さないが、当たっているかもしれないし、まるで見当違いなのかもしれないので、ご理解ください。他にもいろいろ不足蛇足があると思います。以上。

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20201116 壷井繁治(つぼいしげぢ)の詩の抜粋と少し感想

2020-11-16 14:52:11 | 本の要約や感想

20201116


  ひとりでいると
  なんの奇蹟も起こらず
  夜は更けて行く



  ━━壷井繁治「動かぬ夜」より抜粋━━

昭和29年発行「昭和詩集」(角川書店)より


壷井繁治Wikipediaリンク



いつものことであるが、私はこの壷井繁治さんを、この本を読むまでまったく知らなかった。壷井という名前ですぐに思い出すのは「24の瞳」の壺井栄さんであるが、まあ関係ないだろうと思ったら、お二人はご夫婦でありました。小豆島出身の二人が東京で出逢い(遠縁らしいので再会、もしくは紹介?)結婚に至ったというようなことらしいです。若き日は世田谷の三宿に住み、晩年を中野の鷺宮(若宮)で過ごしたということです。私は中野若宮なら知らない道はないというくらいによく知っています。道が狭い。西武信金がある。その向かいには果物屋。線路と川があって車ではややこしい。とか。でもいいところです。

さて作品の紹介ですが、この本には彼の20篇ほどの詩が載せられていて、その中から私が良いと思った箇所を脈絡を考えずに抜粋します。行にいちいち題名とかを書くのは面倒だし、かえって複雑になるので、ここでは単純に並べます。繰り返しますが、下の抜粋はひとつの詩ではありません。いくつかの詩からの抜粋を並べたものです。



  星と枯草が話していた

  蟻を殺したが
  悲鳴すら聞こえなかった

  死者たちもたちあがつて抗議する
  生き残った者のなかに生きる死者の存在

  僕が物言わぬからといつて
  壁とまちがえるな

  目を覚ますと、僕は喪章で飾られていた

  風の中の乞食 



プロレタリア詩人ということらしいですが、私はけっこう好きです。
暗い表現が多く、全部を真剣に読むと疲れますが、ある部分に光のような言葉があり、その印象と風景に心が誘われます。

E V O L U C I O




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20201109 佐藤春夫 盡日吟より抜粋と感想

2020-11-09 19:31:33 | 本の要約や感想

20201109

佐藤春夫Wikipediaリンク

佐藤春夫といえば「秋刀魚の歌」が有名で、
さんま苦いか塩つぱいか。のアレである。
そしてやはり世に知られているのは、
谷崎潤一郎から妻を譲渡された件だろう。
秋刀魚の歌もさんまを歌ったわけではなく、その譲渡される前の谷崎の妻を想った詩であるらしい。

「譲渡事件」と呼ばれる件も、だいたい当時のマスコミが醜聞のように書き立てて勝手に騒いだだけで、
本人たちにとっては納得と理解の中で円満に、まあ円満かどうかはわからないが、粛々と進められた話ではないだろうか。

この「昭和詩集」に載せられた「盡日吟」(じんじつぎん?)という佐藤春夫の少し長い詩を私は今日初めて理解しよう思いながら読んだが、結局何が書いてあるのかわからなかった。しかし最後の2行に、



 ああ感情を整理せよ
 むなしく夢を追う勿れ




盡日吟 拙書「捨てた花」に題する狂騒曲 より抜粋  

昭和29年 昭和詩集 角川書店発行


とあり、これは佐藤春夫の親身の言葉だろう。

「一日中歌う」というような意味の「盡日吟」と、形式にとらわれない「狂騒曲」という言葉から、心を浮遊させ思うままに詩を書いたであろうことはわかり、しかしその最後に、はっと我に返って、もしくは数日経ってから少し冷静になって、いつか読む誰かのために、締めの言葉としてこの2行を添えたのではないだろうか。

彼の小説「田園の憂鬱」は、都会から田舎へと犬や猫とともに移り住んだ男が次第に狂ってゆく姿を田園の自然と薔薇に重ねて書いたものらしいが、私は読んだことがない。まあ読む気もないかな。この盡日吟と同じように、その小説のどこかにきっと親身な言葉があるのだろうけれど、それを探す時間はもうないのだから。

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20201031 一穂せんせい

2020-10-31 23:41:38 | 本の要約や感想



絵がヘタじゃの。

E V O L U C I O

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20201030 吉田一穂の詩について。個人的な感想。

2020-10-30 18:15:50 | 本の要約や感想

20201030


 私は、終夜、遠方に、
 静かな妹を見送る。


吉田一穂の詩「雪」より抜粋

(昭和29年 角川書店発行 昭和詩集から)



私はこの吉田一穂(よしだいっすい)という詩人を知らなかった。
数篇の作品を読んだ感想を書くと、これは良い悪いの評価ではなく私が好きか嫌いかで言うのだが、あまり好きな感じではない。

難しい言葉を探してきて使っているように思えるのと、距離と書いてディスタンス、最弱音と書いてピアニシモと読ませたりと、当時では画期的だったのかもしれないが、その方法が多用されていて、どうもしっくりこない。そのこともあり、また全体の印象としてなんとなく外国の詩集を和訳で読んでいるような感じがするのだ。もちろんこれらすべては私の読み込みと理解の不足だろう。さらっと読んだだけなので。

そのいくつかの彼の詩の中で「雪」という七行の短い作品があり、最後の二行がこのページの冒頭にある抜粋である。私は読んだ彼の作品の中でこの二行に一番心が惹かれた。

厳しい冬、雪に閉ざされた北国の夜、夜通しの道のりを誰かが妹を遠くまで送って行く。その「静かな妹」が生きているのか亡骸なのか七行では判断がつかないが、飾りのない言葉であり、手を伸ばせばそこに妹の身体を感じさせる確かな手応えがある。

とはいえ、私は少し天の邪鬼なので、選び抜かれた言葉を連ねた他の詩に比べて素朴なこの言葉に惹かれたのかもしれない。卑近な例えを書くと、フランス料理を食べて帰宅をし、茶漬けを食べたら感動した。というようなことかもしれない。だから批評はしない。感想であります。

ところが、このページを書くのに何度も読んでいたら、けっこういいな、とも思い始め、もう一篇から抜粋を紹介しておこうか。けっこうというのも失礼か。

それから、一穂先生の似顔絵を描いたからここに貼ろうと思ったのだが、どうせ私の絵です、真面目な先生に怒られそうなので、まあ2,3日してから貼ろうかと、本日は貼りません。


       「死の馭者」から抜粋

 埋れた街々の夜を渉る幽かな鐘の乱打が、
 悶え噎び遠く吹雪の葬列に送られてゆく。




E V O L U C I O



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20201028 原民喜の詩「感涙」の感想を少し。

2020-10-28 21:30:21 | 本の要約や感想


  感涙

 まねごとの祈り終にまことと化するまで、
 つみかさなる苦悩にむかひ合掌する。
 指の間をもれてゆくかすかなるものよ、
 少年の日にも涙ぐみしを。

 おんみによつて鍛へ上げられん、
 はてのはてまで射ぬき射とめん、
 両頬をつたふ涙 水晶となり
 ものみな消え去り あらはなるまで。




原民喜(はらたみき)wiki

━━以下私の感想━━

この詩人、原民喜について私はよく知らないわけだが、どうやら広島の原爆の被爆者であるとのこと。

彼の詩は、死の予感、匂い、そういったイメージがあるなどという程度ではなくて、死そのものや破滅悲惨などが書かれ、読むとむしろ作者を痛々しく思う。

彼がキリスト教徒であったかは定かではないのだが、早逝した姉の聖書を譲り受けたとあるから、この感涙という詩はキリスト教を念頭に置いたものであるだろう。

それにしても、キリスト教徒詩人の八木重吉もそうだが、なぜそんなに純粋になろうとするのだろうか。自分はもっと襤褸を着なければいけないのではないか、というように自らを苦難や試練に追い込んでいくのだ。

この詩でも最後の行にそのような希求を読み取れる。
厳しすぎないか、と私は思うが、しかしこの詩は好きです。
私はこんな心境にはなれはしないが、理解はできる。
そしてこの詩が言葉の遊びではないことを彼は身を以て証明したわけであるし。

爆心地から1.2kmの自宅で被爆をしたというのだから、当然彼は地獄を目の当たりにしたのだろう。地獄を見た人を私などが批評できるわけもなく。

E V O L U C I O 20201028

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20201027 野田宇太郎の詩 「夜の傷」からの抜粋

2020-10-27 21:13:36 | 本の要約や感想

 だが夜は気づかなかつた、
 それはすでに夜の傷口だつた、
 しづかだつた。


野田宇太郎の詩「夜の傷」から抜粋

野田宇太郎wikiリンク


━━以下説明と感想━━
この傷口というのは、老いて切り倒され横たわる樫の木の切り口である。
森の奥で夜の闇がその白さを隠すように忍び寄る。
やがて樫の木は闇に見えなくなり、
“傷口は木のそれから夜のものに変わった”
私の感想では、この“”内がこの詩の要であるだろう。

重ねて書くと、
切り倒された樫の木の太く白い切り口はまるで傷口のように見えたが、
夜がやってきて森が闇に覆われると樫の木も闇に溶けて、
白い切り口だけが闇に浮かび、それはいつしか夜の傷口に見えた。
だが夜はそのことに気づかなかった。

何かの暗喩であるようにも思えるし、
しづかだった。という最後の一行に読めるように作者はただそこにあるがままを書き記したようにも思える。
私はふとニーチェのこの言葉を思い出した。
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

E V O L U C I O  20201027


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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p15 感想その12「石の重さとベケットの名前」

2018-03-10 21:06:53 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p15 感想その12「原文・石の重さとベケットの名前」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

参照「石のリアリティ」


先日、一応の結論を書いたが、核心にはきっとほど遠いなという感は否めない。

さて、英文の原作を注文したらすぐに届いたので、早速、あの石の重量の部分を確認してみた。

'They weigh somewhere between sixty and seventy pounds'
Murks said.'Just enough to make you feel each one.'(108p)


「一つ25キロから30キロある」とマークスは言った。
「ちょうど1キロ1キロが実感できる重さだ」(177p.178p) 柴田元幸訳


1ポンドは約0.453キロであるから、60ポンドは約27キロ。70ポンドは約31キロ、になる。

すると訳はとくに間違ってはいないことが証明された。

それでは作る壁のサイズはどうだろう。


'Two thousand feet long and twenty feet high-ten rows of a thousand stones each.(106p)


「長さ600メートルで高さ6メートル、一段につき千個の石が十段。……」(174p) 柴田元幸訳


これも間違ったところは何もない。

そうすると、以前にも書いたが、
30キロの人が持てるほどの小さな石を十段積んでも、
どう考えても6メートルの高さにはならないのに、小説では「なる」と考えられている。

だからリアリティがかなり薄い。

私はこの部分に作者のどんな意図があるのか、今のところ明らかにはできない。

そして今回もう一つの問題というか衝撃。
英文の原作が届いて、裏表紙を見てあっと思ったこと。それは、

「ボール・オースターはこのブリリアントで不安定な寓話にサミュエル・ベケットとグリム兄弟を溶かし込んでいる」

と書いてあったのだ。

グリムはまだしも、ベケットは不条理劇作家じゃないか。

不条理━━事柄の筋道が立たないこと。

日頃、不条理な夢の記述をさんざんしておきながら、
私にはこの不条理の物語というものを明確に理解する読解力なんて、
はっきり言って、ない。

しかし読んで初めて感じた抽象画的な感覚はけっして遠くはなかったな。

それにしても、
超絶悲観論者で鬱病のベケットはたしかあのカフカが好きだったような気がする。

フランツ・カフカ。有名なのは「変身」だったか。

若い時にカフカをそれだけ読んだ記憶はあるが、まったく理解できなかった記憶もある。

なんだったか。目が覚めると虫になってたんだっけ? それしか憶えていない。

虫、苦手だからなあ。

そうか。ポール・オースターを調べてみればいいのか。

……Wikipediaで読んでみると、やはりベケットやカフカに影響を受けていると書いてある。

この「偶然の音楽」これ一冊だけで考えようと思っていたから、
調べるのは少し自分的にルール違反である気がするが、まあ仕方がない。
何にも道標は必要だ。

不条理。ベケット。カフカ。そしてグリム。

やっかいこの上ない。

ところで寓話ということは、つまり、寓意があるということになるわけか。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫
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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p14 感想その11「序章について」

2018-03-05 19:00:13 | 本の要約や感想
偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫


<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク


まる一年のあいだ、彼はひたすら車を走らせ、アメリカじゅうを行ったり来たりしながら金がなくなるのを待った。(5p)柴田元幸訳


このような書き出しのほんの12行(日本語訳で)の序章には、この小説のほとんど全てが書かれているような気がする。だからいつもここへ戻って読み返す。しかしどうにも霞がかかったような文章で、いくら読んでも明確な答えを得ない。

アメリカ中を車で走り回った挙げ句、もうどうにもならないと考えていた時に、風で小枝が足元に落ちてきたようにジャック・ポッツィと出会った。ジム・ナッシュは彼をひとつの猶予として見た。手遅れになる前に自分を何とかするための、最後のチャンスとして捉えた。

そんなわけで、あっさりと彼はやってのけた。恐れに震えたりもせず、目を閉じ、飛んだ。(5p)柴田元幸訳


この序章の一番の問題はこの最後の一行で、これが何を意味するかで小説の意味は全く違ったものになってしまう。

この「目を閉じ、飛んだ。」は、単純に考えると小説最後のシーンにリンクすると思えるが、そうすると「あっさりと彼はやってのけた。」という部分が不可解に感じられる。なぜならジム・ナッシュは「手遅れになる前に自分をなんかする」ことを考えていたのだから。

「やってのけた」ということは、見事にやり通した。もしくは成就した。などのどちからといえば華々しく肯定的な意味になるが、いったい何をやってのけたのか。「やってのけたこと」が小説最後の結果だとしたら、「手遅れになる前に自分を何とかするための、最後のチャンスとして捉えた。」に矛盾しないだろうか。

ここを読み違えたくなく何度も読み返すわけだが、頭が悪くて、まだわからないね。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫
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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

2018-02-27 18:42:49 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

妻に去られたナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。すべてを捨てて目的のない旅に出た彼は、まる一年赤いサーブを駆ってアメリカ全土を回り、〈十三ヶ月目に入って三日目〉に謎の若者ポッツィと出会った。〈望みのないものにしか興味の持てない〉ナッシュと、博打の天才の若者が辿る数奇な運命。現代アメリカ文学の旗手が送る、理不尽な衝撃と虚脱感に満ちた物語。(裏表紙より)


この本を読み終えて私が一番感じたことはこのブログにも何回か書いているが、はい読み終わりました。一応筋は通っていました。さてしかし内容に意味があったのだろうか。もしかすると作者はサイコロでも転がして書いたのではないか。いったい何が主題なのか。だった。

この文庫本は去年に部屋を掃除していた時に出てきたもので、いつどこで買ったのかも憶えておらず、題名すら記憶になかった。しかしその題名から私がどこかの古書店で内容も見ずに題名だけで買ったことはまず間違いなかった。

それで去年のクリスマス頃に読み始め、平易な文章だからすぐに読み終えたが、私の心は疑問符だらけになり、上に書いた感想をまずは持ったのだった。

それからこのブログになんとなく━━他に書くことがなくて━━中盤までの要約を書いてみて、最後の部分まで書くのはさすがに躊躇われ、私がテキトーに創作して終りにしたが、それでは少し無責任な気がしてきて、それなら感想を書いてみるか、という気になり、書き始めたら、これはやっかいな作品だな、ということに気がついて、現在に至るわけだ。

よし、もう私の結論を書いてしまおう。
この作品に意味があるのか、ないのか、を私は読後に強く感じたわけだが、つまりそれは作者の、ポール・オースターの思想の基盤からの意図で、つまり、私たち人間が生きることには意味があるのか、それともないのか、言い換えれば、意味を持って生まれてきたのか、それとも何も持たずに生まれてきたのか、これがこの作品の主題だ。と私は思う。もっと言い換えれば、この世界は必然なのか、それとも偶然なのか、の違いとも言える。

しかも、この作品は完成品ではない。しかしおざなりな未完成品でもない。おそらく作者のイメージする様々な描写と設定を象徴的に筋の中に嵌め込んだ明確な現実とも幻想ともいえない物語で、いやこれは物語というより詩的文章といったほうがむしろ理解し易いだろう。

それではいつ完成するのかというと、これは月並みだが、読者が解釈をして初めて作品は完成する。意味があると思えば意味のある作品になり、無意味であると思えば無意味な小説である。妻に逃げられ、子供とも離れ、疾走し、迷走し、出会い、賭けて、負けて、囚われて、壁を作り……、単に筋だけを追ったら、ああ面白かったね。それで終りだ。

だがもしこの小説に意味を見出そうとして読んだなら、その人の数だけ解釈と理解は生まれ、ゆえに作品も無数に派生することになる。そしてこれは言い過ぎになるかもしれないが、もしかすると著者本人もこの作品の真の意味を書いた当時にはわかっていなかったのではないだろうか。いや、決して悪い意味ではなく、なんというか、自分で書いて自分の手に余るというか、それくらい大きさのわからない作品というか、たとえば覗けばいつも自分の顔が映る鏡のような明確さはなく、箱に入った<夢の鉱石>のように、蓋を開けると乱反射をして、見つめても光の芯が見えないというような。

主人公ジム・ナッシュは自身の存在の意味や意義を探して全米を疾走したが、それはそのまま作者の姿であり、作者もこの小説を書きながら希望を持ったり失ったりと迷走したに違いない。なぜかそう思うかというと、ポール・オースターはどうやら自分の属性を悲観的な側にあるとこの小説の当時考えていたようだが、心の花びらを占いのように「悲観。楽観。悲観。楽観」と一枚一枚と毟っていくと、どうも最後に残るのは彼が好むと好まざるに関わらず、それはごく小さな楽観であるように私には感じられるからだ。だから当時まだ若かったポール・オースターは楽観的であろうはせず、しかし悲観的にもなりきれず、自分はどっちにいるのか、行くのかと迷った挙げ句、最後にジム・ナッシュをあのように光へと収束させてしまったのではないか。

わかり易く書けば、ポール・オースターはこの作品を書いた時点(1990)では、まだ十分に迷っていたのではないか。最新どころか、これ以外の作品を私は読んでいないから、現在の彼の心境を私は知らないが、推測するなら、もしかすると悲観や無意味の殻を破って楽観の光が作品から漏れ出しているのではないだろうか。なぜなら、人間やはり齢をとると自分の最奥の芯にあるものが出てくるものだから。

結論を書いたから、もうこれで終りにしてもいいのだが、それではあんまりだから、この結論に至った考察の検証を私なりにしようと思うが、きっと飛び飛びで長くかかる。そして上に書いた結論も変わる可能性もある。私は彼について名前すら知らなかったので、今日のところの結論はまったく反対に変わる可能性もある。今日は大きな勘違いだったかもしれない。しかしこの勘違いが後になって自分でも笑えて面白いというもの。
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コーヒーと本と

2018-02-24 19:19:19 | 本の要約や感想
今日は暖かいので、コーヒーの抽出温度をその分だけ下げて淹れてみたところ、
先日、ハワイコナのブレンドのドリップ時に82度と書いたことを思い出し、
あれは寒い日だったから低めとはいってもあの温度にしたわけだが、
今日くらいの陽気であれば、イタリアンローストは75度くらいにしても、
いや、したほうがいいような気がした。もちろん焙煎日からの日数にもよるのだが。

今朝、ドトールのクリスタルブレンドを
クレバーのドリッパーで淹れた300ccはとても美味くてよかったが、
今、これを書いている途中に淹れてきたインドネシアのシングルはあまりよくない。
まあ75点というところ。
飲みながら何が悪かったかを考えているが、抽出時間が20秒ほど長かったかもしれない。
なお普通のハンドドリップね。ハリオね。紙ね。

今日は朝からずっと本を読んでいたのだが、もう夕方か。
目も頭も疲れたから休憩している間にコーヒーを5種類、1キロ注文してやった。
この中に一つでも当たりがあればうれしい。

それにしても「偶然の音楽」のこと。やっかいな本に手を出したなという感がある。
以前、フラナリー・オコナーを読んだ時に感じたほどの拒絶感はないのだが、
ポール・オースター(柴田元幸訳)は読み易いので進むが、読んでいる途中に、
これを読むことに意味があるのだろうか。という疑問が湧く瞬間があり、
まだ「偶然の音楽」だけしか読んでいないわけだが、
教訓もなし、目を見張るほどの成長もなし、幸福もなし、カタルシスなし、希望なし。
最後まで読んだとしても「で?」という感覚が残ってしまって、なんというか、
登場人物たちが読者を独り残して皆消滅しまったような感じで、ひどく淋しい。

主人公のジム・ナッシュも「寂しくて気が狂いそう」(柴田元幸訳)と話の途中でつぶやいているが、
そこを読みながら少し笑ってしまうのはそんな結末があるからだろうか。それとも、
私の性格があまり良くないせいだろうか。たぶん後者。
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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p12 感想その9「スローダウン」

2018-02-14 17:46:42 | 本の要約や感想
感想を書くと宣言しておいて、相変わらずまだ筋を追ってるが、中盤までは話の土台だと思うので遠慮なく書いている。しかしここから先はもうほとんど筋を書いたりするつもりはない。あらすじ全文くらいは検索すればいくらでも出てくるし。

あらすじをしつこく何度も繰り返すように書いたのは私の頭の中を整理し、かつ物語を自分に浸透させたいからであるのと、このブログをかろうじて読んでくれている人へのわずかなサービスであったが、ここから先の私の感想は、小説を実際に読まないとおそらくわかりにくいかと思う。誰にでもわかり易く書こうとすると、最後までを詳しく説明しなければならないので。

とはいっても、この小説、というかこの著者ポール・オースター。決してわかり易い作家ではない。そして、わかり易く説明できる作家でもない。平易な文体で難解な構造を作り出しているような気配がある。

ここで何がいいたいかというと、私にはこの作家作品はちょっと難しかったかもしれない。言い換えると、レベルが高かったかな。最初に読んだ時にはまあ普通のちょっと設定が面白い小説だなくらいに思っていたのだが、読めば読むほど、考えれば考えるほど、自分の思考能力の単純さを痛感せざるをえない。

なんとなく、本当になんとなく、他に書くことがなくて始めた本の感想文なのだが、恥ずかしいことに今、私の目の前にも高い壁が立ち塞がっていて、どうやって前に進もうかと考えている。

この作家をこの作品しか読んでいないことも前が見えない原因になっているかと他の作品を注文しかけたが、いやあくまでこの作品だけで突破したいと考え直し注文は止めた。どうやら著者のエッセイ集にこの「偶然の音楽」に関するかなり答えに近いことが書いてあるらしいのだが、それは私にとって後日の答え合わせ的な楽しみにとっておきたい。

この感想文を書き始めた時には、5,6回の投稿でまとめようと考えていたが、今日もうすでに9回目で、しかもその内容のほとんどが話の筋である。しかし本日のところの自分なりの感触では、これは半年以上かかるかもしれない。連続ではなく、考え考えのことだが。

短距離走かと思って参加したらマラソンだったということで、ここで少し息を整えて、長距離のためのペースに切り替えるつもり。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫


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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p11 感想その8「壁へのステップ」

2018-02-10 20:36:07 | 本の要約や感想
前回では、この小説は途中からリアリティが薄くなるような気がする。と書いた。

どこからか? というと、ジム・ナッシュが「世界の街」を初めて見たあたりから、そして、その直後のディナーの場面でとくにストレンジな雰囲気が食堂に漂う。

時系列を少し前から説明をすると、ジムとジャックはニューヨークから車に乗ってペンシルバニアにある二人の富豪の住む屋敷へ苦労して辿り着いた。

フラワーとストーンと呼ばれる男二人が出迎え、飲み物をジムとジャックに振る舞い、自分たちがどうして金持ちになったかを語った。

その後、屋敷の部屋や調度品の紹介と案内と自慢話のツアーが始まり、最後にフラワーとストーンのそれぞれのプライベートな部屋に通された。

フラワーの部屋には奇妙な骨董品ばかりが蒐集陳列され、ストーンの部屋では「世界の街」というミニチュアの街並が広がっていた。

「世界の街」はストーンが部屋の中でライフワークとして取り組んでいる手作りの街で、広い台の上のその架空の街にはその街に住む人々の人形たちに混じってストーンやフラワーのミニチュア人形も置かれていた。

そしてストレンジ感のある問題のディナーが始まり、その後にポーカーのルールを決めてゲームが始まった。

静かに始まった勝負は中盤からジャック・ポッツィにツキが回ってくるとジャックは勝ち続け、ジャックの後ろで観ていたジム・ナッシュはこれで勝負はついたなと安堵し気を緩めてしまい、1時間ほど外に出て戻ってみると形勢はすっかり逆転していて、ジムはポケットに残っていた金をすべてジャックに託し、さらにボルボをも賭け金に替えて勝負をしたが、ジャックにツキが戻っては来ず、完全に家主たちに負けてしまった。

車がなければ田舎の果てにあるようなこの屋敷から帰れないため、車を取り戻すためのカードゲームを今度はジムがフラワーを相手に行ったが、これにもあっさりと負け、この瞬間ジムとジャックはこの車の勝負の負け分として1万ドルの借金を負ってしまった。

ストーンとフラワーにしてみるとこれはジレンマだった。
二人を帰せば逃げられる。帰さなければ金が返ってこない。
そこでストーンが提案をする。

「壁を作ってもらうという手もある」

フラワーがそれは名案だと叫ぶ。

壁とは何か。

ストーンとフラワーはアイルランドを旅行した時に廃墟になった城に巡り会った。城は崩れてしまっていて、形作っていた石を持ち主に交渉し買い取り、このペンシルバニアの屋敷まで運ばせたのだった。

その1万個の石は敷地の中で今は山のように積み上げてあるが、二人の計画ではこの石を使って長さ600メートル、高さ6メートルの直線の壁を作るつもりだった。

しかし建設にあたって監督役には屋敷の番人カルヴィン・マークスがいるが、実際に力仕事をする人間がいなかった。

そこにジム・ナッシュとジャック・ポッツィが現れて、丁度良く負けたというわけだ。

時給10ドル。1日10時間労働。二人で1日200ドル。
借金は1万ドルだから、50日の労働で片がつく。
この時点で8月の末なので、10月中には借金を払い、ここを出られる。
壁は50日では完成しないだろうが、二人は借金を払った時点で自由を得られる。
生活は敷地内にあるトレーラー、つまりキャンピングカーでする。
食料や生活に必要な物は何でもマークスが届けてくれる。

ギャンブラーで華奢なジャックはその提案を一蹴したが、元消防士のジムは、もしかするとこの壁を建てる作業は自分を見つめ直すいい機会になるのではないかと思った。

ジャックは逃げようと言ったが、ジムは逃げることは出来ないと答えた。
この描写は、悩めるジムにとっては労働から、というよりも、自分の人生からもう逃げたくないということだろう。

ジムはジャックだけを自由にしてやり、独りになっても、そのため日数が倍かかってもこの提案━━ジムにとっては突如現れた機会━━をやり遂げようと思い始めた。

ところが、誰にでも噛み付きそうに苛立っていたジャック・ポッツィは考えた末に自分も残るよとジム・ナッシュに言った。

ジムはジャックが自分を独り残してここを去るだろうと確信していたから、その申し出にジムは自分でも唖然とするくらいに嬉しかった。

負けた二人と金持ちの二人は労働条件に関する契約書を取り交わし、壁の建設は始まった。

ここで私が前回指摘した石の重さの問題が出てくるわけだが、500キロ以上とすると話の前提がまったく変わってしまい、とてもジムとジャックの二人の力だけでは石はぴくとも動かないから、やはりここは素直に1個が30キロ程度として読みすすめたい。

起承転結という型に合わせて考えてみると、ジム・ナッシュが旅に出るまでが起、ジャックに合うところが承、そしてこの壁の建設を提案されるあたりが転ではないかと思う。

とはいっても、この小説は決して話の筋を読むことが大事なのではなく、筋や登場人物の心模様、演出、設定、セリフ、小道具、など、すべてを合計し、そこに自分の想像の火をつけて上がってくる煙の色や形や匂いを感じる取るようなことが重要ではないかと思う。

簡単に言えば、書いてあることを読んで、書いてないことを感じるということだが、まあそれはどの本にでも言えることだった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫
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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p10 感想その7「石のリアリティ」

2018-02-07 19:49:41 | 本の要約や感想
……いろいろあって自己喪失をしたジム・ナッシュは何か心を埋めるものを見つけようと買ったばかりの赤いボルボで全米を約一年ほど衝動のままに走り回ったが、しかしいいことは何もなかった。遺産の金も少なくなって先行きの不安に苛まれトボトボと走行中に若い男ジャック・ポッツィを拾った。ジャックはギャンブラーで、明後日に特別なゲームがあるという。ジム・ナッシュは金を、ジャック・ポッツィはポーカーの腕を、と互いに補い合い、ニューヨークを経由してペンシルベニアにある二人の富豪の住む屋敷へと向かった。

ここまでがこの小説の土台といっていいだろう。

私はこの小説を去年末ごろに初めて読んだ時に、もしかするとこの物語は、この土台部分までが現実の話で、屋敷に着いたあたりからジム・ナッシュの精神の変調による幻もしくは夢のような設定なのかと思い、その境目の描写を探したのだが、明確なそれはどうしても見つからなかった。

たとえばデビッド・リンチの映画のように。たとえばフィリップ・K・ディックの小説のように、スイッチのオンオフで二つの世界を出たり入ったりするような構造なのかなと、この初めて読んだポール・オースターという作家のどうにも掴みどころのない小説に感じたが、どうもそうではなさそうだ。少なくとも明確にそうだとは言えない。

大一番のポーカーには結局負けて、二人の富豪に借りた1万ドルを不可解かつ巨大な壁を作るという肉体労働で支払うことになるのだが、その長さ600メートル、高さ6メートルの壁を作るという発想と計画自体が現実離れしていて、物語のリアリティを私はそのへんから薄く感じ始めた。

リアリティを薄く感じた根拠を具体的に一つ挙げると、ストーンとフラワーがアイルランドで見つけた廃墟になった城の残骸の石を自分たちの屋敷の敷地まで船で運ばせたわけだが、その数は1万個と記述がある。

その1万個の石で長さ600メートル、高さ十段6メートルの壁をジム・ナッシュとジャック・ポッツィがマークスの監督の下で積み上げるわけだが、ジムがその石を初めて目にした時に、さてどれくらいの重さか試しに持ち上げてみる描写があり、そこには1個が25キロから30キロあると記述されている。

ジム・ナッシュは力を振り絞って石を持ち上げ、何歩か歩いて石を降ろし、「やれやれ」と言った。

私はここでどうにも首を傾げた。なぜかというと、石はそんなに軽くないので。

高さが10段で6メートル。そして長さが600メートルの壁━━つまり、1段を1000個直線に並べて、それを10段積む━━を作るなら、単純にその石はだいたい幅・奥行き・高さがどれも60センチくらいの大きさだと推測できる。

壁の厚みだけが記述にないので石の奥行きが不明だが、しかし600メートルの直線の壁を作るとなれば幅より奥行きが短いということは考えられない。

3辺が60センチの立方体がもし比重の基本である水であったら、水の比重は1だから、60×60×60で、216キログラムになるだろう。

基準の水の比重1に対して自然石の比重は今調べてみたら2,6以上ということなので、216キロを2,6倍すると、石1個の重さは少なくとも約560キロになる。

まあ、それくらいあるだろう。
それとも私の計算が間違っているのだろうか。

ちなみに、約30キログラムの石の3辺はというと、計算すると約22.6センチだ。

1個560キロと30キロでは、まったく違う話になってくるわけで、560キロなら重機が必要だ。小説の記述のようにレディオ・フライヤー(子供用荷車。小説中ではファースト・フライヤー)なんかではとてもじゃないが運べない。

実はこの小説は映画化されていて、その映画はかなり小説の内容に沿ったものになっているらしく、私も興味があったので飛ばし飛ばし観たが、石を運ぶ作業の場面でたしかにレディオ・フライヤー様の子供荷車を使っていて、しかも運ぶ石も1個30キロもしくはもっと軽く見えるほどの大きさだった。

ということは、どういうことなんだろうか。

誰かが間違っているのか。それとも私が考え違いをしているのか。何かの意図がここに籠められているのか。

たった30キロの石を10段積み上げても、いくらなんでも6メートルにはならないだろう。1000個並べたって、600メートルにはならない。そんなことは感覚的にもすぐわかる。長さ1メートルの<巨石>を600個並べてやっと600メートルなのだから。

だからといって訳者が間違っていることは考えられない。校正も校閲も入っているだろうし。そして映画の映像によれば、原文もきっと30キロ程度の石だと書いてあるのだろう。そうか、訳していない原作を手に入れれば何かは少しわかるのかもしれない。まあそれは後にして。

結局のところ何が言いたいのかというと、この小説は途中からリアリティが少し薄れてくるということは気のせいではないのだが、とはいってもデビッド・リンチの作品ほど錯乱や狂気が前面に表れているわけではまったくなく、先にも書いたが、現実からリアリティが薄れてくる段階がとても静かで、明確な境目は今のところ私にはわからないし、そして最後まで世界は破綻しないのだが、いやあれは破綻といっていいのか。

富豪の片割れストーンのライフワーク「世界の街」をジム・ナッシュが目にしたあたりからが奇妙な感覚が漂い出し、その後のディナーで一層おかしくなってきて……、

だいたいこのストレンジ感溢れるディナーの設定はこの小説に必要だったのだろうか。

富豪の二人の奇妙な生活ぶりをそこに象徴させたのだと思うが、この小説中、この場面がとくに異質に感じられ、もしかするとここがこの小説を読み解く鍵なのかもしれない。

つづく。
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