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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

2018-02-27 18:42:49 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

妻に去られたナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。すべてを捨てて目的のない旅に出た彼は、まる一年赤いサーブを駆ってアメリカ全土を回り、〈十三ヶ月目に入って三日目〉に謎の若者ポッツィと出会った。〈望みのないものにしか興味の持てない〉ナッシュと、博打の天才の若者が辿る数奇な運命。現代アメリカ文学の旗手が送る、理不尽な衝撃と虚脱感に満ちた物語。(裏表紙より)


この本を読み終えて私が一番感じたことはこのブログにも何回か書いているが、はい読み終わりました。一応筋は通っていました。さてしかし内容に意味があったのだろうか。もしかすると作者はサイコロでも転がして書いたのではないか。いったい何が主題なのか。だった。

この文庫本は去年に部屋を掃除していた時に出てきたもので、いつどこで買ったのかも憶えておらず、題名すら記憶になかった。しかしその題名から私がどこかの古書店で内容も見ずに題名だけで買ったことはまず間違いなかった。

それで去年のクリスマス頃に読み始め、平易な文章だからすぐに読み終えたが、私の心は疑問符だらけになり、上に書いた感想をまずは持ったのだった。

それからこのブログになんとなく━━他に書くことがなくて━━中盤までの要約を書いてみて、最後の部分まで書くのはさすがに躊躇われ、私がテキトーに創作して終りにしたが、それでは少し無責任な気がしてきて、それなら感想を書いてみるか、という気になり、書き始めたら、これはやっかいな作品だな、ということに気がついて、現在に至るわけだ。

よし、もう私の結論を書いてしまおう。
この作品に意味があるのか、ないのか、を私は読後に強く感じたわけだが、つまりそれは作者の、ポール・オースターの思想の基盤からの意図で、つまり、私たち人間が生きることには意味があるのか、それともないのか、言い換えれば、意味を持って生まれてきたのか、それとも何も持たずに生まれてきたのか、これがこの作品の主題だ。と私は思う。もっと言い換えれば、この世界は必然なのか、それとも偶然なのか、の違いとも言える。

しかも、この作品は完成品ではない。しかしおざなりな未完成品でもない。おそらく作者のイメージする様々な描写と設定を象徴的に筋の中に嵌め込んだ明確な現実とも幻想ともいえない物語で、いやこれは物語というより詩的文章といったほうがむしろ理解し易いだろう。

それではいつ完成するのかというと、これは月並みだが、読者が解釈をして初めて作品は完成する。意味があると思えば意味のある作品になり、無意味であると思えば無意味な小説である。妻に逃げられ、子供とも離れ、疾走し、迷走し、出会い、賭けて、負けて、囚われて、壁を作り……、単に筋だけを追ったら、ああ面白かったね。それで終りだ。

だがもしこの小説に意味を見出そうとして読んだなら、その人の数だけ解釈と理解は生まれ、ゆえに作品も無数に派生することになる。そしてこれは言い過ぎになるかもしれないが、もしかすると著者本人もこの作品の真の意味を書いた当時にはわかっていなかったのではないだろうか。いや、決して悪い意味ではなく、なんというか、自分で書いて自分の手に余るというか、それくらい大きさのわからない作品というか、たとえば覗けばいつも自分の顔が映る鏡のような明確さはなく、箱に入った<夢の鉱石>のように、蓋を開けると乱反射をして、見つめても光の芯が見えないというような。

主人公ジム・ナッシュは自身の存在の意味や意義を探して全米を疾走したが、それはそのまま作者の姿であり、作者もこの小説を書きながら希望を持ったり失ったりと迷走したに違いない。なぜかそう思うかというと、ポール・オースターはどうやら自分の属性を悲観的な側にあるとこの小説の当時考えていたようだが、心の花びらを占いのように「悲観。楽観。悲観。楽観」と一枚一枚と毟っていくと、どうも最後に残るのは彼が好むと好まざるに関わらず、それはごく小さな楽観であるように私には感じられるからだ。だから当時まだ若かったポール・オースターは楽観的であろうはせず、しかし悲観的にもなりきれず、自分はどっちにいるのか、行くのかと迷った挙げ句、最後にジム・ナッシュをあのように光へと収束させてしまったのではないか。

わかり易く書けば、ポール・オースターはこの作品を書いた時点(1990)では、まだ十分に迷っていたのではないか。最新どころか、これ以外の作品を私は読んでいないから、現在の彼の心境を私は知らないが、推測するなら、もしかすると悲観や無意味の殻を破って楽観の光が作品から漏れ出しているのではないだろうか。なぜなら、人間やはり齢をとると自分の最奥の芯にあるものが出てくるものだから。

結論を書いたから、もうこれで終りにしてもいいのだが、それではあんまりだから、この結論に至った考察の検証を私なりにしようと思うが、きっと飛び飛びで長くかかる。そして上に書いた結論も変わる可能性もある。私は彼について名前すら知らなかったので、今日のところの結論はまったく反対に変わる可能性もある。今日は大きな勘違いだったかもしれない。しかしこの勘違いが後になって自分でも笑えて面白いというもの。

コーヒーと本と

2018-02-24 19:19:19 | 本の要約や感想
今日は暖かいので、コーヒーの抽出温度をその分だけ下げて淹れてみたところ、
先日、ハワイコナのブレンドのドリップ時に82度と書いたことを思い出し、
あれは寒い日だったから低めとはいってもあの温度にしたわけだが、
今日くらいの陽気であれば、イタリアンローストは75度くらいにしても、
いや、したほうがいいような気がした。もちろん焙煎日からの日数にもよるのだが。

今朝、ドトールのクリスタルブレンドを
クレバーのドリッパーで淹れた300ccはとても美味くてよかったが、
今、これを書いている途中に淹れてきたインドネシアのシングルはあまりよくない。
まあ75点というところ。
飲みながら何が悪かったかを考えているが、抽出時間が20秒ほど長かったかもしれない。
なお普通のハンドドリップね。ハリオね。紙ね。

今日は朝からずっと本を読んでいたのだが、もう夕方か。
目も頭も疲れたから休憩している間にコーヒーを5種類、1キロ注文してやった。
この中に一つでも当たりがあればうれしい。

それにしても「偶然の音楽」のこと。やっかいな本に手を出したなという感がある。
以前、フラナリー・オコナーを読んだ時に感じたほどの拒絶感はないのだが、
ポール・オースター(柴田元幸訳)は読み易いので進むが、読んでいる途中に、
これを読むことに意味があるのだろうか。という疑問が湧く瞬間があり、
まだ「偶然の音楽」だけしか読んでいないわけだが、
教訓もなし、目を見張るほどの成長もなし、幸福もなし、カタルシスなし、希望なし。
最後まで読んだとしても「で?」という感覚が残ってしまって、なんというか、
登場人物たちが読者を独り残して皆消滅しまったような感じで、ひどく淋しい。

主人公のジム・ナッシュも「寂しくて気が狂いそう」(柴田元幸訳)と話の途中でつぶやいているが、
そこを読みながら少し笑ってしまうのはそんな結末があるからだろうか。それとも、
私の性格があまり良くないせいだろうか。たぶん後者。

夢の羅列<花嫁フォーク> 20180218採取

2018-02-19 19:35:45 | Dreams
夢の中を皆で歩いていた。

ぞろぞろと30人以上いる。

これは、
現在の齢になった学生の時の友人たちと、なのか、それとも学生の時に戻っているのか。

いやよく見ると、皆22,3歳の姿なので、
その齢になった学生の時の友人たちと何かの集まりの後ぞろぞろと歩いているのだ。

風は冷たくはない。

気の早い桜がうっかりと咲きそうな夜の並木道である。

通り沿いにファミリーレストランが明るく営業していて、
その前で入るのか入らないのか、皆が溜まった。

他の通行人には迷惑この上ないが、ワイワイと楽しい雰囲気が充満していた。

そのうち誰かがギターを弾き始め、よし歌おうということになり、突然の大合唱となった。

歌は花嫁を祝う古い曲で、誰もが知っている。という夢の中の設定らしかった。

そうか。この中の誰かが結婚をするのか。その2次会だか3次会なのか。

私はこの夢への闖入者なので、歌詞もメロディも知らなかったが、
「今夜、君と、夜汽車に乗って〜♪」というようなありがちな歌詞と、
これまたありがちな'70年代のフォークソング調メロディなので、
適当に合わせて歌いながら、この集まりの意味を理解した。

ところがどこで練習をしたのか集団の一部が主旋律から突如離脱をし、
感傷的なアレンジのハーモニーを歌い始めたら、
この古臭いメロディがやけに私の琴線に触ってきてしまい、さらに、
友人と祝いと季節とがこの夜道で歌に重なり合って、独り胸にぐっときてこれはマズイなと思ったところ、
今度は2,3人がいつ用意したのか、大きな紙に墨で書いた歌詞をレストランのガラス面に掲げた。

私は歌詞を見て歌を続けながらその先を目で追ってみたら、歌詞の最後に、
「♪〜そして亜紀子、大福餅でアタる〜♪」と殊更に朱色で強調し書いてあったので、
なんだコレ?と私の声は止まり、ちょうどその時、皆の歌がその最後の部分になって、
しかもそこをリフレインで大合唱するものだから、私は夢の中で死ぬほど笑った。

毎回に思うが、なぜこんな夢を見るのだろう。

「亜紀子」は私の記憶の中で、たしか小学校の同級生にしかいない。

もちろん、というか、とにかく何十年も会ったこともないし、今日まで思い出したこともない。

不思議な夢だ。

いや夢が不思議なのか。

それにしても、アタるほど食わなくてもいいのに。

おわり。

夢の羅列<冬の蛾の影> 20171104採取

2018-02-17 17:21:46 | Dreams
夢の羅列<冬の蛾の影> 20171104採取


冬の朝、私は家の廊下を歩いていて、ふとガラス戸から庭に目をやった。

家は古民家とまではいかないが、昭和初期に建てらたれたような縁側のある日本家屋で、戸に嵌ったガラスも一部に葡萄のような模様の装飾がデコボコとあり、いっそう古さを感じさせた。

今、これを書きながら思えば、もちろんその古い家は私の現実の家とは違うのだが、夢の中ではまったく違和感を持たず、何十年もそこに住んでいたかのような気がしていた。というより、不自然さがまったくないのだから、「ここは私の家」などというわざわざな気もしていなかった。

窓からの庭は簡素ではありながらも掃除が行き届いている様子で、鉢植えがやはりこれも十分に古い木の棚にいくつも置いてあり、それを見ている私の齢も家や棚と同じく、おそらくすでに隠居したようなきっと70歳くらいではないか。着古した着物姿で、寝起きに厠へでも行くつもりだったのか、黒い帯がだらしなく垂れていた。

見える範囲で視線を動かすと、庭のやや左側の冷たそうな地面に、けっこう大きな蛾がうずくまっているのが見えた。

色は赤と黒とわずかに黄色。寒さにもう飛べないのか、まったく動かない。

それを見ながら、蛾は蝶と違って躯が太くて大きいから気持ちが悪いのだな。と私はあらためて思った。

その地面の蛾の1メートルほど向こうに朽ちかけたような棚があり、その上に大きな植木鉢がひとつだけ置いてあった。

その鉢には立派かどうかはわからないが、もう葉の散った木が植わっていた。
しかし盆栽ではない。何か普通の丈が50センチほどの植木である。

そこに何かがいる。

何かが動いている。

よく見ると、その植木の枝に地面のとは別の蛾が留まりたいのか枝の直前でまるでハチドリのように空中で停止飛行をしていた。

もちろん蛾はそんな飛び方をしないと思うが、夢の中なのでご理解願いたい。

とはいえ珍しいので、私もしばらくその姿を見ていたら、蛾の背後に今度は小さな鳥が蛾と同じような飛び方で現れた。

留まる枝を迷っている蛾の背に何か毒を刺そうというのか気配を消して近づいた。

蛾は背後の微かな異変に気づき急旋回しその場は難を逃れた。しかし10センチほどの鳥も蛾に完全には気づかれないうちに枝の向こうに一瞬で飛び去った。

そして蛾がまた枝に近づくと、鳥もまた影のようにそっと蛾の背後に忍び寄るのだった。

おわり。

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p12 感想その9「スローダウン」

2018-02-14 17:46:42 | 本の要約や感想
感想を書くと宣言しておいて、相変わらずまだ筋を追ってるが、中盤までは話の土台だと思うので遠慮なく書いている。しかしここから先はもうほとんど筋を書いたりするつもりはない。あらすじ全文くらいは検索すればいくらでも出てくるし。

あらすじをしつこく何度も繰り返すように書いたのは私の頭の中を整理し、かつ物語を自分に浸透させたいからであるのと、このブログをかろうじて読んでくれている人へのわずかなサービスであったが、ここから先の私の感想は、小説を実際に読まないとおそらくわかりにくいかと思う。誰にでもわかり易く書こうとすると、最後までを詳しく説明しなければならないので。

とはいっても、この小説、というかこの著者ポール・オースター。決してわかり易い作家ではない。そして、わかり易く説明できる作家でもない。平易な文体で難解な構造を作り出しているような気配がある。

ここで何がいいたいかというと、私にはこの作家作品はちょっと難しかったかもしれない。言い換えると、レベルが高かったかな。最初に読んだ時にはまあ普通のちょっと設定が面白い小説だなくらいに思っていたのだが、読めば読むほど、考えれば考えるほど、自分の思考能力の単純さを痛感せざるをえない。

なんとなく、本当になんとなく、他に書くことがなくて始めた本の感想文なのだが、恥ずかしいことに今、私の目の前にも高い壁が立ち塞がっていて、どうやって前に進もうかと考えている。

この作家をこの作品しか読んでいないことも前が見えない原因になっているかと他の作品を注文しかけたが、いやあくまでこの作品だけで突破したいと考え直し注文は止めた。どうやら著者のエッセイ集にこの「偶然の音楽」に関するかなり答えに近いことが書いてあるらしいのだが、それは私にとって後日の答え合わせ的な楽しみにとっておきたい。

この感想文を書き始めた時には、5,6回の投稿でまとめようと考えていたが、今日もうすでに9回目で、しかもその内容のほとんどが話の筋である。しかし本日のところの自分なりの感触では、これは半年以上かかるかもしれない。連続ではなく、考え考えのことだが。

短距離走かと思って参加したらマラソンだったということで、ここで少し息を整えて、長距離のためのペースに切り替えるつもり。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫



偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p11 感想その8「壁へのステップ」

2018-02-10 20:36:07 | 本の要約や感想
前回では、この小説は途中からリアリティが薄くなるような気がする。と書いた。

どこからか? というと、ジム・ナッシュが「世界の街」を初めて見たあたりから、そして、その直後のディナーの場面でとくにストレンジな雰囲気が食堂に漂う。

時系列を少し前から説明をすると、ジムとジャックはニューヨークから車に乗ってペンシルバニアにある二人の富豪の住む屋敷へ苦労して辿り着いた。

フラワーとストーンと呼ばれる男二人が出迎え、飲み物をジムとジャックに振る舞い、自分たちがどうして金持ちになったかを語った。

その後、屋敷の部屋や調度品の紹介と案内と自慢話のツアーが始まり、最後にフラワーとストーンのそれぞれのプライベートな部屋に通された。

フラワーの部屋には奇妙な骨董品ばかりが蒐集陳列され、ストーンの部屋では「世界の街」というミニチュアの街並が広がっていた。

「世界の街」はストーンが部屋の中でライフワークとして取り組んでいる手作りの街で、広い台の上のその架空の街にはその街に住む人々の人形たちに混じってストーンやフラワーのミニチュア人形も置かれていた。

そしてストレンジ感のある問題のディナーが始まり、その後にポーカーのルールを決めてゲームが始まった。

静かに始まった勝負は中盤からジャック・ポッツィにツキが回ってくるとジャックは勝ち続け、ジャックの後ろで観ていたジム・ナッシュはこれで勝負はついたなと安堵し気を緩めてしまい、1時間ほど外に出て戻ってみると形勢はすっかり逆転していて、ジムはポケットに残っていた金をすべてジャックに託し、さらにボルボをも賭け金に替えて勝負をしたが、ジャックにツキが戻っては来ず、完全に家主たちに負けてしまった。

車がなければ田舎の果てにあるようなこの屋敷から帰れないため、車を取り戻すためのカードゲームを今度はジムがフラワーを相手に行ったが、これにもあっさりと負け、この瞬間ジムとジャックはこの車の勝負の負け分として1万ドルの借金を負ってしまった。

ストーンとフラワーにしてみるとこれはジレンマだった。
二人を帰せば逃げられる。帰さなければ金が返ってこない。
そこでストーンが提案をする。

「壁を作ってもらうという手もある」

フラワーがそれは名案だと叫ぶ。

壁とは何か。

ストーンとフラワーはアイルランドを旅行した時に廃墟になった城に巡り会った。城は崩れてしまっていて、形作っていた石を持ち主に交渉し買い取り、このペンシルバニアの屋敷まで運ばせたのだった。

その1万個の石は敷地の中で今は山のように積み上げてあるが、二人の計画ではこの石を使って長さ600メートル、高さ6メートルの直線の壁を作るつもりだった。

しかし建設にあたって監督役には屋敷の番人カルヴィン・マークスがいるが、実際に力仕事をする人間がいなかった。

そこにジム・ナッシュとジャック・ポッツィが現れて、丁度良く負けたというわけだ。

時給10ドル。1日10時間労働。二人で1日200ドル。
借金は1万ドルだから、50日の労働で片がつく。
この時点で8月の末なので、10月中には借金を払い、ここを出られる。
壁は50日では完成しないだろうが、二人は借金を払った時点で自由を得られる。
生活は敷地内にあるトレーラー、つまりキャンピングカーでする。
食料や生活に必要な物は何でもマークスが届けてくれる。

ギャンブラーで華奢なジャックはその提案を一蹴したが、元消防士のジムは、もしかするとこの壁を建てる作業は自分を見つめ直すいい機会になるのではないかと思った。

ジャックは逃げようと言ったが、ジムは逃げることは出来ないと答えた。
この描写は、悩めるジムにとっては労働から、というよりも、自分の人生からもう逃げたくないということだろう。

ジムはジャックだけを自由にしてやり、独りになっても、そのため日数が倍かかってもこの提案━━ジムにとっては突如現れた機会━━をやり遂げようと思い始めた。

ところが、誰にでも噛み付きそうに苛立っていたジャック・ポッツィは考えた末に自分も残るよとジム・ナッシュに言った。

ジムはジャックが自分を独り残してここを去るだろうと確信していたから、その申し出にジムは自分でも唖然とするくらいに嬉しかった。

負けた二人と金持ちの二人は労働条件に関する契約書を取り交わし、壁の建設は始まった。

ここで私が前回指摘した石の重さの問題が出てくるわけだが、500キロ以上とすると話の前提がまったく変わってしまい、とてもジムとジャックの二人の力だけでは石はぴくとも動かないから、やはりここは素直に1個が30キロ程度として読みすすめたい。

起承転結という型に合わせて考えてみると、ジム・ナッシュが旅に出るまでが起、ジャックに合うところが承、そしてこの壁の建設を提案されるあたりが転ではないかと思う。

とはいっても、この小説は決して話の筋を読むことが大事なのではなく、筋や登場人物の心模様、演出、設定、セリフ、小道具、など、すべてを合計し、そこに自分の想像の火をつけて上がってくる煙の色や形や匂いを感じる取るようなことが重要ではないかと思う。

簡単に言えば、書いてあることを読んで、書いてないことを感じるということだが、まあそれはどの本にでも言えることだった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p10 感想その7「石のリアリティ」

2018-02-07 19:49:41 | 本の要約や感想
……いろいろあって自己喪失をしたジム・ナッシュは何か心を埋めるものを見つけようと買ったばかりの赤いボルボで全米を約一年ほど衝動のままに走り回ったが、しかしいいことは何もなかった。遺産の金も少なくなって先行きの不安に苛まれトボトボと走行中に若い男ジャック・ポッツィを拾った。ジャックはギャンブラーで、明後日に特別なゲームがあるという。ジム・ナッシュは金を、ジャック・ポッツィはポーカーの腕を、と互いに補い合い、ニューヨークを経由してペンシルベニアにある二人の富豪の住む屋敷へと向かった。

ここまでがこの小説の土台といっていいだろう。

私はこの小説を去年末ごろに初めて読んだ時に、もしかするとこの物語は、この土台部分までが現実の話で、屋敷に着いたあたりからジム・ナッシュの精神の変調による幻もしくは夢のような設定なのかと思い、その境目の描写を探したのだが、明確なそれはどうしても見つからなかった。

たとえばデビッド・リンチの映画のように。たとえばフィリップ・K・ディックの小説のように、スイッチのオンオフで二つの世界を出たり入ったりするような構造なのかなと、この初めて読んだポール・オースターという作家のどうにも掴みどころのない小説に感じたが、どうもそうではなさそうだ。少なくとも明確にそうだとは言えない。

大一番のポーカーには結局負けて、二人の富豪に借りた1万ドルを不可解かつ巨大な壁を作るという肉体労働で支払うことになるのだが、その長さ600メートル、高さ6メートルの壁を作るという発想と計画自体が現実離れしていて、物語のリアリティを私はそのへんから薄く感じ始めた。

リアリティを薄く感じた根拠を具体的に一つ挙げると、ストーンとフラワーがアイルランドで見つけた廃墟になった城の残骸の石を自分たちの屋敷の敷地まで船で運ばせたわけだが、その数は1万個と記述がある。

その1万個の石で長さ600メートル、高さ十段6メートルの壁をジム・ナッシュとジャック・ポッツィがマークスの監督の下で積み上げるわけだが、ジムがその石を初めて目にした時に、さてどれくらいの重さか試しに持ち上げてみる描写があり、そこには1個が25キロから30キロあると記述されている。

ジム・ナッシュは力を振り絞って石を持ち上げ、何歩か歩いて石を降ろし、「やれやれ」と言った。

私はここでどうにも首を傾げた。なぜかというと、石はそんなに軽くないので。

高さが10段で6メートル。そして長さが600メートルの壁━━つまり、1段を1000個直線に並べて、それを10段積む━━を作るなら、単純にその石はだいたい幅・奥行き・高さがどれも60センチくらいの大きさだと推測できる。

壁の厚みだけが記述にないので石の奥行きが不明だが、しかし600メートルの直線の壁を作るとなれば幅より奥行きが短いということは考えられない。

3辺が60センチの立方体がもし比重の基本である水であったら、水の比重は1だから、60×60×60で、216キログラムになるだろう。

基準の水の比重1に対して自然石の比重は今調べてみたら2,6以上ということなので、216キロを2,6倍すると、石1個の重さは少なくとも約560キロになる。

まあ、それくらいあるだろう。
それとも私の計算が間違っているのだろうか。

ちなみに、約30キログラムの石の3辺はというと、計算すると約22.6センチだ。

1個560キロと30キロでは、まったく違う話になってくるわけで、560キロなら重機が必要だ。小説の記述のようにレディオ・フライヤー(子供用荷車。小説中ではファースト・フライヤー)なんかではとてもじゃないが運べない。

実はこの小説は映画化されていて、その映画はかなり小説の内容に沿ったものになっているらしく、私も興味があったので飛ばし飛ばし観たが、石を運ぶ作業の場面でたしかにレディオ・フライヤー様の子供荷車を使っていて、しかも運ぶ石も1個30キロもしくはもっと軽く見えるほどの大きさだった。

ということは、どういうことなんだろうか。

誰かが間違っているのか。それとも私が考え違いをしているのか。何かの意図がここに籠められているのか。

たった30キロの石を10段積み上げても、いくらなんでも6メートルにはならないだろう。1000個並べたって、600メートルにはならない。そんなことは感覚的にもすぐわかる。長さ1メートルの<巨石>を600個並べてやっと600メートルなのだから。

だからといって訳者が間違っていることは考えられない。校正も校閲も入っているだろうし。そして映画の映像によれば、原文もきっと30キロ程度の石だと書いてあるのだろう。そうか、訳していない原作を手に入れれば何かは少しわかるのかもしれない。まあそれは後にして。

結局のところ何が言いたいのかというと、この小説は途中からリアリティが少し薄れてくるということは気のせいではないのだが、とはいってもデビッド・リンチの作品ほど錯乱や狂気が前面に表れているわけではまったくなく、先にも書いたが、現実からリアリティが薄れてくる段階がとても静かで、明確な境目は今のところ私にはわからないし、そして最後まで世界は破綻しないのだが、いやあれは破綻といっていいのか。

富豪の片割れストーンのライフワーク「世界の街」をジム・ナッシュが目にしたあたりからが奇妙な感覚が漂い出し、その後のディナーで一層おかしくなってきて……、

だいたいこのストレンジ感溢れるディナーの設定はこの小説に必要だったのだろうか。

富豪の二人の奇妙な生活ぶりをそこに象徴させたのだと思うが、この小説中、この場面がとくに異質に感じられ、もしかするとここがこの小説を読み解く鍵なのかもしれない。

つづく。

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p9 感想その6「ジャック記憶」

2018-02-03 17:44:54 | 本の要約や感想
あらすじ箇条書き
(消防士のジム・ナッシュは美人妻に逃げられ心に穴が空き、残された娘を姉ドナに預ける。
順序が悪く、父の遺産20万ドルが手に入る。
娘を迎えに行くが、娘ジュリエットはそれを望まず、ジムも無理を通すことはしなかった。
ジム、心の穴が大きくなり、そして経済的抑圧の解放から有給の2週間を車で暴走。
ボストンに戻り、考えた末に仕事を辞め、家財を処分し、家も退居し、宛てのない旅へ出立。
1月。カリフォルニアで知り合いのフィオーナに偶然会い、結婚も考えるが、7月に拒否される。
心の穴がさらに広がり、以前にも増して激しく全米を暴走。
夏の出立から約1年近くが経過し、遺産の残りが少なくなり、不安から暴走は迷走に変わる。
心が折れる寸前に何かを求めニューヨークへ向かう田舎道で怪我をしたジャックを拾う。
ジャックの金持ちとのポーカー勝負の話を聞き、ジムは投資家としてそれに乗る。
二人はニューヨークへ向かう……。)



ニューヨークへ着くと、ジムは怪我をしているジャックを連れてプラザホテルにチェックインした。高級ホテルだが、ジムはこの新コンビの主導権を握るために金のかかる演出をしたのだ。

ルームサービスでとったランチの最中にジャック・ポッツィーはふと思い出したことを長く語り出した。このホテルには来たことがある。以前、父親に連れてこられたのだ。

父と母は早くに離婚していて、オレが8歳の時に一度、父は会いに来た。金持ちだと見せびらかすように振る舞って帰っていった。100ドルくれた。オレはそれをずっと使わなかった。

12歳くらいのときに親父はまたやってきて、このプラザホテルへ泊まった。ボクシングを観て、バスケットも観た。ステーキを食った。親父はタフガイを気取っていた。明日なんかないかのように金をばらまいた。別れ際にまた100ドルくれた。親父の金遣いの荒さに自分と母の生活ぶりがバカバカしくなって、前の分とこの金でお袋に真珠のネックレスを買った。お袋は泣いて喜んだ。

高校を卒業したときに親父から5千ドルの小切手が送られてきた。嬉しかったが、ムカつきもした。一応礼状を書いたが、返事はなかった。それから音信はない。

この会話のあと、ポッツィに対する自分の気持ちが微妙に変わったことをナッシュは感じた。いくぶん情が湧いてきて、渋々ではあれ徐々に、この若者には根っから好ましいところがあることを認める気になってきた。だからといって信用する気になったわけではなく、警戒心はまだ残ったものの、こいつを見守ってやろう、こいつを導き、護る役を引き受けてやろうという気持ちになってきたのだ。(75p)柴田元幸訳


会ったばかりのジムとジャックの間は会話を通して縮まっていった。
ジムはジャックの話の中に、幼い頃にやはり父と別れた自分を見たのだった。

他人のなかにひとたび自分を認めると、もうその人間が他人には思えなくなってくる。(中略)ポッツィとのあいだの距離が、こうしてにわかに縮まった。(75,76p)柴田元幸訳


明後日には金持ちの豪邸をを訪ねるため、ジムは自分とジャックの分のブレザーやスラックスを買った。

翌朝、一晩よく寝て、案外と元気を取り戻したジャック・ポッツィのポーカーの腕をジムは試した。

ジムもプロではないにしろ、自分のポーカーの腕をそれほど悪くは思っていなかったが、ジャックは正に次元が違った。何度やってもジムはジャックに勝てなかった。コテンパンであった。ジャックは口から生まれてきたような普段とはまるで別人のように真剣な顔でカードを捌くのだった。

「言っただろ」とポッツィは言った。
「ポーカーとなると気は抜かないのさ。十回に九回は勝つ。自然の法則みたいなものさ」(86p)柴田元幸訳


翌朝の午後に二人はカモの待つペンシルバニアのオッカムの町へと出発した。

運転をしながらジムは、車を走らせ続けた日々の終り、そして別の何かが始まる予感を感じていた。今夜ジャックが勝つ確率は高いが、最悪の事態を覚悟しておくように自分に言い聞かせた。しかしどんな事態を想像しても恐怖を感じなかった。今後自分の身に起きることに自分が関与していないかのようだった。俺はどこにいるのか。自分の内部が死んでしまったのか。破滅さえ怖くなかった。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p8 感想その5「ジャック」

2018-02-01 18:11:31 | 本の要約や感想
心の迷走中、そろそろ悪い意味でのゴールインを間近にして、しかしまだ何かを求めニューヨークーへと向かう田舎道で、ズタボロに怪我をしたままヨタヨタと歩く若い男をジム・ナッシュは拾った。見たところ22,3歳ほどの華奢な男はジャック・ポッツィーと名乗り、彼はポーカーを得意とするギャンブラーであった。

ジムにとってジャックはひとつのチャンス、もしくは転機、またはジムの心細くなった財産を元に戻してくれる力を持った、ゆえに十分に利用価値のある針金のように痩せた若者であった。

車に乗ってしばらくは何かに怯えるようにジャックは口を開かなかった。しかし、ガソリンスタンドのトイレで顔と身体を洗い、ジムのTシャツに着替えてコーヒーを飲んだらやっと落ち着いたのか、もう追っ手も来ないと安心したのか、その口は止まらなくなった。

昨夜から今朝までポーカーをやっていた。相手は苦労して見つけてきたカモたちだった。

ニューヨークの金持ち連中だよ。弁護士、株のブローカー、会社のお偉方。スリルさえ味わえりゃ負けても気にしない。(中略)こういう連中と年中やらしてもらえりゃ、俺も30前に隠居できるね。あいつら最高だよ。根っからの共和党で、ウォール・ストリート流のジョーク飛ばしてドライマティーニ飲んでさ。5ドルの葉巻くわえて。アメリカ生粋のケツの穴どもさ。(40p)柴田元幸訳


朝の4時になった時、ジャックのポケットには最初に入れてきた元金5千ドルの他に4千ドルが入っていた。負ける気がしなかった。負ける理由もなかった。あと3千ドルくらい勝って締めくくろうと思った。しかしその時、強盗が4人押入ってきて、テーブルにある現金5万ドルを奪って逃げた。

ジャック・ポッツィを除く5人は皆顔見知りで、疑いの目はジャックに注がれた。おいゴロツキ。おまえが強盗を引き込んだのだろう。汚い言葉で罵られ疑われた針金ジャックは相手に食ってかかり、ついに殴った。そして殴られた。殴られた。また殴られた。死ぬほど殴られてから、隙をみて外に逃げ出した。そして走り疲れて歩いている時にジムに拾われたのだった。

ジャックは明後日、人生最大のゲームに誘われているが、その元金が奪われてしまい途方に暮れていることをジムに打ち明けた。ジムは何かを閃いた。

「そのゲーム、いくら要るんだ」

「すくなくとも1万ドル」

「いくら儲かるんだ」

「3万か4万。ひょっとして5万ドル」

ジムは元金の1万ドルを自分が出す代わりに、勝ち金を五分五分で山分けする条件を出し、ジャックはそれを呑んだ。二人の夢を乗せて車は一路ニューヨークへ。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫