Convex-icon「CND」
過去制作品です。
本日は20230228です。
上の古い画像を今日あらためて見ていたら、
この画像を制作当時のブログに初めて貼り付けた時、
「ふたごのリリーズ」という
あまりに適当なキャプションを付けたことを思い出し、
しかも最近そのリリーズの一人が亡くなったことも思い出し、
諸行無常の感を覚えた。
そういえばつい最近でも、
落語家の笑福亭笑瓶さんや、
漫画家の松本零士さんが亡くなった。
松本零士さんといえば思い出すのは、
たしか20年くらい前に、
私がテレビを見ていたら、松本さんが出てきたこと。
それが何の番組だったかは忘れたが、
松本零士にインタビューをするような時間だった。
その時、最近のトピックは?
というようなことを司会者に尋ねられ、
松本零士はダフトパンクとの共作を話した。
ダフトパンクはフランスの二人組電子音楽ユニットで(私は詳しくないが)、
自分たちの曲に松本零士のアニメを合わせたMVを発表したのだった。
ところが司会者はなぜかその話を軽く受け流して、
他のことを松本に尋ね始めた。
たしかもっと有名な松本の代表作についてだったと思う。
それを視聴者が喜ぶと思ったのか、
松本が喜ぶと思ったのか、
予め決められた進行だったのか、
自分が訊きたかったのか、
司会者の気持ちはわからなかったが、
ダフトパンクの話は挨拶程度に終わった。
すると松本はあからさまに不機嫌そうな顔になり、
司会者の質問にぶっきらぼうに答えるようになった。
司会者はそれに気づかず、ニコニコと番組を進行した。
私はそのことを今でもよく憶えている。
なぜ松本は不機嫌になったか。
私はその時にこう思った。
自分(松本)が描いたマンガがアニメになり、
日本を超えて海外でも放映された。
そのアニメを見て育ったフランスの子供たちが、
大きくなり、音楽を始め、
子供の頃に心を躍らせたアニメの作者を知り、
コンタクトを取り、快諾を得て、
とうとう共作を発表するまでになった。
松本にしてみれば、
最初は貧しい4畳半で描き始めた自分のマンガが、やがて、
描いている時には予想もしなかったように独りでに歩き出し、
遠い外国の子供たちの心にも何かを刻み付け、
それが時間の流れの中で、
子供たちがまた他に影響を与える立場に成長し、
とうとう一緒に作品を作るまでになった、
その事を話したかったのではないか。
ほんのせせらぎの水が支流、大河、海へと流れるように、
自分の小さな行為がいつか遠くの小さな心にまで届き、
さらに時を超えてまた自分の元へと帰ってきたその感慨は、
自分が作品たちに込めた思い
「時間は夢を裏切らない、夢も時間を裏切ってはならない」
正にそのものであったことの感動を、
松本零士は言葉にしたかったのではなかったか。
国や人種を超えたマンガの力。
自分のやってきたことが間違ってはいなかったという万感を、
自分の考えたことが世界に広がり、今また戻ってきた手応えを、
今ここで訊いてくれ、と松本は思っていたに違いない。
一方、笑福亭笑瓶さんは、
早朝の渋谷の交差点で一瞬見かけたことがある。
画面で見るあのまんまだった。
つい最近目にした笑福亭鶴瓶の語ったことの記事からだが、
まだ若い時分、
師匠というより先輩か友人というような鶴瓶の家に笑瓶がよく行き、
鶴瓶の子供たちの世話をよくしたらしい。
鶴瓶が自分の二人の子供たちを風呂に入れると、
笑瓶が上がってくる子供たちを待ち構え、
タオルで拭く役目だったらしい。
子供二人を拭き終われば普通なら役目は終わりだが、
しかし笑瓶は風呂にいる師匠の鶴瓶に、
「はい鶴瓶ちゃん、出ておいでー」と言ったという。
裸の鶴瓶がその言葉に乗って子供のように出てくると、
笑瓶は「よしよし」とか言って
師匠の鶴瓶の身体を拭いたらしい。
二人で笑っただろう。
楽しかっただろう。
その屈託のなさが万人に愛された彼の魅力だったという。
身近で、苦楽を共にした、
しかも自分より若い者の早い死はきっと堪えることだろう。
もうすぐ春だというのに。
E V O L U C I O