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桜マンデリン

2018-03-29 19:24:42 | Diary



東京都、中野駅付近から北へ続く桜並木が今日はもう満々開で、
両歩道から互いに触れたいのか、伸ばした枝が高く重なり合い、
それは花の天幕といった様相で、まさに春爛漫。

桜並木の終点、哲学堂も、あの辺は視界が広いから、遠目の桜が目にうれしい。

用事も済み、帰ってきてマンデリンを淹れた。
ドトールの、である。
この豆はローストがミディアムだからか、とくに個性が際立っていて、味が濃い。
独特な風味は、私が一番近いと思うのはプルーン。あの干したやつ。
そしてグレープフルーツのような酸味があり、それに負けないくらい甘みもある。

とにかく、味が濃いのだ。

砂糖を少し入れると、さらに酸味の輪郭が明瞭になり、最後のひと滴が名残惜しいほどだ。

暖かくなると、
冬の間にはこれぞコーヒーだと断言していたフレンチローストが急に重たく感じられ、
反対にこのマンデリンのような酸味の立った味に親しみが湧き始める。
フレンチの残りはアイスにでもしようか。

本日のところ、上の固定ページに貼った動画は、映画「八墓村」の劇中曲で、
作曲は芥川也寸志。

私が、満開の桜に一番合うと思っている曲である。

ド━━ン、とまるで効果音が聞こえるくらいに咲き零れた満々開にこそである。

噎せるほどの春の酔い。

Led Zeppelin/Rock'n Roll

2018-03-24 19:57:07 | youtube



70年代レッド・ツェッペリンを好きな友人はたくさんいたが、私はまったくそんなことはなかった。曲名でメロディを思い出せるのも10曲ないと思う。どちらかといえばジミ・ヘンドリクスやピンク・フロイドのファンだったから、ギタリストのジミー・ペイジのこともずっとピンとこないまま現在に至ったのだが、そのわけが最近わかった。レッド・ツェッペリンはレコーディングの音よりもこの動画のようにライブの方が私には断然いいのだ。まったく音もノリも違う。以前はこんなに簡易にライブ映像を視聴できなかったから、能動的にそれを求めなければ評価は何十年でも変わらないのだ。いや、かっこいい。ジミー・ペイジ。この余裕。100%のうち今日はほんの15%を出していますよ、とでもいうようなクールな感じ。そして歌のロバート・プラント。このライブでは少し低く歌っていることも評価が上がるポイントだった。私は昔の声の高いハードロックやメタル的なのがどうも苦手で、あれは鳥人間か何かのように聴こえるのだ。もちろん苦手なのは男ね。そんなに無理しなくても、とつい思ってしまう。この曲「ロックンロール」もレコーディングバージョンだと歌い出しがCの音だが、このライブではAまで下げている。同じキーで、である。それがいい。そこがいい。その方が声の質も私には好みで耳に優しい。偶然にこの動画を「お、ツェッペリンか。懐かしいな。ちょっと視てみるか」とクリックしたわけだが、これはかっこいいと驚きながらも、イントロの拍がどうしても合わないことにイライラした。ドラムからカウントすると、ギターの入り方にどうしても合わないだ。タタツタタツ……、と1時間ほどがんばってみたが、わからなかった。あれか、また変拍子か。さすがに私には高度すぎて理解できなかった。それで仕方がないから調べてみたら、すぐにわかった。このイントロはロックレジェンドのひとつのトピックのようであるらしかった。結論をいうと、つまりタタツタタツの最初のタは1拍目ではなく、3拍目の裏であった。いや私が分析したわけではなく、そう答えが書いてあった。さすがプロ。よくわかるな。それでやっと理解をしたわけだが、これが実際にカウントをとってもなかなかギターの入りに合わない。私がギターを弾くわけではないのだけど、とにかく入りに合わないことが気持ち悪い。それでもう誰も見ていないから、オーケストラの指揮者のように4拍子のタクトを指で振って、何度も繰り返したらやっとわかった。理解した。スッキリした。しかしそれにしてもジョン・ボーナムはドラムが上手いな。こんなに上手い人だったことも今まで知らなかった。パワーの人だと思っていた。以前、アンジェリーナ・ジョリーのお父さんをこのジョン・ボーナムだと思っていたことがあって、まあリブ・タイラーの父親がスティーブン・タイラーということもあるし、欧米はいろいろ複雑だからな、などとわかったような気分だったが、いえ、父親はジョン・ヴォイトでした。「ヒート」のネイト役がよかった。他には「真夜中のカウボーイ」「オデッサ・ファイル」か。「オデッサ」は途中で適当な感じがしてきて観るのをやめた記憶がある。「真夜中の」は、ダスティン・ホフマンな。あの人がもうドロドジメジメベタベタしていて観るのが辛かった。また穂積さんの声が合いすぎてこれも辛さに拍車をかけた。ダスティン・ホフマンでよかったのはやっぱり「パピヨン」か。わりと新しいところでは「パフューム・ある人殺しの物語」がよかった。あの香水屋の親父。顔が真っ白。ヨーロッパも昔はなんだか汚かったね。おわり。

夢の羅列<カレー屋の2階> 20180320採取

2018-03-20 22:20:47 | Dreams
夢の羅列<カレー屋の2階> 20180320採取


夢の中で私は、どこかの商店街に面した2階に住んでいた。

1階は店舗で、インド系のレストランだった。

私の2階の部屋へは、
レストランの入り口の真横にあるひどく狭い、そして急な階段を上るのだった。

朝だから私はコーヒーを飲もうと思った。ところが、
部屋にコンロがなく、湯を沸かすことが出来ないことに気がついた。

そうか。思い出した。
湯はいつも下のレストランの厨房のコンロを借りるのだった。

そして、湧かしたてのポットを片手に階段を上っていると
向かいの雑貨屋だかお茶屋だかのBBAが、いや失礼、
老婦人がいかにも私に向かって
「無宗教などと言っているからいつまでたってもウダツが……」
などと陰になっていない陰口を言うものだから、つい
「アンタにはもうそれしか縋るものがねーんだろ」と返し、
さらに笑い声を浴びせてやったら地団駄の気配を背中に感じ、よし勝ったなと思った。

しかし部屋に戻ってみると、
ポットの湯が目的の温度より数度低くなってしまっていて、
あの向かいのプロテスタントBBA、いや失礼、新教徒老婦人の呪いを感じ、
今日のところは引き分けというところか、と私は案外潔かった。

また階段を降りる。

向かいのBBAはもう引っ込んだらしい。今度は隣の豆腐屋が目に入った。

豆腐屋の店内に40歳くらいの男が座り、スマートフォンを片手に、
「今日は○○お豆腐店さんのお店をお借りして放送しています」
などと独りで喋っている。

その背後に少々困惑気味の豆腐屋の主人が立っている。

……まあこれも時代というものか。

また湯を沸かす。

そしてまた階段を上がり、部屋に入ろうとした時、
背後にレストランのインド人オーナーの気配を感じた。

そろそろ引っ越さなければいけないな、と私は心に呟いた。

おわり。



偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p15 感想その12「石の重さとベケットの名前」

2018-03-10 21:06:53 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p15 感想その12「原文・石の重さとベケットの名前」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

参照「石のリアリティ」


先日、一応の結論を書いたが、核心にはきっとほど遠いなという感は否めない。

さて、英文の原作を注文したらすぐに届いたので、早速、あの石の重量の部分を確認してみた。

'They weigh somewhere between sixty and seventy pounds'
Murks said.'Just enough to make you feel each one.'(108p)


「一つ25キロから30キロある」とマークスは言った。
「ちょうど1キロ1キロが実感できる重さだ」(177p.178p) 柴田元幸訳


1ポンドは約0.453キロであるから、60ポンドは約27キロ。70ポンドは約31キロ、になる。

すると訳はとくに間違ってはいないことが証明された。

それでは作る壁のサイズはどうだろう。


'Two thousand feet long and twenty feet high-ten rows of a thousand stones each.(106p)


「長さ600メートルで高さ6メートル、一段につき千個の石が十段。……」(174p) 柴田元幸訳


これも間違ったところは何もない。

そうすると、以前にも書いたが、
30キロの人が持てるほどの小さな石を十段積んでも、
どう考えても6メートルの高さにはならないのに、小説では「なる」と考えられている。

だからリアリティがかなり薄い。

私はこの部分に作者のどんな意図があるのか、今のところ明らかにはできない。

そして今回もう一つの問題というか衝撃。
英文の原作が届いて、裏表紙を見てあっと思ったこと。それは、

「ボール・オースターはこのブリリアントで不安定な寓話にサミュエル・ベケットとグリム兄弟を溶かし込んでいる」

と書いてあったのだ。

グリムはまだしも、ベケットは不条理劇作家じゃないか。

不条理━━事柄の筋道が立たないこと。

日頃、不条理な夢の記述をさんざんしておきながら、
私にはこの不条理の物語というものを明確に理解する読解力なんて、
はっきり言って、ない。

しかし読んで初めて感じた抽象画的な感覚はけっして遠くはなかったな。

それにしても、
超絶悲観論者で鬱病のベケットはたしかあのカフカが好きだったような気がする。

フランツ・カフカ。有名なのは「変身」だったか。

若い時にカフカをそれだけ読んだ記憶はあるが、まったく理解できなかった記憶もある。

なんだったか。目が覚めると虫になってたんだっけ? それしか憶えていない。

虫、苦手だからなあ。

そうか。ポール・オースターを調べてみればいいのか。

……Wikipediaで読んでみると、やはりベケットやカフカに影響を受けていると書いてある。

この「偶然の音楽」これ一冊だけで考えようと思っていたから、
調べるのは少し自分的にルール違反である気がするが、まあ仕方がない。
何にも道標は必要だ。

不条理。ベケット。カフカ。そしてグリム。

やっかいこの上ない。

ところで寓話ということは、つまり、寓意があるということになるわけか。

つづく。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

山高ければ谷深し。コーヒー。

2018-03-08 20:38:36 | コーヒー
ここ最近、コーヒーがあまり美味くないという日々が続き、
コーヒーなんて結局こんなもんだな、
高い豆も普通の豆も、値段の差ほどに味の差はないな、などと私は思い始めていた。
ところが、
ふとした閃きでドリップの手順をほんの僅か変えてみた結果、
自分で驚愕するほどの美味さを連発する事態に発展し、
こんなにコーヒーは美味いものだったのか。
とうとう私はコーヒーの奥義真髄に達したのだと独りほくそ笑んでいた。

まずコクが段違いに増した。
そして苦味は明確に存在しながらしかし甘くキレがあり、最後には酸味が微笑むのだ。
豆の種類による個性も明瞭で、一杯を飲み終わると、すぐに次の一杯が待ち遠しくなるのだ。

ところが今日になり、朝にケニアを飲んだらどうにも味に濁りを感じ、
アレおかしいな、と首を傾げつつ、昼過ぎにマンデリンを淹れたら、
これもコクが今ひとつで、味の奥行きに乏しいがっかりする一杯だった。

同じ手順で淹れたのに。
ケニアもマンデリンも、先日あれだけ美味いと唸った豆なのに、だ。

つかの間の奥義は消えた。
真髄も見失った。
明日も見えず、
旅の終りは朧朧。
そして外は雨。

偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p14 感想その11「序章について」

2018-03-05 19:00:13 | 本の要約や感想
偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫


<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク


まる一年のあいだ、彼はひたすら車を走らせ、アメリカじゅうを行ったり来たりしながら金がなくなるのを待った。(5p)柴田元幸訳


このような書き出しのほんの12行(日本語訳で)の序章には、この小説のほとんど全てが書かれているような気がする。だからいつもここへ戻って読み返す。しかしどうにも霞がかかったような文章で、いくら読んでも明確な答えを得ない。

アメリカ中を車で走り回った挙げ句、もうどうにもならないと考えていた時に、風で小枝が足元に落ちてきたようにジャック・ポッツィと出会った。ジム・ナッシュは彼をひとつの猶予として見た。手遅れになる前に自分を何とかするための、最後のチャンスとして捉えた。

そんなわけで、あっさりと彼はやってのけた。恐れに震えたりもせず、目を閉じ、飛んだ。(5p)柴田元幸訳


この序章の一番の問題はこの最後の一行で、これが何を意味するかで小説の意味は全く違ったものになってしまう。

この「目を閉じ、飛んだ。」は、単純に考えると小説最後のシーンにリンクすると思えるが、そうすると「あっさりと彼はやってのけた。」という部分が不可解に感じられる。なぜならジム・ナッシュは「手遅れになる前に自分をなんかする」ことを考えていたのだから。

「やってのけた」ということは、見事にやり通した。もしくは成就した。などのどちからといえば華々しく肯定的な意味になるが、いったい何をやってのけたのか。「やってのけたこと」が小説最後の結果だとしたら、「手遅れになる前に自分を何とかするための、最後のチャンスとして捉えた。」に矛盾しないだろうか。

ここを読み違えたくなく何度も読み返すわけだが、頭が悪くて、まだわからないね。

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

夢の羅列<鶉> 20171210採取

2018-03-03 21:10:24 | Dreams
夢の羅列<鶉> 20171210採取


夜明け前、私は貨物列車の車両に乗ろうとしていた。

重い扉を左にスライドさせると淀んだ空気が漏れ出してきて
けっして幸せを感じさせない匂いを私は嗅いだ。

車両の中に入るとまったくのガランドウでしかも冷蔵庫のごとくに冷えていた。

凍ったような鉄製の前後面および側面が暗い中に見え、床は黒ずんで磨り減った木製で、
私はそんな貨車内を隅までよく見渡したが、まったく何もなかった。

ところが足元に小さな紙が落ちていた。

拾ってみるとそれは大きさの違うレシートほどの紙を3枚、ホチキスで綴ったような紙片で、
表の1枚目は少し汚れているだけで何も書いてなかった。

次の2枚目にも何も書いてなかった……。

……どうだろう今回の夢のシチュエーションは。

冬の何もない貨車に落ちていた小さな紙の綴り。

以前なら、これこそ啓示だと確信したに違いない。

夢という無意識下における無限の表現舞台でとうとう私に与えられた福音と使命に違いないと。

しかし長年、夢を蒐集記述してきた私にはもう期待などなかった。

どうせ、ろくなことは書いていないのだ。

たしか以前に見た同じような夢の結末に出された文字は「果物の王国」だった。

だから今回も期待などしない。

どうせ、よくて「野菜の帝国」くらいのものだろう。

もしくは「お肉の楽園」とでも書いてあるのか。

もしも「異国のお乳」だったら、それは確かに福音かもしれない。


……さて話を夢に戻すと、
拾った紙の1枚目2枚目には何も書かれていなかった。

さらに捲って最後の3枚目を開いた。すると文字が書いてあった。

鉛筆のような細い線の平仮名で言葉が書いてあった。

夢の中だが、はっきりと読めた。

「うずら」

と書いてあった。

で、私にどうしろと。

おわり。