ダラダラと7,8年続いた前ブログから仮とはいえ、
新規になったことを記念して何か告白をしようか。
「実は私はシャンソンが好きである」
いや、シャンソンどれでもすべてということはない。
日本の日本語のシャンソンに限る。
いや、日本語のシャンソンすべて、ということもない。
日本語のシャンソンのごく一部が好きである。
だからエディット・ピアフは聴かない。
彼女の人物像に興味はあるが、歌は聴かない。
実はあの声がちょっと怖いんだよね。
フランスのいわゆる我々がシャンソンと呼ぶ音楽ジャンルは、
最盛期が1960年代より以前だから、録音も古くて、
しかもあのヨーロッパ的な歌声がちょっと怖い。
「怖い」というか、どちらかというと「苦手」か。
聴けば、うまい、良い、と思うことは間違いないのだが、
やはり苦手な部分が微かにあって、結局、聴かない。
エディット・ピアフのどこが苦手なのかというと、
古いヨーロッパ的な感じ以外にも説明しきれないことがあって、
発音も現在と少し違うのかもしれない。
悪くはないが、聴かなくてもいいか、という消極的な気持ちです。
たぶん聴き慣れていないということもあるだろう。
何度も無理して聴けば、そのうちすごく好きになるかもしれない。
「怖い」のはあれか、岸田今日子の「マズルカ」か。
岸田今日子がマズルカを歌っているわけではなくて、
ポーラ・ネグリという人の曲だった。あれは怖い。
なぜ岸田今日子の名が出てくるのかというと、
説明が面倒だからしないが、曲はこれ。
知っている人は、ああこれか。という曲。
もちろんマズルカだからシャンソンではない。
だいたい「いわゆるシャンソン」が残っているのは日本だけなのだと思う。
本場のフランスにしても、1960年代以降はフレンチ・ポップスへと
変遷したわけで、要するにシャンソンは「懐メロ」扱いということか。
日本で残っているといっても、まあ残っているとも言い難いか。
つづく。
新規になったことを記念して何か告白をしようか。
「実は私はシャンソンが好きである」
いや、シャンソンどれでもすべてということはない。
日本の日本語のシャンソンに限る。
いや、日本語のシャンソンすべて、ということもない。
日本語のシャンソンのごく一部が好きである。
だからエディット・ピアフは聴かない。
彼女の人物像に興味はあるが、歌は聴かない。
実はあの声がちょっと怖いんだよね。
フランスのいわゆる我々がシャンソンと呼ぶ音楽ジャンルは、
最盛期が1960年代より以前だから、録音も古くて、
しかもあのヨーロッパ的な歌声がちょっと怖い。
「怖い」というか、どちらかというと「苦手」か。
聴けば、うまい、良い、と思うことは間違いないのだが、
やはり苦手な部分が微かにあって、結局、聴かない。
エディット・ピアフのどこが苦手なのかというと、
古いヨーロッパ的な感じ以外にも説明しきれないことがあって、
発音も現在と少し違うのかもしれない。
悪くはないが、聴かなくてもいいか、という消極的な気持ちです。
たぶん聴き慣れていないということもあるだろう。
何度も無理して聴けば、そのうちすごく好きになるかもしれない。
「怖い」のはあれか、岸田今日子の「マズルカ」か。
岸田今日子がマズルカを歌っているわけではなくて、
ポーラ・ネグリという人の曲だった。あれは怖い。
なぜ岸田今日子の名が出てくるのかというと、
説明が面倒だからしないが、曲はこれ。
知っている人は、ああこれか。という曲。
もちろんマズルカだからシャンソンではない。
だいたい「いわゆるシャンソン」が残っているのは日本だけなのだと思う。
本場のフランスにしても、1960年代以降はフレンチ・ポップスへと
変遷したわけで、要するにシャンソンは「懐メロ」扱いということか。
日本で残っているといっても、まあ残っているとも言い難いか。
つづく。