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映画「FURY」あらすじ

2018-12-23 13:31:30 | 映画
昨日の朝、コーヒーを淹れて、ニュースを見るかとCSのテレビをつけたら、
映画「FURY」を放映していて、
前の晩にこの映画のことを少しこのブログに書いたものだから少しだけ驚いて、
そのまま朝の雑事の片手間に観てしまった。

前日の私の━━この映画には何が描かれているか━━結論では、
描写された多くの事柄を削ぎ、芯を見出すならそれは「戦いの意味」である、としたが、
今日になり全部を観て、少し違ったかなと思い始めた。

などと書いても観ていない人には何もわからないだろうから、
軽くあらすじを追うと、

━━第二次世界大戦中の欧州における連合軍戦車部隊の兵士たちの、
理想と現実の狭間に身を置いた心の葛藤の物語である━━

1945年ドイツ━━━━━━━━
連合軍のドン・コリアー軍曹(ブラッド・ピット)率いる戦車には、
北アフリカ戦線を共に戦い抜いた歴戦の猛者たちが乗り込んでいた。

彼らはドイツ軍への最後の攻勢ため進軍中だったが、副操縦士が戦死し、
その代わりに配属されたのは若く戦闘の経験はおろか、戦車に乗ったこともないノーマンだった。

その若者を乗せて戦車は進むが、ノーマンの未だ戦争に馴染めていない未熟さからのミスで、
他の戦車の乗組員を死なせてしまう。

ミスが重なり、ドンはノーマンに捕らえたドイツ軍兵士の射殺を命じる。
それなら自分を殺せと言うノーマンの手に銃を握らせたまま力づくで引き金を引かせ、
ドイツ軍兵士を殺してしまう。
その時、回りで見物していた他の兵士たちは、日常茶飯事を見たくらいの反応で散開する。

若いノーマンは、戦場の現実と殺人とに精神状態が追いつめられたまま戦車に乗り、
一団は制圧したある町に辿り着く。

戦闘から解放されたひと時の乱痴気騒ぎを繰り広げる他の乗組員を尻目に、
ドンはノーマンを伴い、ある建物の階上へ上がってゆく。
そこにはドイツ人女性のイルマとエマが隠れていて、
ドンは持っていた卵を出し、食事を作るように年上のイルマに命じる。

手持ち無沙汰のノーマンは居間にあったピアノで目の前の楽譜の曲を弾き始める。
台所でそれを聴いたエマは驚きと嬉しさを隠さずにピアノを弾くノーマンに近づき、
楽譜を捲り、その曲をたどたどしく歌い始める。それが「マリアの子守唄」である。

湯で頭を洗い髭を剃っていたドンはノーマンにエマと寝ることを命じる。
そうでなければ自分がエマと寝ると半ば脅す。

親近感をノーマンに持ったエマは、ドンを避けるようにノーマンの手を取り寝室に誘う。

それを見て戸惑うイルマにドンは言う。「二人は若い」

寝室から出てきた恥ずかしそうな二人とドンとイルマで昼食を食べようとすると、
外で騒いでいた他の乗組員たちが新たな獲物を探して目敏くこの部屋に上がってきて、
ノーマンに下で待つ他の女との交渉をさせるべく闖入してくるが、
彼らの野卑な姿とは対照的に、清潔なテーブルで昼食を囲もうとしている4人を見つけると、
ドンやノーマンにある種の子供染みた嫉妬を覚え、場の雰囲気を壊そうとする。

テーブルに白い皿、ナイフ、フォークが並ぶこの場にまったくそぐわない荒くれ者たちに、
ドンは冷静に対応し、どちらかというと相手にしない。ところが、
開戦当初のことを兵士が語り出すと、それがドンの心の引き金を引いたのか、
ドンは怒りテーブルを強く叩き、場は緊張に包まれるが、その時、
伝令が飛び込んできて、新しい任務をドンに告げた。

束の間の休息は終り、対決姿勢であったドンと乗組員たちも遊びが済んだかのように、
もう兵士の顔に戻り、部屋を出て行く。
ノーマンはエマに住所を訊こうとするが、それを一番野蛮そうなクーンアスが、
戦場でくだらねぇことをするなと言わんばかりに強引に連れて行く。

町を出発直前に敵機が来襲し、爆弾を落とされ、イルマとエマの住居が破壊される。
瓦礫の中にエマの死体をノーマンは見つけ慟哭する。

泣き叫ぶノーマンをクーンアスがエマから引き剥がし、その野卑なクーンアスの嗤っているような声が町に響く。
「これが戦争だ。これが戦場だ」

無人の道を進軍すると、退却するドイツ軍に焼かれた町や、
裏切り者扱いされた市民の死体が木に吊り下げられた光景をノーマンは目にする。

戦車4輛の部隊はさらに進む。
この先の十字路で進軍してくるドイツ軍を待ち伏せ攻撃する任務である。
ところが、突然に現れた高性能のドイツ・ティーガー戦車の猛攻撃に遭う。
ノーマンも何か吹っ切れたように戦闘に参加する。
やっとのことで敵を撃破したドンたちの1輛だけを残し、他は全て破壊されてしまう。
一致団結の勝利に、乗組員たちはノーマンの健闘を讃え、彼を認める。

一台だけになったドン一行は戦略地点の十字路には着いたが、
戦車は無線装置が壊れ、状況の報告も援軍の要請も出来ず、
しかも地雷によって動くことも出来なくなってしまっていた。

徒歩で偵察に出たノーマンは、
歌いながら進軍してくる士気の高いドイツ軍精鋭300人の部隊を発見し、十字路の戦車に戻る。

動かない戦車では勝ち目がないことは明白で、乗組員たちは森への避難を選択する。
しかしドンだけは、この地点で迎え撃つことが最重要であることを悟り、
独りでも戦う意志を示し戦車に乗るが、乗組員たちには森に隠れろと指示を出す。

そして若いノーマンも残ると言い出す。
逡巡の時にも十字路に迫るドイツ精鋭300人。
他の乗組員たちの選択は……、

つづく。

マリア・ジャネット・戦車・「FURY」

2018-12-21 20:42:56 | 映画
https://youtu.be/AGzKm45F0BI

本日付けで、上の固定ページに貼ってある動画は、
Jeanette Köhnというスウェーデンのソプラノ歌手が歌う「マリアの子守唄」である。
などと書いたが、私にしても、曲のことや歌手のことを実はよく知らない。

以前、CS放送で観た映画「FURY」の重要なシーンでこの曲が使われて、
これは良い曲だと思い検索したら、歌い手違いでいくつも出てきたが、
このジャネット・コーンの歌が一番良かったのを思い出し、
クリスマスも近いということで、本日貼付けたわけだ。

他におそらく10歳未満の少女が歌う同曲のとても良い動画もあったが、
少女は才能で歌っているのに対し、ジャネットは才能と積み重ねた努力で歌っていて、
少女の声は清らかで替え難いが、私の深い感動はジャネットにあった。
どれほどに普段の生活から歌うことだけに向けて注意深く暮らしているかを、
この声を聴くとよくわかるからだ。

映画「FURY」は、戦争と戦車の映画である。
第二次世界大戦が舞台で、主役は戦車とブラッド・ピットである。

描かれていることは、
戦争の非常さや狂気、命の儚さ、僅かな愛情、友情、などであるが、
たったひと言に収めるなら、
「戦うことの意味」であるだろうと思う。

私は、賛美歌が好きだ。

モンタージュ・オブ・ヘックについての感想(最終稿)

2018-11-09 21:30:02 | 映画
すっかり忘れていた。何を忘れていたか。
以前、カート・コベインのバイオグラフィ的な映画「モンタージュ・オブ・ヘック」を観ての感想を、
何回かに分けてここに書いていたのだが、サッカーW杯を挟んだりして、
頭がブログに回らず結論がつけられなくなり、しかも暑いし、しばらく放っておいたら、忘れていた。

1994年に自殺したといわれているニルヴァーナのフロントマン、カート・コバーン、
もしくはカート・コベインは才能溢れるアーティストであったが、
その高い才能と引き換えに、セルフマネージメント能力を欠落していて、
ドラッグに深く浸ってしまい、動機は不明だが自殺をしてしまう。他殺説も残る。

そんな破滅型のカート・コベインに対して私が比較対照にしたのは、
ザ・ローリング・ストーンズの社長、ミック・ジャガーであった。
社長とは形容であって実際ではなく、この形容は彼のバランスのとれた才能に対しての
大きな尊敬の中にほんのわずかな揶揄を含めたものである。

ミック・ジャガーはアーティストとしての資質はもちろん十二分にあり、さらに、
自己及びバンドをプロデュースしマネジメントをする能力に長けていた。
物事を見極める力。見切る判断力。その能力が格段に高いのではないか。

音楽はこんなもんだ。オレたちはこんなもんだ。
客はこんなもんだ。大衆はこんなもんだ。
社会はこんなもんだ。ドラッグはこんなもんだ。

時々の判断に迷いがないように見える。
出来ることを出来る範囲で、そして無理なく、しかし精一杯楽しくやる。
そんなガツガツしていない育ちの良さが彼の足跡にはいつも残っている。

もちろん凡人常人ではないので「無理なく楽しくやる」の前の
基礎努力が並大抵ではないことは明白ではあるが。

単純なロックンロールバンドとしてブレず慌てず、革新はせず、
75歳を越えた現在でも60年代のブルースロックを飛んで跳ねて歌う。
声の衰えも少なく、皺は隠せないが、痩身はデビュー当時のままで、しかも、
実生活では子沢山。資産数百億円。そしてなんと「ひいおじいさん」という驚きの社長である。

一方、カート・コベインは、アーティストとして純粋であるがゆえ、
商業主義を嫌悪し、だから自分たちが世に生み出した作品を疑っている部分もあった。
彼が望んだことはおそらく、もっと純粋に、もっと尖塔へ、ではなかったか。

対してミック・ジャガーは自分や作品に疑いなんか欠片もなく、
楽しいねー。儲かるねー。人生最高。といった感じだろうか。

まあミックがそんな脳みその軽い人ではないことは十分にわかっているが、
そんな彼ミック・ジャガーと、純粋の人カート・コベインの違いを端的にいうなら……、
というところ、ここで前回の感想が途切れたままだった。すっかり忘れていた。

あらためて、二人の違いを端的にいうと、それは何か。

とくに考えていなかったが、今、象徴的にそれを挙げるとすると、

ミック・ジャガーは手帳を持っていそうで、
カート・コベインはあきらかに持っていなさそう。

かな。

カートも創作ノートは持っていたようなのだが、
スケジュール帳はどうだろう。そんな概念がなかったのではないだろうか。
対してミックの方は随時事細かに公私に渡り自己管理をしていそうに見える。

まあ実際はわからないが。

しかし「物をすぐに失くす人」なら手帳なんか危なくて持てないことは明白で、
とはいっても、計画より気分優先の人は、スケジューリングが無意味になるし。
皆さん、手帳持ってますか?
そうか、今はスマートフォンか。
しかしスマートフォンて危ないからね。あらゆる個人情報が集約されている点で。

でも、スマートフォンでしか多くの接続が困難になってきたことも事実。

すると「接続と非接続」という二つの選択があり、
それは「現実と非現実」という二つに似ていなくもなく、
なんというか、その違う世界を明確に混同しないことがやはりスマートなのか。
いや、それら二つの世界だけではなく、日常に於いての全てで、
意識と行動に区切りをつけられることがスマート、頭イイ、ということだろうか。
簡単にいうと、引き摺らない。ダラダラしない。そういうことだと思うが、しかし、
混沌から産まれる圧倒的な光が稀にあることは皆知っている。
そこが難しい。

おわり。

Diary 20181014 Never Let Me Go

2018-10-14 14:42:38 | 映画
先日、CS放送で映画「Never let me go(邦題-私を離さないで)」を途中から観た。

これは、日系イギリス人のカズオ・イシグロの著作を原作にしている作品だが、
主題は重く、ここに書くのも憂鬱になるのだが、概略を無理に三行で言うと、

臓器提供のために作られたクローン人間たちのある男女3人に焦点を当て、
その短い生涯においての希望や、それを打ち砕く真実や、絶望や、普遍的な疑問などを、
クローンではない普通の人間の葛藤と現実とに相対させ、静かに、重く描いた作品。

というところだろうか。

こんな説明では著者の思いや、作品の核にはまったく届かないわけだし、
私も途中からの視聴につき、ここで語れるほどよくわかってもいないことは承知している。

映画をなんとなく観ながら、主役のキャシーを演じた女優に見覚えを感じていた。
いつも含み笑いをしているような、はにかんだような顔立ち。
最近の俳優をほとんど知らないが、しかしこの女優は見たことがある、と思った。
後で検索してみると、女優はキャリー・マリガン。
検索を進めると、ああ、これか、「ドライブ」。

「ドライブ」はやはりCS放送で観た映画だった。

謎めいた過去を持つ寡黙な主人公は、特異に備えた運転の才能により、
犯罪者の逃亡を助けるという裏仕事を請け負っていた。
ある日、自分の部屋の隣に幼い子供と住む人妻と知り合い、やがて惹かれ合う。
しかし刑務所を出所してきたその人妻の夫を助けるために手を貸したことが発端で、
マフィアおよびその下部組織からの粛清の対象になってしまうが、
夫を殺された人妻を守るために男は独り暗闇を疾走するのだった……。

という内容だった記憶があるが、その人妻がキャリー・マリガンだった。

話を「私を離さないで」に戻すと、先にも書いたが、
これは昨年、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの小説を原作としていて、
クローン人間が登場するといっても未来の話ではなく、
設定は1960年から1990年くらいであり、もしも世界が私たちの知っている設定と違っていたら、
という創作世界を舞台にしている。

などと語り始めた私はカズオの著作をひとつも読んでいないので、
話の内容についてこれ以上は何にも書くことをしないが、
話の設計方法を考えたとき、SF作家のフィリップ・K・ディックを少し思い出した。

フィリップ・K・ディックは、ご存知の通り映画「ブレード・ランナー」の原作者だが、
原作はもちろん「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」で、
しかしこの小説は相当に集中して読まないと理解が難しい。
全編まるで深い霧の中を彷徨っているような感触で、
主人公の記憶と思考とが混乱混線していくことにつき合わなければならず、
読み易くはない。といっても、私はもうほとんど内容を忘れているのだが。

読みにくいといえば、話はまた飛ぶが、
先日、図書館のリサイクル処分本の棚に、アンドレ・マルローの「王道」を見つけ、
それは以前からきっかけがあれば読んでみたいと思っていた小説だったから、
しかも返す面倒のない処分本ということで、
同じ棚のもう一冊、ミラン・クンデラの「生は彼方に」と合わせて2冊をもらって帰った。

しかし、もうこの2冊とも読み難いことこの上なく、
何が書いてあるのか頭にぜんぜん入ってこない。
苦痛が先に立ち、読解する気にもならず、どちらも諦めて、
次に図書館に行ったときに、元の棚に置いてきた。

私はどうも訳ものに弱い。
少し読んで文体や言葉使いが自分に合わないとすぐに諦めてしまう。
句読点の付け方が気に入らないだけで読み進めるのを考えてしまう。
逆に、純日本文学の宮尾登美子なんか、いくらでも読めるのだが。

結局のところ、何を書いているのかわからなくなってきた。

カズオ・イシグロを読んでからまた書いてみようかな。

「我ら百姓家族」感想

2018-09-09 17:18:18 | 映画
少し前のことだが、
「我ら百姓家族」というドキュメンタリー映像作品が放送されていて、
それを観た感想を少し。

作品は、兵庫県の山間に住む家族を20年近くに渡り取材したもので、面白かった。

学生運動に明け暮れた男が国鉄に就職し、そこでも組合運動に勤しみ、
やがて職場で知り合った女性と結婚をし、夫婦で自然食品の販売を手がけるが、
排ガスを撒いて健康食品を配達することにジレンマを感じ始め、
さらに長男のアレルギー体質もあり、そこから極端ではあるが、
山の中で自給自足の生活を家族で確立しようと移住をする。

数年のうちに自分と妻。長男次男三男。長女。次女三女は双子。家族は総勢8人となる。

畑もやれば家畜も育て、炭を焼き、電気も作ればバイオガスも作り、まさに自給自足。

子供も早朝から一日中仕事に追われ、なかなか学校にも行けず、
父は年端もいかない娘たちにも容赦なく鶏の首を落とすことを命じる。

ところが長男が15歳の時に、妻が夫も子供も何もかもを捨てて離婚し山を降りてしまう。
その時一番下の双子は5歳だったか。

それでも残された家族は自給自足を貫き、長男次男は山男として逞しく一人前に育つ。
しかし三男は山の暮らしを嫌がり、茶髪にし、やがて東京へ出て役者を目指す。

次男が所帯を持ち、近所に自分たちで家を建てる。

父親の理想はこの土地に自分の王国を作ることだったと私には思われた。

正しくは、自分の、というより自給自足が主役で、つまり自給自足の国を作りたかった。
もっというと、自分の考えの正しさをこの土地で証明したかったのではないか。

父親は基本が真面目な人なのだろう。
真面目が過ぎて自分が頑固者になっていることに気がつかない。

成人した末っ子の双子は山を降りて就職をする。
逆に三男は東京での夢に破れ、山に戻る。
山の暮らしが好きだと言っていた長男も結婚をし、山に家族を作る。

父は、近くに息子たちがいるにしても、家では独りになり、
ある日、身体の不調を覚え、病院に行くとガンを告げられる。

双子が帰ってきて、しばし父の世話をする。
ガンは転移をし、片目を摘出する。(もちろん病院で)

しかし医者にもう余命3ヶ月だと告げられ、坊主を用意しろとまで言われ、
本人もほとんど動くことも出来なくなり、介護の苦労というよりも、
終末期の痛みを和らげるためにだと思うが、とうとう入院をする。

もう最期だということで、家族を捨てた元妻が病床に現れ、言葉を交わす。
「同士ですから。お互いがんばりましょう。」と相変わらず左翼的発言の元妻。
「あんただけがんばってください。」となかなかいい返しの寝たきり元夫。

破れた王国の主は天に召され、
後始末を終えるとあの山が好きで山の暮らしを誰よりもよく知る長男は、
彼の家族とともにすぐに山を降り、海辺に移住する。

次男の家族が一番、父の望みに近い暮らしを続けるような気配で、
役者の夢に破れた三男はフィールドアスレチックのスタッフとして山で働き、
双子の娘たちは街で働き、幼少に足りなかった勉強をする様子。
鶏を屠ることができず泣いたあの優しかった長女はどうしたか忘れた。

ここでしっかりと書いておきたいことは、子供たちのポテンシャルが皆高いということ。

学校に行けなかった分、学力は低いかもしれないが、基本性能が大変に高い。

人の一生は、仮説━実験━分析━結論、そしてまた仮説の繰り返しだと私は思っているが、
そこを彼らはよくわかっているような気がする。しかも底力を持っている。

私ごときがこの父、そして家族について何をいうこともないし、その力も権利もない。

制作がフジテレビなので、それなりの「演出」もあるだろうし、
世の中、作用と反作用というバランスがあるわけだし、
「禍福あざなえる縄のごとし」という言葉もあり、今後何がどうなるか、
何がよかったか、何が悪かったか、100年でも経ったらきっと答え出るだろう。
それまでは誰も予想できないと思う。

生前の映像で、片目を失った身体でようやく起き出し、外に出て、
長年、家族で作ってきた自分の理想郷を、
しかしもう誰も居ない王国の姿を眺める男の背中が印象的だった。

しかし彼はよくやったと思う。

勘違いや間違った部分はたくさんあったにしても、
彼自身は、いい悪いは別にして、やりきったのではないか。

見逃しの三振では決してなかった。
ホームランでもなかった。
なんだろうね。
三塁打タッチアウトというところか。

思い出しながら書いたため、少し記憶違いがあるかもしれない。

おわり。

北林谷栄

2018-08-07 20:06:44 | 映画
昨日、流し見していたテレビのCS放送で、
ジュリア・ロバーツが悪い女王役の白雪姫の映画の次に始まったのが
「阿弥陀堂だより」という日本映画で、
といってもチャンネルを私がそこに合わせたのだが、
寺尾聡と樋口可南子が夫婦役で、なんだか田舎に移住したら癒されました、
みたいなストーリーであるらしく、
どうでもいいや、変なタイトル、などと思いながら片手間に観ていたら、
阿弥陀堂に住む老婆役で北林谷栄が出てきて、
その静かに燃え尽きるような女優魂の昇華に私は一気に引き込まれてしまって、
もう斜めではなく、真正面に最後までしっかり観てしまった。

北林谷栄というのは昔から老婆役ばかりやっている女優なのだが、
私の記憶では、1977年の映画「人間の証明」ですでに同じくらいの老婆役をこなしていたはずである。

「阿弥陀堂だより」では、生と死の境目をどうやら描こうとしていたように思えたが、
北林谷栄が見事にその境地を神々しくも演じきった。

つかこうへい

2018-07-24 20:29:27 | 映画
先日、映画「蒲田行進曲」のことを少し書いたが、
その後、CS放送でつかこうへい原作の映画が続けて放映されていた。
つかこうへいの何かスペシャル的な週だったのかもしれない。

それで「蒲田行進曲」について、
昔に読んだ他のつかこうへい作品からすると、
棘も角ものない仕上がりだったな、と書いたわけだが、
数日前、片手間にCS放送で観た映画「青春かけおち篇」でやっと安心した。

しっかりと観たわけではなかったから正確には書けないが、
主役の風間杜夫が冴えない婿候補で、後ろに姑を乗せて運転をするシーンで、
信号赤で待っている風間にイライラしている姑(杉浦直樹)が後ろから怒鳴る。

「早く行きなさいよ」

「いや、赤ですから」

「あんた男でしょ。男なら赤でも行きなさいよ」

「いや、人がいますから」

「あんた男でしょ。男なら轢きなさいよ」


ああこれこれ。
これが私の知っているつかこうへいだ。と懐かしくて笑った。

どこまでも劇的というか、今考えた造語だが、あの人は劇脳なんだよな。

「なぜ轢かない。男に生まれたならここで平和ボケした通行人を二、三人轢いて、
その後パトカー50台の追跡を振り切って、そしてなぜ国会議事堂へ突っ込まないんだ。
それをやり遂げてこその男の花道じゃないか。そのための今日の史上最高気温じゃないか。
オマエの花道を飾ってやるために地球が気合いを入れてるんじゃないか。
夏をナメるんじゃないっ!!」

というようなセリフを言わせそうな感じが私の知っているつかこうへい。

また少し読んでみようかな。

蒲田行進曲 感想

2018-07-14 20:49:43 | 映画
映画「蒲田行進曲」を初めて観た。

このたしか傑作と言われている作品を今まで避けていたわけではないが、
なんとなく観る機会も、どうしても観ようという気にもならず、観ることがなかったのだが、
今回ちょうど空いた時間にCS放送でやっていたので、観た。

役者と撮影所が話の中心であることくらいは知っていたし、もちろん、
主役級の3人もわかっていたし、階段落ちがクライマックスであることも、
映画の封切りから30年以上経っているので、
そんな情報はさすがに頭のどこかに紛れ込んでいた。

しかし役どころも筋もまったく知らず、今回観て、はあこんな話だったか、と、
良くもなく悪くもなく、わりと普通の、つかこうへい作品にしてはおとなし目の、
誰が観ても楽しめる感じだなと思った。

といっても、つかこうへい作品に詳しいわけでもなく、
すごく以前に、何冊かを読んだだけなのだが、
あれ、もっと棘や角がある作風じゃなかったかな、という記憶があった。

ヒロイン役の松坂慶子は好きなので、そこはよかった。
なんといってもあの人は声がいい。
だから彼女の歌がけっこう好き。といっても、よく聴くわけでもないが。
あのいつまで経っても上手そうに歌わない姿勢がよい。

松坂慶子というと「愛の水中花」という歌が(昔の人には)よく知られているが、
ああいった夜の匂いがする曲より、
もっと売れない素朴なフォークソングのような曲に彼女の声は合っている気がする。
まあこれは好みの問題なので誰にも押しつけはしないが、
例えば西島三重子の「池上線」など、もちろんこの曲は売れたが、
あんなのをさらっと歌ってくれたらよかったと思う。

モンタージュ・オブ・ヘック 感想

2018-06-30 20:44:35 | 映画
つづき。

何のつづきかというと、
カート・コバーンのドキュメンタリー映画「Montage of Heck」を観ての感想を数回にわたり書いているわけだが、純粋さのあまり「弱さ」があったカート・コバーンに対して「強さ」を見せ続けてきたミック・ジャガーを較べてみて、そこにブライアン・ジョーンズというやはり「弱さ」があったRストーンズの創設メンバーを登場させてみたが、私がW杯を夜中に観たりしていて生活リズムが狂い、何がなんだか、話の趣旨と方向性を今では見失っているところ。暑いし。

ミック・ジャガーについて、前にも書いたとおり、彼は見切りというか見極めというか、それが早かった。オレたちはこんなもんだ。客はこんなもんだ。大衆はこんなもんだ。メディアはこんなもんだ。音楽の価値はこんなもんだ。ドラッグなんてこんなもんだ。だからどうすればいいか。こうしよう。そうしよう。

この「見切る。見極める」という能力は当然、経営者になくてはならないもので、対してカート・コバーンにはそれがなかった。ブライアン・ジョーンズにもなかった。実は私にもない。

カート・コバーンにあったのは、優しさの裏返しによる一見尖っているかのように見えるアートセンスと、一点に集中できる能力ではなかったか。

ここでいう一点集中とはどういうことかというと、彼がギタリストとしてあのレベルを弾く能力は、ある期間をそこに集中しなけば到達できないことは明白で、ゆえに彼はその期間を過ごしたのだ、という理屈である。

もちろん彼にウルトラテクがあるわけではないが、しかしあの独特なリズム感や、エッジの効いたリフなどは凡人にはコピーは出来ても創り出すことはまず難しいだろう。

ミックとカートと、お互い違ってはいてもそれぞれ高い能力を持ちながら、片や75歳にして現役ロックンロール・アイコン。片やすでにレジェンド。

この二人の違いをもっともシンプルに明確に表現するなら、するなら、
今、思いつかないから、また後日。

つづく。

Montage of heckを観て感想

2018-06-24 19:36:11 | 映画
つづき。

ここ最近、サッカーを観ていたら生活のリズムが崩れて、
このブログを更新するタイミングを失っていた。

何のつづきかというと、
カート・コバーンとミック・ジャガーの二人を対比させていた。

カート・コバーンという破滅型のアーティスト。
ミック・ジャガーというバランス型のアーティスト兼、Rストーンズの社長。

まあ社長かどうかは知らないが、リーダー的存在であることは間違いないだろう。

しかしRストーンズの創成期、最初のリーダーはブライアン・ジョーンズであった。

ミック・ジャガーとキース・リチャーズが当時まだ初心な青年であったのに較べて、
ブライアン・ジョーンズはすでに3人の子持ちで、いわばよく擦れていて、
言動、出で立ちはとくにエッジが効き、その後のRストーンズのイメージは、
このブライアン・ジョーンズによって決定されたといっても過言ではない。
というのが定説である。

ブライアン・ジョーンズは楽器の天才でマルチプレーヤーであったが、
しかし気分屋で、自分の都合でステージに穴を開けたりすることが度々あり、
そのうち力をつけてきたミック・ジャガーとキース・リチャーズたちが
作曲の才能も持っていたため、リーダーシップは彼らに移行されることになった。

キース・リチャーズのギターが上達したことも、
ブライアン・ジョーンズの存在を薄くさせることの原因になっただろう。

性格はかなり無責任。作曲は出来ない。信用も出来ない。そしてダミ声。
そんなブライアン・ジョーンズは存在感を取り戻そうと
民俗楽器をバンドに取り入れることを提案し、実際に演奏もした。
Rストーンズに新たな要素を注入することに成功はしたが、
本人はすでに薬漬けの毎日で、やがて自滅してしまう。

バンドの創設者の死の直前にミック・ジャガーとキース・リチャーズは
ブライアン・ジョーンズにバンドからの脱退を迫り、
すでに正気を失いかけていた彼を説得し同意を得て、記者会見も行っていた。

ブライアン・ジョーンズの脱退とその直後の死によるバンドのイメージの失墜という
バンドの歴史上最大の困難をミック・ジャガーは持ち前の経営感覚でうまく乗り切った。

ここでわかることは、ミック・ジャガーはあまり悩まない性格なのではないか、ということである。

バンドの存続がミック・ジャガーだけの力ではないことはもちろんなのだが、
それにしても、自分でクビにしたバンドの創設者の死をプールの底に見て、
少し弱い神経の人であれば解散に至ってしまったりするのだが、彼はそうはしなかった。

つづく。

モンタージュ・オブ・ヘック

2018-06-18 20:07:15 | 映画
前回まで、カート・コバーンとミック・ジャガーを対比させ、
自己及び経営のマネージメント能力の有無について書いていた。
この二人の差異は、心に傷があったか、なかったか、ということに加えて、
自分自身、そして作品に疑いを持つ気質であったかどうか、も重要ではないか。
と論じ始めたところで私はW杯を観たりしていて、間が空いた。

つづき。

二人について、カート・コバーンは純粋かつ無垢なアーティストで、
ミック・ジャガーはどちらかといえば歌うビジネスマンである、
などと結論づけるつもりは毛頭ない。

ただ、ミック・ジャガーの方が「見極め」が早く正確であったように思える。
何の見極めかというと「客が何を求めているか」ということについてである。
もっと言うと「何を求めて、何は求めていないか」ということである。
さらに書くと「コアな客より、表面的な客の方がずっと多い」ということに、
ミック・ジャガーはおそらく活動の初期から彼の経営感覚で気づいていたのではないか。

このことはもちろん、誰でもわかっていることなのだが、しかし、
多数の表面的な層に合わせるのではなく、かといってコアだけに合わせるのでもなく、
そしてラジカルでもなく、かといってクラッシックでもない普遍的な音とイメージを
作り出す彼らの絶妙かつ天才的な才能と戦略を私たちは賞賛しなければならない。
「やっていることは簡単。しかし絶対に真似は出来ない」ということに。

対してカート・コバーンはというと、
「客が何を求めているか」などと考えるのではなく、
「オレは好きなことを好きな時にやるから、ついて来れなければ来なくていい」
というスタンスではなかったか。

そんな客を突き放したような感覚に、大衆は新しい輝きを見出し、
「こいつは本物かもしれない。きっと何かをやってくれるだろう」と期待をした。
実際、カート・コバーンは本物であったし、一瞬ではあったが煌めき燃え尽きた。

つづく。

Montage of Heck/考察

2018-06-10 00:41:42 | 映画
つづき。

違い。
カート・コバーンとミック・ジャガーの資質の違いを突き詰めて考えると、
やはり前号までに書いたとおり、マネージメント能力の有無であろう。
マネージメントとは、自己も経営も、である。

75歳にしてライブでピョンピョン跳ね歌うロックスターは、
ザ・ローリングストーンズを経営し、しかも搾取されないよう防御もする。

華やかな表舞台であればあるほど、裏に回れば汚い業界である。
少しでも油断すれば、
膨大な文字数の契約書を仔細に読むという面倒を厭えば、
直ちにアーティスト兼奴隷というような待遇に陥るのだ。

そんなアーティストにとっては苦手な部分を
ミック・ジャガーは長年うまくやってきたように思える。
もちろん有能なマネージャーたちに恵まれたこともあるだろう。
しかし、やはりミック・ジャガーの元々の資質があったからこそだと思える。

対してカート・コバーンはまず経営に興味があったとは考えられない。
そしてセルフマネージメントについても、あったとは言い難い。
心も身体もさらに環境も、
彼は健康に生きたい希望を子供を持つに至って少なからず持ったに違いないが、
その時はもう薬物依存が強く遅かったのか、
現実から逃避したい抑圧が強かったのか、
R.E.M.の新譜を聴きながら幻に誘われて、おそらくトリガーを引いた。

この大きな差異は、心に傷があったかどうかということもその原因になるが、さらに、
自分自身に、もしくは作品に疑いがあったかどうか、ということも考えられるだろう。

つづく。

モンタージュ・オブ・ヘック

2018-06-03 18:42:50 | 映画
つづき。

ここまで書いたところで、話の方向と主旨がわからなくなった……。

自分のためにおさらいをすると、
カート・コバーンの映画「モンタージュ・オブ・ヘック」をCS放送で観た。
ニルヴァーナは反商業主義のローカルバンドという立ち位置であったが、
意識的にエンターテイメント方向に振ったアルバム「ネバー・マインド」が売れに売れた。
しかし、突然の大ブレイクと、それによって群がり始めた業界関係者に、
もともとアート指向であったカート・コバーンは混迷しますます薬物依存を強めた。
ブレイク前からの妻コートニー・ラブとの間に子供を授かるが、
このコートニー・ラブという人もなかなかやっかいな存在で、混迷は混沌へと変わり、
直接の原因は不明だが、その深い幻覚の中でカート・コバーンは神に召される。

カート・コバーンは自身でも発言しているようだが、
反マッチョであり、どちらかといえば自分は女性的であると自己分析している。
それは途方もない大ブレイクの嵐の中では「弱さ」につながってしまい、
アンダーグラウンドなアート指向という純粋さも相まって、
商業の複雑と煩雑に、もしくは、利潤の追求だけという単純さについて行けず、
薬物使用の現実逃避へと向かい、急上昇した生涯グラフは急降下を示し、
あっけない破綻で短すぎる人生を終えた。

そんなカート・コバーンに対して対照的な「強さ」を見せ続けたのが、
1962年創業の老舗、ザ・ローリング・ストーンズである。
今年2018年、結成56年目にして現役である。
Wikipediaにしても、長過ぎて読み切れないほどである。

彼らもそれぞれが才能と違った方向性を持っていたが、しかし、
ローリング・ストーンズの名の下に集まれば、そのイメージに従い、
商業主義にもよく馴染んで、またそれが嫌味でなく、むしろクールに見え、
そして長い現役生活に紆余曲折はあったにせよ、今はけっこう仲良くやっているし、
最新のレコーディング・アルバムにしても、まったく衰えを感じさせず、
原点回帰なのか、ブルースの曲をカバーした作品で、アメリカのR66などに合いそうである。

この対照的な二つのバンド、ニルヴァーナとザ・ローリング・ストーンズの違いは、
はやりフロントマンであるカート・コバーンとミック・ジャガーの資質の違いに
大きく依るものがあったと考えられる。

つづく。

Kurt Cobain/27 Club

2018-05-31 18:27:22 | 映画
つづき。

カート・コバーンが自分自身のマネージメントに失敗したことは間違いなく、しかし、
アーティストとしての能力とセルフマネージメントを高いレベルで両立できる方が、
これは圧倒的に少ないのではないだろうか。

カート・コバーンを語る時、避けて通れないのが所謂「27歳クラブ」という括りであり、
今さらこれを説明するまでもないが、
天賦の才を持ちながら、その才を神に愛されたがゆえ、神はそばに置きたく、
彼らは若くして召された。
というような「夭逝クラブ」だといえようか。
そして皆、享年27歳というわけである。

有名どころでは、
ジミ・ヘンドリクス。ブライアン・ジョーンズ。ジャニス・ジョプリン。ジム・モリスン。
などがいる。

近いところでは、エイミー・ワインハウスも入会したらしい。

この誰も「自己管理能力」を持っていたとは間違っても言えない。

このクラブ以外にも、例えばジャズに革命を起こしたチャーリー・パーカーも、
もちろんマイルス・ディヴィスも、ドラッグとの縁は深かったし、
ファンクの帝王、ジェームス・ブラウンも警察沙汰を起こし、実刑を受けている。

マイケル・ジャクソンの人生もなんというか、危なっかしい感じであったし、
そしてボブ・マーリーはというと、子供があちこちにたくさんいるという、これは
「自己管理能力」の問題ではなく、それ以前に管理という概念がなかったのではないだろうか。

つづく。

ローリングストーンズ考察からカート・コバーン

2018-05-26 19:28:43 | 映画
つづき。

少しまたローリングストーンズに戻ると、
彼らの強さと凄さは、まずスタイルにブレがないこと。そして、
マニアックになり過ぎず、シンプルでわかり易く、とくに見た目を重視し、
観客のイメージを壊さないように見えない部分での努力がおそらく驚異的であること。
ではないか。

オリジナリティはもちろん確固としてあるが、他のいいものは取り入れる。
取り入れもするし、進化もするが、それはいつも小さじ程度で、
なによりもまず「ローリングストーンズ」とはこういうものだ、というイメージがある。

と、R.ストーンズをほとんど聴かない私が分析してみたが、どうだろう。
かなり普通の、誰でも気がつく程度の分析で、少し自分にがっかりしている。

しかし、これ以上の分析や考察は難しい。なぜなら、
私はそんなにR.ストーンズを知らないからである。

とはいっても、遠目に見ていてもわかることはわかる。
バンドのマネージメントの柱はミック・ジャガーだな。
サウンドスタイルがぶれないのはキース・リチャーズの存在だな。
いい奴ロン・ウッドがいたからこそ、ここまでバンドが存続しているんだな。
そしてグルーブ(groove)の基礎はやっぱりチャーリー・ワッツだな。

これを書いてよくわかることは、
何事に於いても成功し存続するためには、
基礎があり、行く道がぶれずに、ハートがあり、そしてマネージメントがしっかりしていること。
という当たり前の結論ではないだろうか。

しかしカート・コバーンは自分をマネージメントすることに失敗した。

つづく。