カウンセリングルーム 横手(三鷹)しゃべりば

個人カウンセリング
グループカウンセリング
学習会
ひとりごと等
(見たいカテゴリーを、クリックしてください。)

教える、褒める、質問する・・・

2017年09月27日 18時45分50秒 | 横手しゃべりばによせて
教える、褒める、質問する・・・
私が通ったカウンセリングの場では、ご法度として育った。

質問するに関してはその後、開かれた質問とか、閉じられた質問などという言葉が出回り、
今では、心理学用語として定着した感さえある。
が、とある学習会で、(そんな言葉を知らなかった昔のこと)師に尋ねたことがある。
教える、褒めるがご法度なのはなんとなくわかるけど、どうして、質問したらいけないのでしょうか?と。
師、応えて曰く
「質問すると、クライエントを固定する。クライアントが、質問した(この場合はカウンセラー)に応えてあげる人になってしまう。 その場合、自由がせばめられる・・・」と。
逆の場合、つまりはクライアントが質問したときも同じ。学習の中では確か、貰い乞食などという言葉を使っていた記憶がある。


教えることがご法度の、私の理解はこうだ。
同じようにその人から自由を奪うと同時に、教えた人はその人の上になってしまう、つまりは五分五分の関係を保てなくなる。さらに、その人自身が己の責任の中で成長していく機会を奪ってしまう。

褒めるは依存そのもの。褒められると誰だって嬉しい。嬉しいから、また次も褒めてもらおうと、褒めてくれた人に気に入られるように振る舞ってしまう。
褒められるための努力までしてしまう。

教える、褒める、質問する
これらは、クライアントセンタードのカウンセリングからは、どうも遠くかけ離れているようだ。彼らの成長の妨げとなるらしい。

今の私にできるカウンセリング、それは決して上の3つはやりませんよ、のところにはいない。
師のような、そこまでの律し方はできない。
時々、教えてしまうことがある。
それは、彼らの成長を待つよりも私自身が楽だから?と思う。
年とったらきっと、もっと待てなくなる・・・

それでも、このご法度を与えてくれたカウンセリングの場で育ったことを誇りに思う。

  ※上のご法度はあくまでカウンセリング内でのことです。念のため。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謝る

2017年09月26日 06時19分29秒 | ひとりごと
謝る気などないのに、自分の庇護のため即座に謝る人。
気持ちがないのがよく伝わる。
だからでしょう、謝られているその軽い言葉が苦痛だった。
 謝る気なんてホントはないんでしよ、って思ってみたところで、
それを口にしたことはなかった。

そして今、もし言葉にするなら、
「私が粗末にされている感じがして仕様がないので、謝らないでください」
って、言う。

う~ん、、、
言うかな?
言えるかな~。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大人とは?(カウンセリング編)

2017年09月16日 09時42分54秒 | ひとりごと
10年くらい前の八戸だったと思う、私に教えてくれた人がいた。

大人とは?
待てる人、
自分が責任になれる人。
その後、毎年、手帳を変えるたびにこの言葉を移しとった。
たった三行の文字。

 待てるとは、誰かが動くまで待っているだけの人とは、まったく違う。
そんな受け身の待つではなく、もっと自主的に待つことをやる。
目の前の人を生かすため、その人の邪魔にはならず、彼が動くまで寄り添える人。
はやりの言葉で言うと、見守るになるのかな~。
ただしこの見守るは、最近では言葉だけが独り歩きしてしまい、
どうも、使いすぎの薄っぺらさがあって気に入らない。
自然に寄り添う、の方が私は好きだな。
潮が満ちるまで、言葉を発しなくとも座っていられる人。
この表現でもいいのかな。

 自分が責任になれるとは、起きていること・起きてしまったことに対して、
自分を主語にして、言葉を発っすることのできる人。
つまりは、決して人のせいにはしない人。
物事を自分で引き受けている人。
自分が理由になれる人。
自然に待てる余裕を持っている人・・・

クドクドと書いてみて、この二つの凄さにため息しか出なかった。
はあ~
私は、まだまだまだまだ・・・だわ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たった一人でも、たとえ一匹でも

2017年09月08日 05時56分07秒 | ひとりごと
あの大阪・池田市での事件の後、
ずうっとずうっと、思い続けていたことがあります。
とてもナイーブなことなので、ブログに載せるには少々勇気がいりました。

それは、
人はたぶん、たった一人でもいい、
自分を必要としてくれる人がいるのなら、
そう、自分が感じているのなら、
自殺などしないのではないでしょうか?
ということです。
自殺してしまった人に確かめたことはないので、
未確定のままに言うんだけれど。
どうしても、そうとしか思えなくなりました。

もちろん、相手が人間ならベストだけれど、
例えばそれは、犬でもいいのではないでしょうか?
毎日、家に帰ると、決まって自分を迎えてくれる存在。
たとえ、ご飯を待っての行動だとしても、
そこに言葉はなくとも、
しっぽをふって、一目散に自分をめがけて飛び込んでくる、
その愛おしさがあれば、
とりあえず、人は今日を生きてゆける、
そんな気がしてならないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

T郎ちゃんに捧ぐ!

2017年09月02日 05時32分21秒 | ひとりごと
濃い~一日だった。
白石のメモリアルホールで初めて友を見たとき、一瞬、
「あれ!?なんで横にT郎ちゃんはいないの?」って思った。
2、3秒してやっと、「そうかあ!」
私は、T郎ちゃんの葬儀に来たことに気づいた。
それくらい、いつだって友の横には彼がいた。

悔しくて、我が事のように悔しくて、「バカヤロー!!」って、
写真に向かって叫びたい気分だった。
叫べば良かった。

60歳、還暦を迎え退職もして、やっと家族水入らずの人生を歩もうとした矢先、
突然、逝ってしまった人。
私の友は絶世の美女とは言わないけれど、誰が見ても可愛いし、
その上、とびっきりの心・器量よし。
知らないよ、そんなに早く逝って誰かに彼女を取られても。
それが嫌だったら、ちゃんと天国から彼女を見はっててください、
ませ。
決して見守るとかじゃなく、片時も離れずわき目もふらず、みはっててください。

そして、3年くらいかな~、
それくらい経ったら彼女を自由にしてやってください、
ませ。
どうぞ、よろしくお願いします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする