カウンセリングルーム 横手(三鷹)しゃべりば

個人カウンセリング
グループカウンセリング
学習会
ひとりごと等
(見たいカテゴリーを、クリックしてください。)

世界卓球と三鷹しゃべりば(お知らせ)

2014年04月23日 09時43分22秒 | 各種ワークショップのご案内
 この25日(金)から5月6日まで、世界卓球のボランティア参加で、東京は代々木第一体育館につめています。40年ぶりの東京開催です。お時間の方ある方はこの機会に、ぜひ、世界一流の卓球をご堪能下さいませ。
観たい方はおそらくのレベルですが、当日券(自由席)があると思いますので、ネット等で調べてみて下さい。

 加えて1年半ぶりでしょうか、29日(火)午後2時からは三鷹しゃべりば?が開催されるとか、場所は三鷹市・市民協働センター、会費は1000円です。
ただし私が主催者ではありませんので、参加できるかどうかは確約できませんが、もしご興味を持たれた方がいらしたら、下記メルアドまでご連絡頂けたら幸いです。

それでは簡単ですが、お知らせにて。

メール:etutan.ta0215@docomo.ne.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第3回横手しゃばりばによせて

2014年04月19日 22時13分22秒 | 横手しゃべりばによせて
 しゃべりばが終わってちょうど1週間になりました。やっと、平常心を取り戻しました。
参加者Kさんにはなんて表現していいのか、(あえて正直に言うなら)ほどほど、困り果てていました。終わって2、3日、自分自身のやる気がうせて、動くことができなかった、一応、体だけは動いてはいましたが。
友田先生ならこういう時はどうするんだろう、鈴木先生なら、この方とどう向き合うんだろうと、私には初めての経験だったので、そんな想像ばかりをして過ごしました。
と言うますのも、しゃべりばを始めて13年になりますが、私は、あのKさんのような参加者には、今まで一度もお目にかかったことがなかったからです。まっ、いつだって初参加の方には、初めてお目にかかる人でしょうという屁理屈はあるのですが、理屈だけをとるなら、彼女はその世界を、ぽ~んと軽く超えてきました。
もし私が主催者側でもなんでもなく、単に一人の参加者だとしたら、間違いなく席を立ってその場を離れていたことでしょう。現に、しゃべりばが終わったときには、私とKさん、それに当日、横手市内に宿泊予定だったNさん以外には皆、姿を消していました。もちろん、用事があって席を立たれた方もいらしたでしょうが、それでもです。
グループカウンセリングと銘打ってはいるものの、その限界を見たというか、ここって、単におばさまのはけ口の場だったけ、というか、この横手市でカウンセリングをやってゆくことの難しさを突き付けられたというか、一番は私自身の未熟さなんでしょうが、厳しく対処できなかった自分に凹んで、うんざりしていました。

 そして1週間たった今日、もうKさんのことでは悩まなくなりました。それは、Kさんが特別でもなんでもなく、この町にいらっしゃる多くのおばさまたちは、多かれ少なからKさんの一部だと気がついたからです。東京で11年間、やり続けたからこそ育っていった、成熟した参加者に囲まれてのグループカウンセリング、慣れ親しんだ、その動きだけで通用すると思い込んでいた、私の方が間違っていたのです。
違う意味で、たとえ誰一人、席を立っていなくなったとしても、世話人として、しっかり言うべきことは言う、話さないことは、決して話さない、その姿勢を私がなくしていたことに気がつきました。Kさんが一人、延々と話す中でさえも、Fさんという方は、なんのブレもなく座って、静かに自分を語っていましたから。
あまりにも波風立たせないことを良しとするような、田舎独特の空気に、しっかり染まっている自分に気づきました。お友達カウンセリング、温泉カウンセリングはいらないのです。厳しく対処さえもいらないのです。申し訳のように、自分自身の未熟さでしょうがと付け加えたことだけが、今まさにその通りだったと、改めて気づかされました。
常に自分の心に向き合わずして、何がカウンセリングでしょうか。
いつだって気がついたらまた0からのスタート、すべてはここからなのでしょう。

今はKさんに感謝です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せな時間

2014年04月02日 21時51分21秒 | ひとりごと
 祖父が亡くなってから、今日で38年になります。私はじいちゃんの初孫でした。
幼い時の記憶というよりは、残された写真を見ての記憶?なので、かなり曖昧ですが、おそらく幼稚園に上がる前の3,4歳頃の私でしょう、じいちゃんの着物の懐に入って、汽車(電車ではありません。煙のモクモクと上がる例の奴です)を見ています。じいちゃんのその時の歳を数えると、53、4歳くらいでしょうか、毎日々私を連れては、いつも踏切に立っていたと母が教えてくれました。

 そこから少し時が流れて、次の写真はウサギの餌を取っている様子、こちらは写真だけでもなく、かすかに私なりの記憶があります。家からすぐの川沿いに生えていた草を、じいちゃんといっしょにむしっては持ち帰り、ムシロに広げて乾かしました。うさぎはぬれている草を食べるとおなかをこわす、ということは、この時、じいちゃんから教わりました。その頃の我が家は、うさぎに、ひつじに、にわとりに犬(?)・・・と、さながら、小さな動物園のようでした。

 そこからまたほんの少しだけ月日は流れて、家の真ん中の柱に、じいちゃんの着物の帯でくくり付けられている私がいます。こちらの写真はないのですが、じいちゃんを思い出す時に、必ずよみがえってくる記憶です。泣きじゃくりながら、もう二度としないから助けてぇ~と、私はまず、ばあちゃんに助けを求めるのですが、誰が頼んだところで容赦のない、怯まない、じいちゃんでした。そして私が2、3時間も泣き叫んで疲れ果てた頃、やっと帯をほどいてくれて、もう二度としないかと尋ねるのでした。

 最後の写真は、市営球場の桜の下のお弁当、おそらく小学校の運動会、忙しい父や母に代わって、決まって我が家はじいちゃんとばあちゃんが来てくれました。母が作ってくれた卵焼きにのり巻き、寒天、そして桜でんぶと、ゆで卵のいっぱいのった甘~い酢めし、これが当時のお重のメニュー。かけっこの遅かった私の唯一の楽しみが、じいちゃん、ばあちゃんそして弟と4人で食べるお弁当。バナナが入っていたら、いうことなかったなあ。

 じいちゃんが亡くなったのは、私が大学2年生、いえ正確には3年生になろうとした春。下宿先のおばさんが、すぐ横手に帰るようにと知らせてくれました。高校野球を観ていて、興奮して心臓が詰まってもがいて、その後、救急車がやってきたけど、ほぼ、もう救急車の中で亡くなってしまったとか、傍にいた母だけが、その死に目に会ったという。春だというのに、雪が降っていた記憶があります。
 あれから38年の月日が流れて、7人家族だった我が家にいるのは、母と私の二人だけ、とても寂しくなりました。が、こうして今日、じいちゃんの命日をこの地で迎え、記憶を辿りながら、幸せな時間に思いを馳せることができました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする