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「第5回老子を読む会」を終えて

2010年03月20日 18時31分51秒 | 各種ワークショップのご案内
 老子を読む会が終わってすぐ、私の中に長い間君臨していて、これこそが私の性格でしょうと自分自身が信じて疑わなかった「ちゃんとやらなくっちゃ~」という意識が、解けて広がっていくのを感じていた。
振り返ると、二日間のみんながいるワークの中でさえそれができていたのだ。とてもありがたいことに。(いや、皆が受け入れてくれたから?)
とはいうものの、きっとこれから先の私もそれなりにちゃんとやっていくとは思うんだ。
たとえば、人との約束はできるだけ守るとか、時間はなるべく遅れないとか、口にしたことはできるだけ実行するとか・・・その方が慣れ親しんだ分、自分の居心地がいい♪。
だけど時に、「ふう~ん、今日はとても疲れているから適当な言い訳をして休んじゃえ~とか、まっ、今からだと10分は会社に遅れちゃうけど、ショウガナイよね。」ぐらいはするでしょうし、ウン・・書いている今、もうそうなっていることにも気づいた。
私の中に、嬉しいことに、確実に柔らかい何かが育ってきたのを感じる。
そういえば『老子』って、とどのつまりが“柔よく剛を制す”って、友田先生も言ってたような・・・?
いや、他の訳者だったかな・・・?

 さて今回は、私の振り返りはこの辺にして、N美さんの力作の振り返りを掲載することにしました。N美さん、こんな大作を書いて下さって本当にありがとうございます。何度お礼をしても足りないくらいですが、この場を借りてもう一度、お礼申し上げます。
(ここまで橋記)

「第5回老子を読む会」荒武者修行を終えて
 皆さん、ハジメマシテ。私は宮城県白石市在住のN美と申します。第3回目の自主学習会に初めて参加して、世話人さんのつく正式な会には初参加です。
 第3回というと、1年前になりますね。案内をいただいた時は、「休みの日にコムズカシイ漢文なんて勉強すんの、やんだナー。」と思ってたけど、世話人さんが急に欠席になり、料金が日帰りだと3分の1に。全国版なのに会場が自宅から徒歩2分というゼータクさもあって、それじゃあ出てみようかなって感じになりました。
 そしたら、参加者のほとんどの人がカウンセラーで、そのまたほとんどの人が日本カウンセリングセンターの何かに所属しているみたいだったので、ビビりました。私はカウンセラーじゃないし、本格的に勉強しているわけでもないし。終わった時は精魂尽き果てて、また出たいという気にはなりませんでしたネ。でも1年たって、会場が仙台から白石に戻り、世話人さんもついて日帰り料金もあるということで、今回また申し込んでみた次第です。因みに、宿泊・3食付きでも2日間で15,000円、事務局の方の真心もふんだんについてこの激安価格にはビックリです。
 参加者は他都道府県から来ている方が多く、私としては、地元から参加している者として、「良い2日間だった。」と思ってもらえるように本気で参加しなきゃと思ってました。今回もやっぱり、「カウンセリングを学びこんでるな~。」って方ばっかりでした。さて、どんな展開になることやら・・・。

 今回は、「老子読本(その2)」から入ることになったんです。「1.はじめに」によると、著者の友田氏は第20章を書こうとしていたが瞬時に方針が一変して、今回は第3章を書くことにしたそうです。そんな第3章には、一体何が書かれているのか?と進んでいくのが普通の流れかと思ったんですが、ところが皆さんは、それよりも友田氏が自分の行動について表現している箇所に、長い長い時間をかけて議論しているんです!!なかなか終わらないので、悪いけど途中から寝てしまいましたzzz 14時に始まって、一段落したのが15時35分。1セッションが終了するのは16時30分ですから、おおよそ友田氏の話で残り1時間を切ってしまったと思った私はつい、「私は『老子を読む会』の案内をいただいたので老子を読みに来たんです。友田不二男について語りに来たわけじゃないんです。友田氏の文章をテキストにしているので筆者と切り離すことはできないから、文章の気になるところに触れるのは構いませんが、あまりに友田氏のことに時間をかけ過ぎると思います。」という主旨のことを言ってしまいました。言いたいことが伝わった人と伝わらない人がいたようですが、それでも皆さん申し訳ないくらい私に気を使って下さって、本当に悪いなと思いました。
 しかし第3章になってからもまた『老子』のことより友田氏についての話が長く続き、ある人の「友田論になってますよね。」と言われたのをきっかけにまた、「『老子読本』を使っての友田のことを論じるのが主な目的なら次回は『友田不二男を語る会』という案内にしてほしい。」とまで言ってしまいました。
 そんな私でしたが、1日目を終えて、「ここは友田不二男が好きな人たちがその人のテキストを元に友田氏のことを語りたいのだから、私が来る所ではなかったのかなあ。」と思いました。家に帰ったらものすごい疲れで動けなくなっていました。

 2日目になっても、朝から疲れが残っていて、皆さんの言ってることのスピードに理解がついて行けなくなることもしばしばでしたね。終わる頃には文章がただの形にしか見えなくなり、読もうとしても読めなくなってしまいました。脳ミソがまっ白になり、頭痛もしてきました。帰りに突然、「ふりかえり」の原稿を頼まれても、書きたいことが何も浮かんで来ませんでした・・・・・・。

 そんな中で引っ掛かっていたのが、1日目に私の発言を受けて「第3回に出た時はどう感じたのですか?」と聞かれたことでした。それに対しては「あまり感じませんでした。みんな友田氏を好きなんだなあとは思いました。」と答えましたけど、なんかまだスッキリしなかったんですね。確かに本当の初参加だったので、皆さんと文章をじっくり見ていくことだけに夢中だったということもあります。ただ、それ以外に、私の発言内容そのものとは別に、1年間で、自分に何か変化があったのかどうか、調べてみたくなったんです。
 基本的に参加の動機はその場を楽しむことだったんですけど、1年前はどちらかというと『老子』を「学ぶ」という気構えで参加していたように思います。その時から、友田氏の訳が絶対とは思っていなかったんで、「この訳は私はこう思う」なんて発言していました。誰にも受けつけられませんでしたけどネ。
 今回は、『老子』を「学ぶ」というより、『老子』に「刺激を受けたい」という気持ちの方が大きかったように思います。友田氏の書いたテキストを使用していますが、私は時として友田氏より別な人の訳の方が自分にしっくり来たり、あるいは誰かのフィルターを通した訳よりも、自分で直接訳した稚拙なものの方がしっくり来る場合もありました。そんなことを感じているうちに、『老子』自体も、ある大きな何かに対して老子という人のフィルターを通して書かれたものだと考えるようになったんです。そして私たちは誰もが既に老子的境地に至っているものと考えました。普段はそれが眠っていることが多いので、『老子』に触れることで刺激され、引き出されていくのが面白いと考えています。引き出されたものは、大体は老子的でも人間が違うので生きていく中でその表現方法は違ってくるかと思います。
 変化といえばそんなことを考えるようになったくらいでしょうか。

 今回、第3章は濃厚な議論につき途中で終わってしまいました。肝心の全体的な意味がさっぱり分からずじまいだったので、家に帰って最後まで読みました。更に図書館から漢文と訳だけのシンプルなものを借りて読んだら、ものすごい感動が来ました!これは「老子を読む会」で途中まででもみんなで読みあ合ったベースがあるからこそだと思います。一方で『老子』は体で読まないと分からないこともあるんですけどね。数日後に会議に出たら、前よりもメンバーの心理状態、全体の流れがつかみやすくなっていたのも、会のおかげかなと思います。

 そうそう、お昼に配給された「ミルトン」のお弁当の味はサイコウでした!無農薬野菜を使用しているとのことで、全体的に優しい味で体に溶け込むような感じがしました。
 近くの人に、友田氏の「真空」という考え方について話を持ちかけてみたら、「『真空』って、~なんですよね。」と言われて、それが私の思っていた分析と一緒だったのですごく嬉しくなっていまいました!!

 今回、世話人さんがいる「老子を読む会」に初めて参加しましたが、世話人の工藤先生は実に流れを見てさり気なく舵をとって下さって、良いタイミングで意見を入れて下さったり、すごいなあと思いました。
 参加している方々は、自分も他人も大切にするということ(そのまんまでいいと意味ではない)が基本的にできている大きな方たちばかりでした。それに比べて私はまだまだガキンチョだと思いましたね。
 宝クジ・・・買いましたヨ・・・会の中で出た発言の刺激を受けて・・・ハズれました。当たったら、会に一部寄付しようと思っていましたのにね。
 最後になりますが、事務局の方々の長期に渡る準備に感謝いたします。
                                                                          アデュー。




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