カウンセリングルーム 横手(三鷹)しゃべりば

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第37回三鷹しゃべりばへのお誘い

2010年09月26日 14時05分41秒 | グループカウンセリンク三鷹しゃべりば
水引草に風が立ち、草ひばりのうたいやまない・・・
は、かの立原道造の詩(うた)なのだが、上水では草ひばりなど見るよしもなく、風も立ってはいなかったが、紅の水引草は生い茂っていた。近くではそれ以上に紅色の彼岸花が咲き乱れ、すっかり秋の様相をなしていた。
長いこと短パンに半そで姿で走っていた人々の服装は、早、ジャージに様変わり。
わずか1週間前までは30度を超えていた最高気温も、今日など20度もあるだろうか。
こんな自然の営みを見ていると、何かが“大きく変わるときは、一瞬なのだ!”と思わずにはいられない。
それまではひどい“暑さ”の中、グズグズとやってきていた涼しさも、たった一日の雨で涼しさはおろか心地よい“寒さ”に変わってしまった。

今回もたくさんの皆さまのご参加をお待ちしております。

日 時   平成22年10月16日(土)午後1時半から午後5時半まで
場 所   三鷹市下連雀4-22-17-303
       三鷹ガーデンハウス303号(橋宅)
       電話0422-43-1596 メールetutan.ta0215@docomo.ne.jp
世話人   橋悦子
参加費   500円(お茶とお菓子がでます)
締 切   10月15日(金) ご参加希望の方は、メールか電話で連絡下さい
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「第6回老子を読む会」自主学習会を終えて

2010年09月09日 20時25分08秒 | 各種ワークショップのご案内
けさは走るのにちょうどいい、そんな空気だった。
その空気に誘われて、久しぶりに上水まで足をのばした。上水を走ってゆくと、昨日までうるさいくらいに鳴いていたセミの声がぴたりと止んで、変わりにコオロギの声が、まだか細いけれど心地よく響いてきた。もしかしたら、もうとっくに鳴いていたのかもしれないが、今年はセミの声が大きすぎて私の耳まで届かなかったのかもしれない。
っと、「老子を読む会」の振り返りを書こうと思いながらも今日になってしまった。でも今日は、静かに振り返りを書こうって気持ちにさせてくれる、そんな日よりなのです。

自主学習の気楽さからか、今回は“自発協同学習”風で「老子読本」を読んでみませんか?という私の呼びかけに、皆はおもしろそう!っていいながら賛同してくれた。
が、かの信川先生自作の“自発協同学習”なるものを私がリードできるはずもなく、何度も何度も繰り返し、このやり方が本来の“自発協同学習”とは思わないで下さいと言い訳しながら進めていった。亀山の学習会などに参加して、あくまで私が体験し、それらを思い出しながらのルールだったので、どうなることやらという不安がありました。
さてその学習会、初めはかなりぎこちなかった。エンカウンター風のワークショップや学習会に慣れている方たちにとって、このルールには自由さがないとか、窮屈だとか、そんな声も聞こえていた。
やり方としては、言いだしっぺの私自身が課題を出せないのもあって、終始、5行から10行くらいまでで段落を区切って、それを読んでの感想や疑問点などを発表してもらうことにした。参加者全員が、必ず発表すること。他人が発表している間は口をはさまずに、どうしても云いたくなった人は、“バズ”といって了解を得てから口にすること。それからこれはとてもステキな約束事ですが、(なるべく他人の邪魔にならないようにとの配慮からか?)自信のない方から先に発表するということ。おおよそのルールは、こんなところでしょうか。

初参加の方もいらしたので、「老子読本」その2(第3章)の初めから読んだのですが、前回皆で読んだにも関わらず、こんなにも私はわかっていなかったのねとあきれるほどに、気付きがあった。今でも覚えているのは、“賢ヲ尚バザレバ、民ヲシテ争ワザラシム・・・”の中にある“賢”の字。これがどうしても腑に落ちなかった。
友田先生の訳は、“もしも上にたつ人が、利口な人・頭の働く人・いろいろのことをよく知っている人、というような類の人々に目をつけてそのような人々を登用するようなことをしないならば、人間の世界に争いを引き起こすようなことはなくなるのだ”
この訳そのものには異論はなかったのだけれど、賢の字が利口者のような訳になっていることが私には目ざわりだった。私の“賢”のイメージだと、謙虚とか、一歩下がった賢さとか、いわゆる利口者というよりは、日本的な控え目な賢さとか、邪念のない気持ちなんかが、この字からは伝わってきてしまう。このあたりでハタと困ってしまい、しかも固まってしまった私は、あきらめて、次回の学習会へこの“賢”の字を持ち越そうとしていた。がその矢先、次の段落を読んだ瞬間、持ち越さずともよくなってしまったのである。
それはこんな論語の一説である。
“子(シ)日(ノタ)ワク、賢ナルカナ回(カイ)ヤ。一簞(タン)ノ食(シ)、一瓢(ピョウ)ノ飲(イン)、陋巷(ロウコウ)ニ在り。人(ヒト)憂(ウレ)イニ堪エズ。回ヤ其ノ楽シミヲ改メズ。賢ナルカナ回ヤ。(雍也(ヨウヤ)第六 11)
友田訳は、“顔回という男はほんとうに賢明な人物だなあ!ろくな食べ物や飲み物もなしに裏小屋で暮らしていて、人間だったら誰でも生活のことが心配で心配でとても我慢できないに決まっているのに、顔回は学問するのが楽しくて楽しくて生活のことなど眼中にないのだ。ほんとうにエライ男だよ。と孔子が云われました。”
この訳に使われている、“賢明”と“エライ”男だけをとっても、老子の“賢”の字との対比から、先生がここに論語を持ってきた心意がわかった!と一気になってしまいました。いつも云うように、あくまで私のわかったという段階ですが。
前回は、すんなりとここが読めて先に進んだのですが、(いえ読めたというよりは、ひとつひとつの箇所に、さほど疑問を持つ姿勢になっていなかった私でしたので)今回は細かく区切って読んでみたり、全員の感想や疑問点などを聞いていくうちに、自分自身の疑問や気づきも生まれ、さらには深まってゆくことが楽しくって仕様がなかった。次から次へと疑問が生まれて、なかなか進まないことさえ、楽しくて仕様がなかったが正しい表現でしょうか。一人では決してできないことで、また皆でやったからというよりは、自発協同学習でやったからといっても、いいのではないでしょうか?
次の文章、“得(エ)難(ガタ)キノ貨ヲ貴(トオト)バザレバ、民ヲシテ盗ミヲ為サザラシム・・・"に至っては、(長くなりますので友田訳は省略します。ご興味のあるかたは、“老子読本その2”のP6を参照下さい。)25年ほど前の友田が訳した時代なら、確かにこの訳で納得がいくなあと思うのだけど、2010年に生きている私には、この訳はムリがある。今の私ならこういう風に訳にしたほうがすっきりする、という言葉を吐いていました。
そうしたら誰かが、友田先生は何も自分の訳を、ただ理解してもらいたいとか、鵜呑みにしてほしかったわけではなくて、むしろ自分が書いたものを叩き台にして、今の私ならこう読むだとか、この訳は少しおかしくないだろうかとか、私たちにそんなふうに学習してほしかったんじゃない。自(ミズカ)ら思うことや感じたことを、言葉に発してほしかったんじゃない。先生はたぶん、そういう学習を私たちに望んでいたんじゃないかなと云いました。
私もそれを聞きながら、その言葉通りだと思いました。心からそう思うなんて言葉は安っぽく聞こえそうですが、今回の学習では心からそう思えました。

“自発協同学習”で友田の書物を読んで、各々が自(オノ)ずから発して、皆で検討してひとつの答えを導き出す。今回もこれを目指したわけでもなく、なんとなくそうだ!このスタイルでやってみようと思い立っただけなのにこんなところに落ちつけて、私の心は安らいでいました。


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