今回のグループカウンセリングは、Kさん持参の「21世紀に生きる君たちへ・・・司馬遼太郎著」を読んでの時間となりました。
一昨日のひとりごとではないのですが、“ 自分と向き合うことに忙しく生きていきたい ”私は、しゃべりにしゃべった(笑)、自分と向き合うと止まらなくなって、今、自分が感じていることを表現したくなるようです。
そんな中、お気に入りの箇所を紹介します。
その箇所だけを抜粋すると言いたいことが伝わらない気がして、長くはなりますが、その前後も掲載します。
・・・人間は助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしたいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会を作り、たがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともとはひとつの根から出ているのである。
根と言っても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうなあ、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、21世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。 (21世紀に生きる君たちへ・14P~17Pより抜粋)
とまあ、1987年頃、司馬遼が小学生に向けて書いた文章のようです。
私が注目したいのはその中の太文字、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。という箇所です。
言い換えれば、うまれつき優しい人、生まれつき他人の痛みを感じることのできる人、生まれつきいたわりを持っている人などいないらしい。なにせ本能ではないのだから、ということ。
私はこの司馬遼の言葉に、ほくそ笑んだなんてもんじゃなかった。周りに人がいなかったらきっと飛び上がって、万歳三唱をしていたに違いない。
それくらい、日頃から私が痛切に感じていたことを、大大大歴史作家の司馬遼太郎先生が、書いてくれていたのである。
みなさん、訓練で優しさや他人の痛みを感じる心が身につくんですよ。なんてたって私ごときが言うのではなくて、かの司馬遼太郎大先生が、そう明言しているのですから。
簡単に見につくとは私は思わないけれど、それでも本能ではなく訓練しだいで・・・。
嬉しくて嬉しくて、この日の私は眠れなかったと言いたいところ、安心してぐっすり眠ることができました。
Kさん、この資料を持ってきて下さってありがとうございます。
心より感謝いたします。
今度ご参加する皆様も、ぜひこれという物があったら、お気軽にご持参くださいませ。
自分ひとりで読むよりは何倍広がりのあることか、まさに学習の時間となりました。
横手しゃべりばはこれからも、場に皆さんに問いかけて、いつものグループカウンセリングでもいいし、ご自分のやりたいことを提案して、実行できる自由な場でありたいです。
来月は老子を読んでの学習会の予定です。
10月30日(日)午後1時半から、場所は高橋悦子拙宅となります。
こちらもどうなるか、今から楽しみです♬。
一昨日のひとりごとではないのですが、“ 自分と向き合うことに忙しく生きていきたい ”私は、しゃべりにしゃべった(笑)、自分と向き合うと止まらなくなって、今、自分が感じていることを表現したくなるようです。
そんな中、お気に入りの箇所を紹介します。
その箇所だけを抜粋すると言いたいことが伝わらない気がして、長くはなりますが、その前後も掲載します。
・・・人間は助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしたいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会を作り、たがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともとはひとつの根から出ているのである。
根と言っても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうなあ、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、21世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。 (21世紀に生きる君たちへ・14P~17Pより抜粋)
とまあ、1987年頃、司馬遼が小学生に向けて書いた文章のようです。
私が注目したいのはその中の太文字、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。という箇所です。
言い換えれば、うまれつき優しい人、生まれつき他人の痛みを感じることのできる人、生まれつきいたわりを持っている人などいないらしい。なにせ本能ではないのだから、ということ。
私はこの司馬遼の言葉に、ほくそ笑んだなんてもんじゃなかった。周りに人がいなかったらきっと飛び上がって、万歳三唱をしていたに違いない。
それくらい、日頃から私が痛切に感じていたことを、大大大歴史作家の司馬遼太郎先生が、書いてくれていたのである。
みなさん、訓練で優しさや他人の痛みを感じる心が身につくんですよ。なんてたって私ごときが言うのではなくて、かの司馬遼太郎大先生が、そう明言しているのですから。
簡単に見につくとは私は思わないけれど、それでも本能ではなく訓練しだいで・・・。
嬉しくて嬉しくて、この日の私は眠れなかったと言いたいところ、安心してぐっすり眠ることができました。
Kさん、この資料を持ってきて下さってありがとうございます。
心より感謝いたします。
今度ご参加する皆様も、ぜひこれという物があったら、お気軽にご持参くださいませ。
自分ひとりで読むよりは何倍広がりのあることか、まさに学習の時間となりました。
横手しゃべりばはこれからも、場に皆さんに問いかけて、いつものグループカウンセリングでもいいし、ご自分のやりたいことを提案して、実行できる自由な場でありたいです。
来月は老子を読んでの学習会の予定です。
10月30日(日)午後1時半から、場所は高橋悦子拙宅となります。
こちらもどうなるか、今から楽しみです♬。