カウンセリングルーム 横手(三鷹)しゃべりば

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第47回三鷹しゃべりばによせて

2012年02月12日 09時19分33秒 | 三鷹しゃべりばに参加して
もらい乞食。
友田はこれを決して許さなかった。亡くなられたH先生も、もちろんS先生も。
私がどこでもない、日本カウンセリングセンターに行きたくなったのかが、16年たってようやくわかった。どこよりも、ここが私の性分にあっていたからだと思う。
仮にたとえばワークショップなどで、朝から晩まで丸1日、私が私のことを表現したとして先生に止められることはなかった。(現実にそんなことはありえないのだが。私でなくとも誰かが自己表現をしていると、必ずやそこにいる他の誰かが、自分自身の何かに触れて関わってくることがほとんどで、その関わりから流れが変わっていき、一人の方だけが1日中話すなどということは、まずありえない。)
私は今も、もちろんその当時は今以上に、自己表現をしたくてしたくて仕様がなった。危険がいっぱいなのは頭ではわかっていたけど、心の奥底から突き上がってくる表現せずにはいられない何かに、あがらえはしなかった。
私が自己表現をすると、何に感動するのか未だによくわからないけれど、目をうるうるさせながら、“私”のことを続いて語ってくれる人が必ずや現れることが嬉しかった。
それは私自身のことと、いったいどんな関わりがあるのかよくわからないこともあったけど、とにもかくにも彼らが“私”を語る場面にいられるだけで幸せだった。そういう時の彼らはとてもいきいきしていて、何度も会っているはずなのに私はハッとして、初めて彼に出会ったような感覚が生まれて、もう新鮮でドキドキしていた。
思えば、私はこんな幸せを感じたくて、この三鷹しゃべりばを始めたように思う。続けてきたように思う。
そして、その思いは今も変わってはいない。

もらい乞食。
友田が戒めたもらい乞食(友田が次に掲げるような意味で使っていたかは定かではなくて、今となっては私の解釈です。)、私は私自身が誰よりもそれが嫌いなことに気づいた。今回のしゃべりばで気づいたこと、私が怒りになる場面はここなんだろうなあって、思う。自分は安全な、何も自身のことは語らない場所に置いておき、ただ自分の興味から他人にネホリハホリ質問をする人たち、ここが私の怒りのホコ先になっていたんだろうなって思う。また同じように、自分のことは何ひとつ語らず、少し偉そうに?友田先生はこんなことを話していましたよで、話が終わってしまう人たち、私が聞きたかったのは、友田がそれを言ったことではなくて、友田の話からあなたはどう感じたのだけれど、それを彼に問わなかった分だけ、自分の怒りや哀しみになってしまったような気がする。
ここが私の怒りになるところとわかった今なら、もう少し違う関わりができるかもしれないけれど、いやそれはわからない? 
決して簡単なことではないもの。でもやってみたい!

グループカウンセリングは本当に面白い。いつだって自分の発見の連続だ!自分を発見するためにはいつだって他人が存在している。発見した瞬間、気づきの瞬間は一人であっても、それに至る過程には必ずや他者の存在がある。

 今回、しゃべりばは最後ですと言ってしまったためか、多くの方たちのご出席がありました。多いから楽しい、少ないからつまらないはないのでしょうが、できたら本当にできたら、みんなでがやがや、ワイワイやる方が私は楽しいです。最後まで、たくさん話をさせて頂いてありがとうございます。
まだ何も決めてはおりませんが、今の私は、年内もう1回しゃべりばをやろうかなって思っています。もしやるようでしたら、皆様に連絡をさしあげます。
それではこの辺で。
皆様、長い間ありがとうございました。とてもとっても、幸せな時間を共に過ごすことができたことに心から感謝いたします。

橋悦子
コメント
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