現在勤めている会社で、3週間ほど事務所に一人という状態が続いた。
こちらにお世話になって3年目になるのだが、3週間会社に一人という状態はまったく初めてのこと。
海外での仕事が主の会社で、しかも事務職は私一人なので、これまでも一人でいることは多かったのだが、3週間も続いたことはなかった。
1週間や2週間続いての一人の経験があったので、今回もお昼はなるべく外食をして、
しかも、できたらたまには友人といっしょにという、前もってのお一人様ケアをしていたし、お昼がムリなときは、夜になにかしらの用事を作り、なんとか、まったく一人でいる期間を少なくするように配慮したつもりだった。
それでも、確実に私の中ではあの“存在の無視”の、ざわざわ感が背中からやってくるのを感ぜずにはいられなかった。
人には、人に必要とされて生きていきたいという欲求がある。
ほんのちいさなこと、例えばコピーひとつとったことでさえ、「ありがとう!」と言われたら、そこでささやかな交流があり、自分への信頼になる。(かつては当たり前すぎて、感じたこともなかったけど)
電話ひとつだって同じこと、「〇〇さ~ん、A社の△△さんからお電話ですよ~。」「はい、ありがとう~。」たった、これだけでもいい。
なにも難しいことや、りっぱな仕事などしなくとも、日々のなにげない仕事でのキャッチボールがあれば、自分が意識しなくともちゃんと人と交流しているし、役立ってもいる。
ところが3週間会社に一人ということは、こういうことはおろか、“おはようございます”や“お先に失礼します”さえもないのだ。あるのは乾いたメールでのやりとりが主で、(もちろん、これも大切な私の仕事には違いないのだが)生きている電話の声すら、ほとんど聞こえなかった。
一人暮らしの私にはこれがこたえたと思う。あれほど事前に意識してケアしたところで、何かが確実に乾いていく感じがあった。
それから思い当たるのは、カウンセリングでのこと。
2回目の面接を土曜日に約束された方が、その時間になっても現われなかった。
10分、20分、30分待ち・・・、結局その日はなんの連絡もなかった。もしかしたら、土曜と日曜日を私が間違えたかと思い日曜日も待ってはみたけど、結局、彼は現われなかった。
ドタキャンは誰でもするし、私だってするし、どんな人でも急に都合が悪くなったりして面接時間の変更があったり、また今度連絡しま~すという(ちゃんと)連絡が来て、実際来なくなったりするケースは何度かあった。
けれど、なんの連絡もなく来なくなった人は、ほとんど記憶がなかった。
今にして思えば、私にはこれもかなりこたえたのだと思う。自分に対しての信頼が、この日を境に見事に揺らいでいったのを思い出した。なんとなくだけど。
このあたりの揺らぎを、会社でのことかしら?で書き始めたけれど、確かにそれも影響していたとは思うけど、実際はそれよりも無言のドタキャンが、何よりもこたえていたのだ。
いえいえ同じような時期、複雑にふたつがからみあって、私は、私自身を見事なまでに否定していったんだと思う。
あのときは、それ以外の感情の入る隙間などなかった。
いつのまにか“存在の無視”、この言葉の中に心はひたひたと染まっていったのだ。
会社も、この日現われなかった方も、現実には誰も、私の存在を無視などしてはいない。
私の心が、勝手にそうキャッチしただけだ。
私の中で、私という“存在の無視”を、どうしようもないむなしさを充満していったのだ。
そしたら、急にそこから思いが宙を飛び、なぜか、最近よく起きている世間を騒がせている、通り魔事件の加害者たちの気持ちにまでスリップした。
彼らの誰もがおそらく心に持っていたであろう、自分に対する“存在の無視”への痛み。けっしてけっして、起こした事件を思えば、まったくもって弁明の予知などないのだけれど、急にそこに思いがいってしまった。
さらには“ねこさん”の、いつも語っていた、言葉にならない痛みにも・・・・。
私は、少しは彼の痛みにそえていたのだろうか?
こちらにお世話になって3年目になるのだが、3週間会社に一人という状態はまったく初めてのこと。
海外での仕事が主の会社で、しかも事務職は私一人なので、これまでも一人でいることは多かったのだが、3週間も続いたことはなかった。
1週間や2週間続いての一人の経験があったので、今回もお昼はなるべく外食をして、
しかも、できたらたまには友人といっしょにという、前もってのお一人様ケアをしていたし、お昼がムリなときは、夜になにかしらの用事を作り、なんとか、まったく一人でいる期間を少なくするように配慮したつもりだった。
それでも、確実に私の中ではあの“存在の無視”の、ざわざわ感が背中からやってくるのを感ぜずにはいられなかった。
人には、人に必要とされて生きていきたいという欲求がある。
ほんのちいさなこと、例えばコピーひとつとったことでさえ、「ありがとう!」と言われたら、そこでささやかな交流があり、自分への信頼になる。(かつては当たり前すぎて、感じたこともなかったけど)
電話ひとつだって同じこと、「〇〇さ~ん、A社の△△さんからお電話ですよ~。」「はい、ありがとう~。」たった、これだけでもいい。
なにも難しいことや、りっぱな仕事などしなくとも、日々のなにげない仕事でのキャッチボールがあれば、自分が意識しなくともちゃんと人と交流しているし、役立ってもいる。
ところが3週間会社に一人ということは、こういうことはおろか、“おはようございます”や“お先に失礼します”さえもないのだ。あるのは乾いたメールでのやりとりが主で、(もちろん、これも大切な私の仕事には違いないのだが)生きている電話の声すら、ほとんど聞こえなかった。
一人暮らしの私にはこれがこたえたと思う。あれほど事前に意識してケアしたところで、何かが確実に乾いていく感じがあった。
それから思い当たるのは、カウンセリングでのこと。
2回目の面接を土曜日に約束された方が、その時間になっても現われなかった。
10分、20分、30分待ち・・・、結局その日はなんの連絡もなかった。もしかしたら、土曜と日曜日を私が間違えたかと思い日曜日も待ってはみたけど、結局、彼は現われなかった。
ドタキャンは誰でもするし、私だってするし、どんな人でも急に都合が悪くなったりして面接時間の変更があったり、また今度連絡しま~すという(ちゃんと)連絡が来て、実際来なくなったりするケースは何度かあった。
けれど、なんの連絡もなく来なくなった人は、ほとんど記憶がなかった。
今にして思えば、私にはこれもかなりこたえたのだと思う。自分に対しての信頼が、この日を境に見事に揺らいでいったのを思い出した。なんとなくだけど。
このあたりの揺らぎを、会社でのことかしら?で書き始めたけれど、確かにそれも影響していたとは思うけど、実際はそれよりも無言のドタキャンが、何よりもこたえていたのだ。
いえいえ同じような時期、複雑にふたつがからみあって、私は、私自身を見事なまでに否定していったんだと思う。
あのときは、それ以外の感情の入る隙間などなかった。
いつのまにか“存在の無視”、この言葉の中に心はひたひたと染まっていったのだ。
会社も、この日現われなかった方も、現実には誰も、私の存在を無視などしてはいない。
私の心が、勝手にそうキャッチしただけだ。
私の中で、私という“存在の無視”を、どうしようもないむなしさを充満していったのだ。
そしたら、急にそこから思いが宙を飛び、なぜか、最近よく起きている世間を騒がせている、通り魔事件の加害者たちの気持ちにまでスリップした。
彼らの誰もがおそらく心に持っていたであろう、自分に対する“存在の無視”への痛み。けっしてけっして、起こした事件を思えば、まったくもって弁明の予知などないのだけれど、急にそこに思いがいってしまった。
さらには“ねこさん”の、いつも語っていた、言葉にならない痛みにも・・・・。
私は、少しは彼の痛みにそえていたのだろうか?