カウンセリングルーム 横手(三鷹)しゃべりば

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“存在の無視”

2008年07月27日 12時02分46秒 | ひとりごと
現在勤めている会社で、3週間ほど事務所に一人という状態が続いた。
こちらにお世話になって3年目になるのだが、3週間会社に一人という状態はまったく初めてのこと。
海外での仕事が主の会社で、しかも事務職は私一人なので、これまでも一人でいることは多かったのだが、3週間も続いたことはなかった。
1週間や2週間続いての一人の経験があったので、今回もお昼はなるべく外食をして、
しかも、できたらたまには友人といっしょにという、前もってのお一人様ケアをしていたし、お昼がムリなときは、夜になにかしらの用事を作り、なんとか、まったく一人でいる期間を少なくするように配慮したつもりだった。
それでも、確実に私の中ではあの“存在の無視”の、ざわざわ感が背中からやってくるのを感ぜずにはいられなかった。

人には、人に必要とされて生きていきたいという欲求がある。
ほんのちいさなこと、例えばコピーひとつとったことでさえ、「ありがとう!」と言われたら、そこでささやかな交流があり、自分への信頼になる。(かつては当たり前すぎて、感じたこともなかったけど)
電話ひとつだって同じこと、「〇〇さ~ん、A社の△△さんからお電話ですよ~。」「はい、ありがとう~。」たった、これだけでもいい。
なにも難しいことや、りっぱな仕事などしなくとも、日々のなにげない仕事でのキャッチボールがあれば、自分が意識しなくともちゃんと人と交流しているし、役立ってもいる。
ところが3週間会社に一人ということは、こういうことはおろか、“おはようございます”や“お先に失礼します”さえもないのだ。あるのは乾いたメールでのやりとりが主で、(もちろん、これも大切な私の仕事には違いないのだが)生きている電話の声すら、ほとんど聞こえなかった。
一人暮らしの私にはこれがこたえたと思う。あれほど事前に意識してケアしたところで、何かが確実に乾いていく感じがあった。

それから思い当たるのは、カウンセリングでのこと。
2回目の面接を土曜日に約束された方が、その時間になっても現われなかった。
10分、20分、30分待ち・・・、結局その日はなんの連絡もなかった。もしかしたら、土曜と日曜日を私が間違えたかと思い日曜日も待ってはみたけど、結局、彼は現われなかった。
ドタキャンは誰でもするし、私だってするし、どんな人でも急に都合が悪くなったりして面接時間の変更があったり、また今度連絡しま~すという(ちゃんと)連絡が来て、実際来なくなったりするケースは何度かあった。
けれど、なんの連絡もなく来なくなった人は、ほとんど記憶がなかった。
今にして思えば、私にはこれもかなりこたえたのだと思う。自分に対しての信頼が、この日を境に見事に揺らいでいったのを思い出した。なんとなくだけど。

このあたりの揺らぎを、会社でのことかしら?で書き始めたけれど、確かにそれも影響していたとは思うけど、実際はそれよりも無言のドタキャンが、何よりもこたえていたのだ。
いえいえ同じような時期、複雑にふたつがからみあって、私は、私自身を見事なまでに否定していったんだと思う。
あのときは、それ以外の感情の入る隙間などなかった。
いつのまにか“存在の無視”、この言葉の中に心はひたひたと染まっていったのだ。
会社も、この日現われなかった方も、現実には誰も、私の存在を無視などしてはいない。
私の心が、勝手にそうキャッチしただけだ。
私の中で、私という“存在の無視”を、どうしようもないむなしさを充満していったのだ。

そしたら、急にそこから思いが宙を飛び、なぜか、最近よく起きている世間を騒がせている、通り魔事件の加害者たちの気持ちにまでスリップした。
彼らの誰もがおそらく心に持っていたであろう、自分に対する“存在の無視”への痛み。けっしてけっして、起こした事件を思えば、まったくもって弁明の予知などないのだけれど、急にそこに思いがいってしまった。
さらには“ねこさん”の、いつも語っていた、言葉にならない痛みにも・・・・。
私は、少しは彼の痛みにそえていたのだろうか?


よわいわたし

2008年07月23日 15時37分49秒 | ひとりごと
この世で一番弱い自分。誰よりももろい私。
夜中に、プツっと糸の切れる音がした。
どうしようもなくて、誰かに助けを求めたとき、
手を差し伸べてくれる人がいた。

こんなはずじゃなかった。
こんな自分を見たくはなかった。
こんな私を見せたくはなかった。

誰よりも誰よりも他人(ひと)を求めていたのは
あなたなんかじゃない。
このみじめで弱い私だったのだと、彼女のやさしさに
触れたときに感じた。

いったい、何を求めてあそこまで強がっていたのだろうか。

『第2回老子を読む会』ご案内

2008年07月18日 16時41分34秒 | 各種ワークショップのご案内
「第2回老子を読む会」のご案内
老子を読む会事務局

山の緑が一段と濃くなり、真夏が近いのを感じる今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
老子を読む会も、おかげさまで2回目を迎えることとなりました。これもひとえに、立ち上げから今日まで会に関わり続けて下さった皆様のおかげと、心より感謝しております。 
そして今回も前回と同様、友田不二男氏の名著『老子読本』を読みながら、皆様と共に深めていきたいと思っております。どうか、たくさんの方々のご参加を頂けますように。


会  期 平成20年9月13日(土)14:00 ~ 9月14日(日)15:00
会  場 パシフィックホテル白石・ラウンジ (JR東北本線白石駅から歩いて1分のところです)
住  所 宮城県白石市堂場前45-7 TEL:0224-25-3000
会  費 15,000円 宿泊代、食事代(13日の夕食、14日の朝食、昼食)含む
    (宿泊場所は会場と同じパシフィックホテル白石です)
定  員  20名(先着順)
世 話 人 工藤 和仁氏
テキスト (財)日本カウンセリングセンター発行「カウンセリング研究vol.5&6」内、友田不二男著「老子読本」
申込締切  平成20年9月7日(日)
キャンセル料 申し込み受付から2日前まで:1,000円  前日・当日:2,000円
事 務 局
橋 悦子 TEL: 0422-43-1596 メールetutan.ta0215@docomo.ne.jp
川村 朗子 TEL: 0224-26-1707 メールsukato-del-tempo@ezweb.ne.jp

※申込方法   会への参加希望者は、事務局まで、電話かメールでお知らせください。
「老子読本」をお持ちの方は、ご持参ください。お持ちでない方はこちらで準備いたしますので、参加連絡の際、申し出下さい。


★時間割り
13日
1セッション 午後2時~5時
夕    食  午後5時半~午後7時
2セッション 午後7時~9時
放 課 後   どうぞご自由に!
14日
朝     食 午前7時半~
3セッション 午前9時~12時
昼     食 午後12時~1時
4セッション 午後1時~3時


★ 第1回目に参加された方から、貴重な感想を頂きました。ここに、本人の了解を得まして掲載致します。皆様にご一読頂けたら、幸いです。

「自分のまわりの出来事がすんなり入るときがある。全てに受容されている感じがする。そんな感覚は、あまり多くはないが、結果的にあゝこのために今があったんだと思える瞬間に出会える。人と人の繋がりは複雑に絡み合っていそうで、単純に感じるままが一番いい結果を生むのかもしれない。一瞬一瞬の出会いが自分にとって大切なもので、それに気付けた自分や相手に出会えると、涙が出そうになる。 
最近ある人の出会いの中に、自分の気持ちが表現されたと思ったことばを見つけたときもそんな感じがした。教えてもらった詩集を探して久々に読書をしたが、昔子どものころ感じていた事、負い目に思って忘れようとしていた空想を、いい感性だったなあと懐かしく愛おしく思えた。夏休みの早朝、感じていた空気の匂いさえ思い出した。自分を嫌いになるような出来事ばかりと嘆いていたが、案外単純なことで自分を肯定できるんだなと嬉しくなった。 
先日“老子を読む会”に参加して、最初は難しく自分が居るのは場違いな感じがしたが、時間がたつにつれ何かが私の中に生まれてきた。話の進み具合とは異なったかもしれないが、言葉と言葉のなかに反応する自分がいた。いつのまにか自然体だったのかもしれない。いろいろ私は変わっても、そのつど私を肯定してゆける気がした。妙な感じかもしれないが、どんなに私は形を変えても私は普遍的に存在するんだなとそれだけでいいんだと思った。ただ伝えたくて、参加している方々に話せるタイミングが巡ってくれたことを感謝したい。
帰り道わたしはいつになく軽やかだった。空気さえ澄んだいい匂いがした。本当に心の出会いは、言葉や形でなくても伝える方法があることを教えてもらった感じがする・・・・・」


★インフォメーション
最後になりましたが、会場ご当地は、白石うーめんで有名なところです。
白石う~めんを召し上がりたい方は、13日(土)の12時前後着でいらしてください。
とびっきり、おいしいところまでご案内いたします。
ご希望の方は、申し込み時に事務局までお知らせ下さいね。

二人は出ていった。

2008年07月09日 11時00分08秒 | ひとりごと
時々中断しながらも、1年以上に渡って個人カウンセリングを続けていたA子さんの面接が、日曜日で終了した。それまでも何度か、おそらくはこの1年の間に少なくとも3度以上は“終了”した方なのだが、この日の彼女は初めから今までと違っていた。にぶいことで有名な?私にも、それはなんとなく感じとれた。4日前の面接の時まではあった、あの先へ先へ、少しでも先へという、こちらが巻き込まれそうになるくらい強いエネルギーが、消えていた。
そして、死んでも守らなければいけなかったであろう彼女の大切なものを、みごとに手放していた。

そんな彼女が出ていった日の夕方、今度は我が家に1年と7ケ月は住みついた?通称“ねこさん”が、大きな荷物を3つ抱えてやってきた。
今、実家を出てきたので、これからはおばあちゃんの家に行って一緒に暮らすんですと言って、話し始めた。話していく中で、もうそこからは遠くて?通えないからバイトもやめてきたし、収入もなくなるので、ここのカウンセリングにも通えないと言いだした。
彼にとってカウンセリングに通えないということが、先週までの彼にならどれほどのことを意味するのか・・・1週間に1回のわずかな面接時間、それを軸にしてそれを楽しみにしながら、なんとか毎日を生きているのだと、いつも私に言っていた。それは今だって変わらないように、私には見えた。
生まれて初めて、お父さんと真っ向からぶつかって、家にはいられなくなったという。
おばあちゃんの家に落ち着いたら電話するとは思うけど、本当はまだカウンセリングにも通いたいのに・・・・って、いつも我が家を後にするときの、あの名残惜しそうな目で私を見ながら、それでもエイ!ヤー!で、我が家を出ていった

その夜の私は二人の子供たち、長女と長男に、同時に出ていかれた母親の気分だったと思う。いえいえ、そんなもっともらしい言葉ではけっして言えない、似ているようでいて、おそらく母親の気分とはまったく違う感情なのだろうというのが、今、実際、言葉にしてみたらわかる。
ところで話しは脱線するのだが、だいぶ前のこと、あるワークの場面で「私はお母さんをやっていたんだぁ!」と思わず叫んだことがある。むしろこれなんかは、叫んだ言葉によって瞬間に、自分の姿、今の気持ちに気付いたもの。ドンピシャだった。自分の思いを言葉にする作業など、必要としない瞬間だった。
遅かれ早かれ、言葉に出すと、どうも実際の自分の気持ちに気付くらしい。違うなら違うなりに。

ゆれ動く気持ちはいつだって、そんなに簡単には表現できない。特にあの日のような私の気持ちを、なんとか言葉にしようとすればするほど、そこからはずれていくのを感じてしまう。
何年もカウンセリングに取り組んできたところで、やっぱしなぁが本音。生々しく、微妙にゆれ動いていた気持ちに、哀しいかな、言葉は決して追いつきはしないのだ。
あれほど望んでいた二人の成長だったし、自立だったけど、いきなりその日がやって来たことに、(そう呼ぶには、多少の抵抗を感じながらも)それもまったく同じ日にやって来たことに、気持ちがついていかず、黙って座っていられなかった。他人には普段から、とりつくろうことなく、ありのままで、あたふたのままでなどと言いながら、回りに誰もいなかったのに、いったい私は何をとりつくろっていたのだろうか?
どうにも取り扱い不能な感情を、久しぶりに、しかも強烈に感じていたのに、よかったね!などと、二人には言葉にしていたはず。まっ、それだって、確かにあった感情には違いないのだが。

ほとんど想像したことはなかったけれど、それでも私の頭の中の想像は、二人が出ていく、どれにもあてはまりはしなかった。こんなはずではなかった。こんなにも突然やってくるなんて、まったく思いもよらなかった。
カウンセリングにかかわって10数年、初めて味わった表現のできない感情。
二人は私の想像の遥か先を越えて、出ていった。そのあと、かなり遅くなった夕食を作り始めたら、ほんの少し心が落ち着いてきたので、たいして美味しくもないゴーヤチャンプルを、無理やりお腹の中に入れて、長い私の一日が終わった。

人はいつだって、私の想いを超えてゆく、素晴らしき存在なのだ。時間が少したった今ならこう思える。

(A子さん、ねこさんの了解を頂きまして、掲載しました。)