しゃべりば前日には、イチローの引退劇があった。
そしてしゃべりが終った夜には、羽生選手の世界選手権・復帰戦があった。
その合間に開催された「しゃべりば」のひとコマ。
仙台から参加されたF子さんの一言が、私には色濃く残っている。
それは「うちの母が近頃、今が一番幸せだと言うようになった。」という私の言葉に対して、放ったことだった。
「どういう時に、お母さんは幸せだ!って、言うの?」と尋ねてきて、それに応えた私、
「だいたいが、美味しい夕飯を食べているときかな。」と。
さらに「特別、私は美味しいとかは思わないんだけど、彼女なら作ることのないマーボー豆腐とか、グラタンとか、イカ墨パスタだとか・・・、そういう物を(私が作って)食べているときに決まって、幸せだ!と言うようになったと思う。」と。
すると彼女はよくわからないんだけど、「お母さんはきっと、最初はおもわず幸せだ!って言葉を出したと思うけど、その後はもう、お決まりのように幸せだ!と言うようになったんじゃないのかな。それでますます、幸せが連鎖したというか・・・」
それを聞いていて、その時は気づかなかったけれど、私自身も夜布団に入るたびごとに、今日も幸せな1日だったあと言いながら、寝ていることに気づいた。
私にもきっと、幸せ連鎖が起きている。
何か特別なことはまったく起きはしないけれど、幸せだなあ!の毎日。
自分がこうと決めたことを、即座に行動に移せる日々、その良し悪しは別として、自分の責任と自由の元に動ける毎日。
気づくと、母もそういう人になっていた。
父が亡くなって指図する人がいなくなり、呆然とした日々を送っていた15年前とは打って変わり、母は自らの決断のもと、パッチワークをして、習い事にも行き、飲み屋に歌いに行くようになっていた。
好きなものを食べ、おばあさんだからと言いながらも、決して気に入った洋服しか着ることがない。
140cm、55kgのコロコロ体形をいかにスマートに見せられるか、そこが一番の彼女の洋服選びらしい。
そこまで太っているんだから、どう痩せてみせるかよりは、あまり食べない方が、まずは得策じゃないの!と私が言ったところで、その楽しみはゆずれないらしく、昨日もこっちの服の方が痩せてみえると、彼女の主張を譲らない。
年を取って、頑固になったといえばそれもあるかも知れないけれど、父が生きている頃の一見、他人に対して従順というか、依存的な彼女はもういない。
自分で決断して、できるだけ人様の力を借りずに行動することの自由と誇りのようなものを勝ち取ったように、娘には見える。
F子さんの言うように、この自由と誇りも連鎖するようで何かあると、「まず自分でやる」と言葉にする。そしてやってみてできない時だけ、私の力を借りるようである。
85歳の母、この年にして勝ち取った自由と誇り。そりゃ幸せでしょうよ、と私も思う。
話をイチローと羽生君に戻すと、二人は紛れもなく、自由と誇りの権化のような選手だと思わずにはいられない。二人のすべての行動は誰に委ねることなく、常に自分の責任の元で自由に舞っていた。
そしてしゃべりが終った夜には、羽生選手の世界選手権・復帰戦があった。
その合間に開催された「しゃべりば」のひとコマ。
仙台から参加されたF子さんの一言が、私には色濃く残っている。
それは「うちの母が近頃、今が一番幸せだと言うようになった。」という私の言葉に対して、放ったことだった。
「どういう時に、お母さんは幸せだ!って、言うの?」と尋ねてきて、それに応えた私、
「だいたいが、美味しい夕飯を食べているときかな。」と。
さらに「特別、私は美味しいとかは思わないんだけど、彼女なら作ることのないマーボー豆腐とか、グラタンとか、イカ墨パスタだとか・・・、そういう物を(私が作って)食べているときに決まって、幸せだ!と言うようになったと思う。」と。
すると彼女はよくわからないんだけど、「お母さんはきっと、最初はおもわず幸せだ!って言葉を出したと思うけど、その後はもう、お決まりのように幸せだ!と言うようになったんじゃないのかな。それでますます、幸せが連鎖したというか・・・」
それを聞いていて、その時は気づかなかったけれど、私自身も夜布団に入るたびごとに、今日も幸せな1日だったあと言いながら、寝ていることに気づいた。
私にもきっと、幸せ連鎖が起きている。
何か特別なことはまったく起きはしないけれど、幸せだなあ!の毎日。
自分がこうと決めたことを、即座に行動に移せる日々、その良し悪しは別として、自分の責任と自由の元に動ける毎日。
気づくと、母もそういう人になっていた。
父が亡くなって指図する人がいなくなり、呆然とした日々を送っていた15年前とは打って変わり、母は自らの決断のもと、パッチワークをして、習い事にも行き、飲み屋に歌いに行くようになっていた。
好きなものを食べ、おばあさんだからと言いながらも、決して気に入った洋服しか着ることがない。
140cm、55kgのコロコロ体形をいかにスマートに見せられるか、そこが一番の彼女の洋服選びらしい。
そこまで太っているんだから、どう痩せてみせるかよりは、あまり食べない方が、まずは得策じゃないの!と私が言ったところで、その楽しみはゆずれないらしく、昨日もこっちの服の方が痩せてみえると、彼女の主張を譲らない。
年を取って、頑固になったといえばそれもあるかも知れないけれど、父が生きている頃の一見、他人に対して従順というか、依存的な彼女はもういない。
自分で決断して、できるだけ人様の力を借りずに行動することの自由と誇りのようなものを勝ち取ったように、娘には見える。
F子さんの言うように、この自由と誇りも連鎖するようで何かあると、「まず自分でやる」と言葉にする。そしてやってみてできない時だけ、私の力を借りるようである。
85歳の母、この年にして勝ち取った自由と誇り。そりゃ幸せでしょうよ、と私も思う。
話をイチローと羽生君に戻すと、二人は紛れもなく、自由と誇りの権化のような選手だと思わずにはいられない。二人のすべての行動は誰に委ねることなく、常に自分の責任の元で自由に舞っていた。