10月は、飯田蛇笏の忌日月である。
ぼくの敬愛して止まない、故郷の俳人である。
格調高く、それでいて自然を巧みに詠み込む俳人である。
写生も突き詰めてゆけば、かくほどに格式を高く詠み上げられるのかと感動したものである。
写生即ち簡明・簡素であるけれど、蛇笏はそこに留まらない。
一歩前に出る。
格調、と云う世界である。
山盧は、甲府のわが実家から自転車で往ける距離である。
思えば、我が家には蛇笏の色紙があった。
父が、文学を通じて交流があったのかもしれない。
山盧の周辺には、文人墨客が何人か棲んでいたと記憶する。
蛇笏はその嚆矢、であった。
飯田蛇笏の忌日と時を同じくして、遠藤周作もまた忌日月である。
「山盧忌の折り目正しき懐紙かな」
飯田蛇笏の実家、それが山盧である。
飯田蛇笏の全句集をいま読み解いている。
ある夜など、読んでいて眠れないほどの感銘を受けた。
新鮮な感動である。
感動を忘れて久しいけれど、改めて俳句の力を思い知った。
「沈黙忌だがずんずんと進みくる」
昨日の空には、鰯雲が遊弋した。
遠藤周作の御霊が、主なるイエス・キリストとともに降臨したかのようでもあった。
沈黙忌が、遠藤周作の忌日の名称である。
ぼくは、繰り返し読んでいる「沈黙」が好きだ。
遠藤周作の若い頃の作品には、見るべきものも多いけれど・・・。
やはり「沈黙」だ。
狐狸庵先生などと、洒落ていたけれど・・・。
やはり、敬虔なる精神の保有者であった。
ぼくは、ほぼ毎年一回ずつ読み返している。
そして「輪廻転生」という概念に畏怖している。
否、限りない憧憬を捧げるのである。
今日は偉大な文学の先達について、触れた。
忌日を詠むなど、まだ百年早い!
と、叱られそうである。
荒 野人
ぼくの敬愛して止まない、故郷の俳人である。
格調高く、それでいて自然を巧みに詠み込む俳人である。
写生も突き詰めてゆけば、かくほどに格式を高く詠み上げられるのかと感動したものである。
写生即ち簡明・簡素であるけれど、蛇笏はそこに留まらない。
一歩前に出る。
格調、と云う世界である。
山盧は、甲府のわが実家から自転車で往ける距離である。
思えば、我が家には蛇笏の色紙があった。
父が、文学を通じて交流があったのかもしれない。
山盧の周辺には、文人墨客が何人か棲んでいたと記憶する。
蛇笏はその嚆矢、であった。
飯田蛇笏の忌日と時を同じくして、遠藤周作もまた忌日月である。
「山盧忌の折り目正しき懐紙かな」
飯田蛇笏の実家、それが山盧である。
飯田蛇笏の全句集をいま読み解いている。
ある夜など、読んでいて眠れないほどの感銘を受けた。
新鮮な感動である。
感動を忘れて久しいけれど、改めて俳句の力を思い知った。
「沈黙忌だがずんずんと進みくる」
昨日の空には、鰯雲が遊弋した。
遠藤周作の御霊が、主なるイエス・キリストとともに降臨したかのようでもあった。
沈黙忌が、遠藤周作の忌日の名称である。
ぼくは、繰り返し読んでいる「沈黙」が好きだ。
遠藤周作の若い頃の作品には、見るべきものも多いけれど・・・。
やはり「沈黙」だ。
狐狸庵先生などと、洒落ていたけれど・・・。
やはり、敬虔なる精神の保有者であった。
ぼくは、ほぼ毎年一回ずつ読み返している。
そして「輪廻転生」という概念に畏怖している。
否、限りない憧憬を捧げるのである。
今日は偉大な文学の先達について、触れた。
忌日を詠むなど、まだ百年早い!
と、叱られそうである。
荒 野人