エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

東京のストーン・サークル・・・町田市「田端環状積石遺構」

2011年02月11日 | 遺跡
田端環状積石遺構は、東京都町田市「小山白山公園」の横にあって、縄文時代後期から晩期にかけて作られた遺構とされている。
大小約900個の石を東西に集積した9メートル南北に7メートルの楕円形のストーンサークルである。



ここは田端遺跡の中でも、墓地とされる場所の一画である。



小山白山公園は、京王相模原線多摩境駅の隣に位置するのである。
この遺跡は駅から歩いて5分、公園を突っ切って行けば、爽やかな気分で辿り着くのである。
駅は公園の真上に位置する。



遺跡は民家と農地の挟間に在って、実に目立たないのである。
看板は道路に面しているので、通り過ぎてしまう。
加えて、遺跡は数段上にあるので目視(もくし)確認は出来ない。

だがしかし、町田市の生涯学習係は丁寧に場所を教えてくれた。
でも、遺跡は泣いているのであった。

この配石遺構の手前は、それなりに広い芝生広場になっている。
ベンチも4基据えられている。
高台であって、陽だまりになっていて風が無ければ暖かい。



小鳥たちも戯れているのであった。
この日は暖かく、梅の赤が鮮やかに瞳孔に飛び込んできた。



この遺跡の石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向を向いている。



ここから見るとちょうど冬至の日に太陽が蛭ヶ岳山頂に沈むというので、ストーンサークルと、冬至夏至春分秋分の関係を説いた、縄文ランドスケープ論のモデルケースの一つにもされているのである。



こうした配石遺構は、間違いなく男女の交わりをシンボルしている。
立った石を取り囲むなだらかな配石は、縄文人の美学を表していると言って間違いない。



女性は崇高であって、しかし社会を支えているのである。







この三枚の写真からそうした意思が伺われるのである。





この部分は墓地跡かもしれない。
きっと風化してしまったけれど、舟形石などもあったに違いないし石棺なども配置されていたに違いないのである。



ここは、通称「田端環状積石遺構」と言われているのである。



人が転がってみると、大分窮屈である。
しかし・・・縄文時代の谺が横溢する遺跡跡である。

残念ながら、オリジナルは埋め戻されてしまっているけれど、地上に復元された配石は忠実であって縄文の息吹を十分に伝えている。
レプリカとは思えないほど、古色に溢れている。

4.500~2.800年前の縄文中期から晩期の遺跡である。



民家との境目に水仙が花開いていた。
嬉しい色彩と香りであった。







にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へにほんブログ村
                     荒野人