「平和な暮らしを壊す者は殿さんであろうと仏敵じゃ!」
野火のごとく拡がる三河一向一揆。
家臣たちは、
「あれほど寺にさわるなと言ったのに」
と家康(松本潤)を諫める。
同じ三河の人間と戦うのは気が進まないし、天罰を怖れて寺と戦うのを嫌がっている。
一向宗に心を寄せる夏目広次(甲本雅裕)は一向宗は家康の首を取りたいわけでも領地を切り取りたいわけでもなく、ただ不入の権を守りたいだけ、と必死に訴える。
しかし家康は頑なだ。
先程、家康を諫めた石川数正(松重豊)も
「今、兵を引けば寺に屈したことになる」
結果、戦いは激化。
これに乗じて、反家康の松平昌久(角田晃弘)、吉良義昭(矢島健一)らが挙兵する。
調略も始まった。
本多忠勝(山田裕貴)は拒んだが、夏目広次は寝返った。
反家康勢力の挙兵と次々と離反する家臣たちにうろたえた家康は、
「三河のあるじはこの家康じゃ」
自ら前線に出るが……。
……………………………………………………
これが戦争なんですね。
ちょっとした一手の打ち間違いが戦争を引き起こし、
引けないメンツや自負が停戦という選択肢を奪い、
悪手を打ち続けて戦況はますます悪化し、
他勢力も参戦して拡大する。
戦争の原因もさまざまだ。
今回は「入会権」という既得権の問題。
若き20歳の家康は深く考えずにこの既得権に手をつけてしまったが、
改革者・信長(岡田准一)はこれを壊そうとして一向宗と全面戦争になる。
これに信仰の問題も関わってくるかもしれない。
こんな戦争の被害者は誰か?
民だ。
戦争で苦しむのは民ばかり。
今、台湾有事が話題になっているが、やめとけ、やめとけ。
戦争になったら、やめられないぞ。
ウクライナ侵攻でプーチンが戦争をやめられないのは、やめたら実質敗北で、自らの政権基盤が揺らぐから。
民はそんな権力者につき合わされている。
今川義元(野村萬斎)は言った。
「天下のあるじは誰か? 民である!」
「われらは民の稼いだ米と銭で生きておるのじゃ」
「われらは民に生かされておるのじゃ」
「民に見放された時、われらは死ぬのじゃ」
今川義元がこんな考えの持ち主だったかはわからないが、
現在の政治家よ、この義元の言葉を噛みしめろ。
偉そうにするな。
税金ばかり取るな。
ある試算に拠ると、税金や社会保険料などを足すと、国民の負担率は5割だそうじゃないか?
つまり「五公五民」。収入の5割を取られている。
話が逸れたが、家康が変わるとしたら、この義元の言葉であろう。
信仰と家康の間で苦しんで命を落とした土屋長吉(田村健太郎)の姿も家康に響いたに違いない。
そして次回、語るであろう本多正信(松山ケンイチ)の言葉も。
三河一向一揆。
これで家康はたくさんのことを学び、大きく成長するに違いない。
一向宗のことも理解し、既得権の破壊者・信長とは違う道を歩むのだろう。
野火のごとく拡がる三河一向一揆。
家臣たちは、
「あれほど寺にさわるなと言ったのに」
と家康(松本潤)を諫める。
同じ三河の人間と戦うのは気が進まないし、天罰を怖れて寺と戦うのを嫌がっている。
一向宗に心を寄せる夏目広次(甲本雅裕)は一向宗は家康の首を取りたいわけでも領地を切り取りたいわけでもなく、ただ不入の権を守りたいだけ、と必死に訴える。
しかし家康は頑なだ。
先程、家康を諫めた石川数正(松重豊)も
「今、兵を引けば寺に屈したことになる」
結果、戦いは激化。
これに乗じて、反家康の松平昌久(角田晃弘)、吉良義昭(矢島健一)らが挙兵する。
調略も始まった。
本多忠勝(山田裕貴)は拒んだが、夏目広次は寝返った。
反家康勢力の挙兵と次々と離反する家臣たちにうろたえた家康は、
「三河のあるじはこの家康じゃ」
自ら前線に出るが……。
……………………………………………………
これが戦争なんですね。
ちょっとした一手の打ち間違いが戦争を引き起こし、
引けないメンツや自負が停戦という選択肢を奪い、
悪手を打ち続けて戦況はますます悪化し、
他勢力も参戦して拡大する。
戦争の原因もさまざまだ。
今回は「入会権」という既得権の問題。
若き20歳の家康は深く考えずにこの既得権に手をつけてしまったが、
改革者・信長(岡田准一)はこれを壊そうとして一向宗と全面戦争になる。
これに信仰の問題も関わってくるかもしれない。
こんな戦争の被害者は誰か?
民だ。
戦争で苦しむのは民ばかり。
今、台湾有事が話題になっているが、やめとけ、やめとけ。
戦争になったら、やめられないぞ。
ウクライナ侵攻でプーチンが戦争をやめられないのは、やめたら実質敗北で、自らの政権基盤が揺らぐから。
民はそんな権力者につき合わされている。
今川義元(野村萬斎)は言った。
「天下のあるじは誰か? 民である!」
「われらは民の稼いだ米と銭で生きておるのじゃ」
「われらは民に生かされておるのじゃ」
「民に見放された時、われらは死ぬのじゃ」
今川義元がこんな考えの持ち主だったかはわからないが、
現在の政治家よ、この義元の言葉を噛みしめろ。
偉そうにするな。
税金ばかり取るな。
ある試算に拠ると、税金や社会保険料などを足すと、国民の負担率は5割だそうじゃないか?
つまり「五公五民」。収入の5割を取られている。
話が逸れたが、家康が変わるとしたら、この義元の言葉であろう。
信仰と家康の間で苦しんで命を落とした土屋長吉(田村健太郎)の姿も家康に響いたに違いない。
そして次回、語るであろう本多正信(松山ケンイチ)の言葉も。
三河一向一揆。
これで家康はたくさんのことを学び、大きく成長するに違いない。
一向宗のことも理解し、既得権の破壊者・信長とは違う道を歩むのだろう。
それだけ「主人公家康」の立場が共感しづらく描かれていたということだと思います。
前回、敢えてそこまで踏み込んで書かなかったのですが、コウジさんのお立場―現代人としての良識を表現されているものと私も思います―の内在的論理を突き詰めてゆくと、一揆側支持、つまり家康批判に行き着かざるを得ないように感じておりました。
特に、今日の政治的状況を引き合いに出せば出すほどそうなるように思います。
今回も同様です。
>ウクライナ侵攻でプーチンが戦争をやめられないのは、やめたら実質敗北で、自らの政権基盤が揺らぐから。
多くの視聴者は「家康はプーチンと同じだ」と感じたことでしょう。
本作の作者がそのことを意識していたのか、あるいは偶然だったのかは不明(執筆時期とウクライナ戦争の展開との関係が問題)ですが、もしも意識していたとすれば、主人公への共感をぎりぎりまで危うくする大冒険を冒していることになりますね。
家康が視聴者の共感を取り戻すためには、かなりの仕掛けが必要な気がします。
土屋長吉重治は実在の人物のようですね。
今回は長吉のエピソードや「名君化された義元公」の遺訓の思い出などで繋いでいましたが、今後もっと決定的な「仕掛け」があるのでしょうか。
>家康はたくさんのことを学び、大きく成長するに違いない。
どのように成長させるのか、今後の作劇に注目したいと思います。
いつもありがとうございます。
僕は基本、作品をほめる形で書いているので、家康の愚行を「若さ」「未熟さ」と表現しました。
「若くて未熟で臆病者の家康がさまざまなことを学んで、300年の平和を築く徳川家康になる」というのが、この作品の趣旨なんでしょうね。
ただツイッターなどを見ると、「今の家康に共感できない」という声が多いですね。
おっしゃるとおり挽回するには、かなりの仕掛けが必要な気がします。
榊原康政もキャラが崩れましたね。
渡辺守綱もそうですが、ギャグキャラを作り過ぎな気がします。
夏目広次に対する名前の言い間違えも、くどいですし……。
あとは今回、気づいたのですが、勢力地図の丸を基調としたデザイン。
一応、タイトルに合せてお洒落につくったつもりなのでしょうが、ふわふわしているんですよね……。
などと、不満な点をあげればいくつもあるのですが、今後に期待したいです。
作家はどれくらい現代の問題を意識して書いているんでしょうね。
・ウクライナ侵攻。
・宗教の熱狂という点では統一教会。
空誓も一歩間違うとカルト宗教の教祖になってしまう可能性があって、危ういんですよね。
この三河の一向一揆、どう決着をつけるのか、興味があります。
しかし、三河一国の支配者として家康がやっていく為には避けては通れない道なんですよね。
一向宗問題は避けていたら、信長の圧力が来ますから、家康は逃げることは出来ません。
それにしても、一向宗の影響力は凄まじい物がありますよね。
まあ~松平の家臣たちが今川の圧政で生き延びられたのは一向宗の物心両面の支援が大きいでしょうね。
それなのに自分たちの殿さまはありがたい一向宗にケチをつけたら見限る当然です。
もう太守さまは出番が全くないと思ってましたから、意表を突かれましたよ。
天下の主は民は尤もだと思います。
太守さまの言葉を家康はギリギリの所で思い出して、己の間違いにやっと気づいた家康は後悔をしている所で、信仰と忠義の狭間で苦しんだ土屋長吉の決死の行動で家康は助かりました。
しかし、長基の遺言で疑心暗鬼になった家康は余計に動けなくなった逆転劇はあるんですかね?
NHK大河を見なくなったのは「その年の主人公がいい人で正義」だからで、それがつまらなく感じられるようになったからです。
今回の松潤家康は相当迷走していますが、好意的に見られるとすれば「旧来の中世的日本社会に引きずり込まれてもがいている」状態だと思います。
もしこれから松潤家康が「社会の中の自分」に目覚める方向性に行くならば、相当面白くなる可能性もありますが、そうは行かないような気がします。
必要なのは、網野善彦の視点かもしれません。
従来の大河ドラマ的な史観だと、戦国大名という支配者と、被支配者としての農民という二元論からほとんど出ませんが、網野史観では「歴史の表面になかなか現れない、封建領主に支配されない庶民」をかなり意識します。
一向宗の信徒たちを「新興宗教にたぶらかされたかわいそうな農民=被支配者を解放する」といった感じで描くのか、それとも網野的に「被支配者ではない中世的庶民も含まれていて、松潤家康は彼らも取り込んで行きながら成長する」として描くのか、そのあたりにも注目したいですね。
いつもありがとうございます。
>三河一国の支配者として家康がやっていく為には避けては通れない道なんですよね。
これは史実に反してしまうのでできないのですが、家康には「一向宗との共存」という道もあったんですよね。
おそらくドラマは「共存」という方向でまとめていくのでしょう。
>松平の家臣たちが今川の圧政で生き延びられたのは一向宗の物心両面の支援が大きい
なるほど~そういう見方もできますよね。
今川の圧政で食えなかったが、一向宗の寺に行けば腹を満たすことができた。
精神的にも現世のつらさを忘れられた。
民にとって、一向宗はまさに「物心の両面」の救いだったのでしょうね。
>もう太守さまは出番が全くないと思ってましたから、意表を突かれましたよ。
困った時の今川義元になりそうですね。
ドラマでは、こういう物語を展開させる役割が必要なんですよね。
実際の義元はどういう思想の人物だったんでしょうね。
いつもありがとうございます。
>「その年の主人公がいい人で正義」
この点では、昨年の『鎌倉殿の13人』の北条義時は決して正義ではなく悪い人でした。
『清盛』もそうでした。
僕もそちらに惹かれるので、今の『どうする家康』が物足りないのかもしれません。
あと、この点で言うと、今回、家康は服部半蔵に空誓の「暗殺」を命じるんですよね。
これはあまりにも軽すぎる。
「鎌倉殿」の義時は暗殺を繰り返しましたが、暗殺の決断をためらし、暗殺が実行されると悩みました。
いくら追い詰められてテンパっていたとしても、暗殺を命じる時はためらってほしいんですよね。
>網野史観では「歴史の表面になかなか現れない、封建領主に支配されない庶民」をかなり意識します。
これは網野史観とは違うかもしれませんが、隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』や『吉原御免状』を思い出しました。
これらの主人公は封建領主に支配されない「道々の者」で、これが作品のテーマになっていました。
今後のドラマの方向性としては「取り込む方向」で行くんでしょうね。
おそらく本多正信あたりが動くのでしょう。
その際、空誓をどう描き、どう扱うかはポイントですよね。
家康の「良き師」になってくれるといいのですが。
『影武者徳川家康』の主人公「世良田次郎三郎」(「世良田」姓も「次郎三郎」の名も一時家康が名乗っていたものですが)は、特に門徒の信仰を持つわけでもない渡り野武士(傭兵)でしたが、一向一揆軍の居心地が良いので本多正信と共に転戦し、最後は本願寺軍に従軍して織田信長を銃撃(ただし殺すことはできなかった)する、という経歴の人物でした。
隆氏は、そうした「自由を愛する」道道の輩にとって、一向一揆軍は「居心地の良い」つまり親和性の強い場として描いていたわけです。
一揆側が現代のリベラルな個人主義とも親和的な気がしたのはそのためです。
封建領主(世俗的政治支配者)、特に多元的な他の政治勢力を征服して「統一」を目論むような者にとっては、一向宗も道道の輩も「宿敵」に違いありません。
『影武者徳川家康』では、関ヶ原以後家康と入れ替わり征夷大将軍となった影武者次郎三郎が、生涯封建領主と戦い続けてきた自分が封建領主の頂点に立ってしまった皮肉を思う場面があります。
この作品では、まさに関ヶ原以後の家康の人生を生きることになってしまった主人公の矛盾と苦心とが物語の骨子となっていきます。
しかしながら、本作の家康はずっと本物の家康でしょうから、その辺どうなることでしょうか。
教えていただきありがとうございます。
隆慶一郎氏は網野史学の影響を受けていたんですね。
>「自由を愛する」道道の輩にとって、一向一揆軍は「居心地の良い」つまり親和性の強い場
道道の輩は自由を愛する個人主義者。
いいですね。共感します。
『麒麟が来る』では、若干そうした人々が描かれていましたが、『道道の輩』を主人公にした大河ドラマが作られないんですかね。
たとえば一向宗では雑賀孫市。
孫市は鉄砲軍団を率いて信長に対してゲリラ戦をおこなう強者。
『国盗り物語』の孫市はワイルドで自由闊達で魅力的でした。
コミックでしか読んでいないのですが、隆慶一郎先生の描いた前田慶次も歌舞伎者で魅力的。
『道道の輩』からははずれるかもしれませんが、松永久秀も茶釜と共に自爆するとは、なかなかロックな歌舞伎者。
戦国時代では、こうした魅力的な人々が多数登場するのですが、今作ではどれくらい描かれるのでしょうね。
TEPOさま
隆慶一郎はなぜか不思議と読んでいませんが、花の慶次は連載当時とても面白いと思っていました。
確かに花の慶次は、網野的な「封建社会の外にある自由民」的な感じです(あのときはまだ網野を知らなかったのですが)。
あと、網野的な自由民といえば「さすらいの旅芸人」です。
阿国歌舞伎には踊り念仏的な要素も入っているようで、これまでの「どうする家康」の劇中にもありましたが、劇中の一向宗の信徒たちの、雑然としていながらも生き生きとした踊りが、何となく「網野的なもの」に思えたのですが、それはNHKの人たちが狙ったものだったのか、それとも撮影の偶然でたまたまあのようになったのか、知りたいような気がします。
というのも、現在の2020年代の政治の主流を占めていて、またNHKの主流をも占めているであろう「愛国的な人たち」からは、網野史観はあまり評判がよくないらしいんです。
網野史観は、基本的に多様性の社会観です。
なので「社会は支配者と被支配者の二元構造であるべきで、あらゆる庶民は皇帝とか大名とか、そういったエラい人たちにキチンと行儀よくおとなしく支配されるべき」というウヨクさんの儒教的歴史観から見ると、かなりめんどくさいわけですね。
「社会は支配者と被支配者の二元構造であるべき」
日本の歴史や社会はこの図式で語られることが多いですよね。
その代表が「一揆」で、歴史では一揆は必ず失敗で終わります。
日本人の「お上意識」はこういう所から来ているのかもしれませんね。
一方、歴史を詳細に見れば、日本史には支配・被支配から逃れた自由民がいた。
これに焦点を当てたのが、網野史観なんですね。
この自由民を実際の徳川家康はどう思っていたんでしょうね。
「士農工商」のガチガチの身分制度をつくり、移動も自由にできないようにした点では「反自由民」の政策をおこなった人物なのでしょうね。
『吉原御免状』はそうした社会構造の中、「吉原だけは自由民の土地だった」という設定で語れるのですが、隆慶一郎さんは「家康と自由民」をテーマにして小説を書いた方なのかもしれません。
踊りと言えば、幕末では「ええじゃないか」ですよね。
一揆とは違う形の、民衆の意思表示。
これを掘り下げると面白そうですね。
海外に目を向ければ、ヒッピー文化やベトナム反戦運動のウッドストック。
完全な「自由民」ですね。
映画で言えば、『イージーライダー』の主人公たちはバイクで自由にアメリカを旅しますが、最終的には死んでしまいます。
『麻雀放浪記』の博打打ちたちはサラリーマン化されていく70年代の社会に息苦しさを感じています。
よく見れば、歴史ではさまざまな形で「自由民」が登場しているんですね。