印象的だったのは金曜日。
はるこ(南明奈)の要請で、子供たちと川に行く茂(向井理)。
茂が河童の話をふると、子供たちが祖母たちから聞いた妖怪話を語り出す。
時代は<ロボット>が全盛で子供たちの中に<妖怪>はいなくなっていた様ですが、じつはしっかり心の奥底にいたんですね。
普段は忘れられて心の奥底にしまわれているのだが、何かきっかけがあると思い出す。
修学旅行で喜子の級友たちが障子に映る光を見て、「妖怪だ」と怖がるのも同じ。
人間の心には<妖怪>がしっかり刻み込まれている。
それは先祖から引き継がれた記憶? DNAのようなもの?
そして茂は心の奥底にしまわれている<妖怪>を妖怪画集という形で掘り起こそうと決心。
子供たちから<妖怪>が失なわれてはならないとも思っている。
なぜなら「妖怪が住みにくい世界は人間も住みにくい世界」だから。
喜子は修学旅行のしおりの表紙に<京都を背景にした妖怪の絵>を描く。
しかし、それは否定されてスケッチブックに描き直したのは<金閣寺を背景に生徒たちが笑っている絵>。
この二枚の絵、どちらの絵がワクワクするだろうか?
現実を謳歌している人は<生徒たちが笑っている絵>でも十分に楽しいだろう。
しかし現実に違和感を感じている人には<妖怪の絵>の方に魅かれるだろう。
自分が生きている世界とは別の世界があると思えること、金閣寺に妖怪がいると思えること、その方がずっと救われる人間がいる。
もっとわかりやすく言うと、
<ネス湖に恐竜がいると思えればネス湖はロマンの湖になるが、思えなければただの湖になる>
<南国のお面に魂が宿っていると思えれば宝物になるし、思えなければ単なるがらくたになる>ということ。
この場合、どちらが豊かだろう?
やはり<妖怪>や<恐竜>、<精霊>がいない世界は息苦しく色褪せているのである。
現実の世界は、茂の言葉を借りれば「損か得か」「人気投票」の世界でしかないのだから。
現実の息苦しさから脱するには、空想の力をたくましくするしかない。
はるこ(南明奈)の要請で、子供たちと川に行く茂(向井理)。
茂が河童の話をふると、子供たちが祖母たちから聞いた妖怪話を語り出す。
時代は<ロボット>が全盛で子供たちの中に<妖怪>はいなくなっていた様ですが、じつはしっかり心の奥底にいたんですね。
普段は忘れられて心の奥底にしまわれているのだが、何かきっかけがあると思い出す。
修学旅行で喜子の級友たちが障子に映る光を見て、「妖怪だ」と怖がるのも同じ。
人間の心には<妖怪>がしっかり刻み込まれている。
それは先祖から引き継がれた記憶? DNAのようなもの?
そして茂は心の奥底にしまわれている<妖怪>を妖怪画集という形で掘り起こそうと決心。
子供たちから<妖怪>が失なわれてはならないとも思っている。
なぜなら「妖怪が住みにくい世界は人間も住みにくい世界」だから。
喜子は修学旅行のしおりの表紙に<京都を背景にした妖怪の絵>を描く。
しかし、それは否定されてスケッチブックに描き直したのは<金閣寺を背景に生徒たちが笑っている絵>。
この二枚の絵、どちらの絵がワクワクするだろうか?
現実を謳歌している人は<生徒たちが笑っている絵>でも十分に楽しいだろう。
しかし現実に違和感を感じている人には<妖怪の絵>の方に魅かれるだろう。
自分が生きている世界とは別の世界があると思えること、金閣寺に妖怪がいると思えること、その方がずっと救われる人間がいる。
もっとわかりやすく言うと、
<ネス湖に恐竜がいると思えればネス湖はロマンの湖になるが、思えなければただの湖になる>
<南国のお面に魂が宿っていると思えれば宝物になるし、思えなければ単なるがらくたになる>ということ。
この場合、どちらが豊かだろう?
やはり<妖怪>や<恐竜>、<精霊>がいない世界は息苦しく色褪せているのである。
現実の世界は、茂の言葉を借りれば「損か得か」「人気投票」の世界でしかないのだから。
現実の息苦しさから脱するには、空想の力をたくましくするしかない。