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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

SPACE BATTLESHIP ヤマト~可能性を信じること

2011年04月16日 | 邦画
 実写版「SPACE BATTLESHIP ヤマト」。
 どうしてもアニメ版との比較をしていまうのだが、木村拓哉さんと黒木メイサさんの古代進と森雪はあんな感じかな。
 主人公とヒロイン、やはり華がある木村さんと黒木さんは外せない。
 意外とハマっていたのが、真田さんの柳葉敏郎さんと徳川機関長の西田敏行さん。アニメ版と雰囲気がそっくり!
 上手い裏切り方をしていたのが、医者の佐渡先生の高島礼子さんとロボットのアナライザー。
 高島さんが一升瓶で酒を飲む姿はなかなか様になる。
 アナライザーも最初は「おやっ?」と思ったが、クライマックスでの活躍は「おおっ!」

 そして、沖田十三艦長役の山崎努さん。
 ここでは、山崎節が炸裂。
 決して、アニメの沖田に合わせようとしたり、似せようとしたりない。
 特に山崎さんらしいのは、エンディングでも使われていた沖田が照れたように笑うシーン。
 艦長代理となった古代が戦闘前に「この船は沖田艦長の船だ」みたいな恥ずかしい演説をした時、沖田は照れてはにかむ。
 「おいおい、そんな恥ずかしいことを言うなよ」みたいな山崎さんの照れが見え隠れする。
 いいなぁ、こういう演技。
 話は逸れるが、実写版の「あしたのジョー」。
 予告CMしか見ていないので何とも言えないが、香川照之さんが演じた丹下段平はどうだったのだろう?
 眼帯をかけ顔に傷がある、漫画そっくりにしなくてもよかったような気がする。
 変に似せようとするのではなく、素の顔で段平を演じても香川さんの演技力なら十分通用したのではないか。
 
 話を「ヤマト」に戻すと、映像的には、「エイリアン」と「スターシップトルーパーズ」が加わった感じ。
 アニメ版を見ている側としては、もっと艦隊戦を見たかったが、あれはあれでありか?

 物語に関しては(以下、ネタバレ)


 イスカンダルに行けば放射能除去装置(コスモクリーナー)が手に入るというヤマトの旅の目的が、沖田の考えた仮説・推論であったというのが素晴らしい。
 もしかしたら放射能除去装置を手に入れられず、徒労に終わるかもしれないヤマトの旅。
 それでも万が一の可能性に賭けて旅立つ。
 普通、人は確証がなければなかなか重い腰をあげようとしないものだが、沖田はほとんどそれがないのに行動を開始する。困難な旅に挑む。
 夢があるのに「自分なんて無理だ」と思って諦めている時は、ぜひこの何万分の一の可能性に賭ける沖田の姿勢を思い出したい。
 閉塞した状況を突破するのは、可能性を信じて行動することなのだ。
 これは極めて現代的なメッセージだと思う。


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少年メリケンサック~パンクしているか?

2011年04月14日 | 邦画
 レコード会社に勤めるかんな(宮崎あおい)は、動画サイトで発見したパンクバンド「少年メリケンサック」。
 早速スカウトにとりかかるが、動画は25年前のライブを投稿したもので、バンドメンバーは40代、50代のおっさんだった……。

 というのが物語の設定。
 そのおっさんたちを佐藤浩市さん、田口トモロヲさん、木村祐一さんらがやっている。
 そして、彼らはふたたびパンクをやる!
 客の中にダイブして、ギターで殴り合いをし、頭から血を流す! 「このブタ野郎!」と叫ぶ。
 この配役! そしてこのパンクシーン!
 実にワクワクして来る。
 安易な甘ちょろいテレビドラマなど、吹き飛んでしまうような映像!
 しかもメンバーは中年親父なので、腰痛持ちであったり! 切れ痔であったり!
 さらに田口さん演じるヴォーカルのジミーは昔ギターで殴られた後遺症で、半身不随で、しかもロレツがまわらない!!!←そんなバカな!?
 ともかくメチャクチャだ!!

 しかし、このメチャクチャがパンクなんですね。
 そして、この作品自体がパンク!!

 我々は宮崎あおいさんが演じる一般人かんなの視点で彼らを見ていくわけですが、見ているうちに次第に我々もパンクになっていく。
 昔、ヤクザ映画を見た人が映画館を出ると、ヤクザの歩き方になっていたように、我々もこの作品を見ると、「メチャクチャでいいじゃないか」「何を縛られているんだ? もっと自由でいいじゃないか」という気分になってくる。
 作品中、かんなの恋人役で売れないミュージシャンのマコト(勝池涼)が出て来るが、彼の作る歌の何と甘っちょろいこと! 毒にも薬にもならないこと!
 それよりは「惨殺!惨殺!惨殺!惨殺!惨殺!惨殺!」と叫ぶ歌の方が心に届く。
 その方が数倍自由だ。

 この作品を見ると、自分にこう問いかけたくなる。
 「自分はパンクしているか?」「ロックしているか?」

 最後にこれはネタバレになるので書かないが、今までロレツがまわらず正しい発音で歌えなかったジミーが、元に戻ってテレビで歌うシーンがある。
 ロレツがまわらなかった時は「ニューヨークマラソン、ニューヨークマラソン、ニューヨークマラソン」と歌っていたのだが、本当の歌詞は……。
 テレビではオンエア出来ない内容。
 このシーンは最高に笑える。
 どんなことを歌ったかを知りたい方はぜひこの作品を見てみて下さい。


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のだめカンタービレ 最終楽章 後編~歓びのために

2011年02月19日 | 邦画
 「いくらがんばっても扉が開かない」
 こんな時ってありますよね。

 のだめ(上野樹里)は、千秋(玉木宏)とピアノ協奏曲を演奏するため、目の前の音楽と真剣に向き合ってきた。
 なのに、のだめはいつまでたっても練習の日々。コンクールにも出してもらえない。
 一方、千秋は孫Rui(山田優)と共演、どんどん先を歩いている。

 のだめは天才ピアニストという設定ながら、実は我々と同じ悩みを抱えて生きている。
 そこが観ている者に共感を与える。応援したくなる。

 扉がなかなか開かなくて、のだめは音楽を嫌いになり、音楽から逃げようとする。
 これも我々と同じ悩み。
 音楽の所を自分に当てはめてみれば、よくわかる。
 天才ピアニストという衣装をまとっておりながら、この作品は典型的な青春映画であり、サクセスストーリーだ。

 そして、訪れる歓喜の時。
 ベートーヴェンの第九のモチーフは「苦悩から歓喜へ」だが、まさにこの作品もそう。
 のだめは観衆の前で演奏をして、大賞賛される。マスコミが報じ、問い合わせが殺到する。
 しかし、この歓喜の時は意外な形で現れた。
 シュトレーゼマン(竹中直人)との共演だ。
 通常では<千秋との共演で絶賛される>というのが物語の定石。
 この裏切り方が上手い。

 そして、のだめはこのシュトレーゼマンとの演奏で燃え尽きてしまう。
 「あれ以上の演奏は出来ないし、演奏するのが怖い」と思ってしまう。
 のだめとシュトレーゼマンの演奏は、シュトレーゼマンに「こんな演奏が出来て、生きていてよかった」と言わしめるほどのすごい演奏だった。千秋にも「今まで自分がのだめと関わって来たのは、のだめにこの演奏をさせるために神が仕組んだことではないか」みたいなことを言わせてしまう。
 しかし、先にも書いたように、のだめは燃え尽きてしまう。
 作者はのだめにさらなる試練を課したわけだ。
 この試練をのだめがどう乗り越えるかは、ネタバレになるので書かないが、なるほどその手があったかという感じ。

 最後に千秋が語った最後のせりふを書いておきたい。
 以下、ラストのネタバレです。




 「気が遠くなるような孤独なつらい闘い。でも、こんな歓びがあるから何度でも立ち向かえるんだ」
 千秋がのだめとの共演を終えた時のせりふ。
 これは夢を持ってがんばってる人へのメッセージ。
 苦しみは歓びの瞬間のためにある。
 <失敗を怖れて何もしない人>と<失敗してあがき苦しむ人>、自分はどちらを選ぶか。
 後者を選ぶ人は、いくつになっても<青春>で、「のだめ」に感情移入出来る人なのだと思う。


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ゴールデンスランバー ~ジグソーパズルの魅力!

2011年02月17日 | 邦画
 伊坂幸太郎作品の魅力は、ジグソーパズルのようなストーリー展開にある。
 バラバラな登場人物、出来事が関連づけられ、やがてひとつの絵が浮かび上がってくる愉しさ。

 この作品で言えば、人物では<通り魔><アイドル><大学時代の元カノ><バイトをしていた花火職人><病院の元裏の世界の人間><運送会社の先輩社員><父親>……。
 出来事や物では<エレベーターのボタンを親指で押すこと><花火を見てキスをしたこと><大変よく出来ましたのスタンプ><動かない自動車><主人公の着ているハーレーのジャケット>……。
 未見の方には、何のことだかわからないだろうが、これらがすべてストーリーに密接に絡んでいることが、伊坂作品の魅力。

 さて、このことがテーマとして表現していることは何だろう?
 僕が考えるに
 『人は周囲の人間、過去の出来事、自分のまわりにある物などが、様々に絡まり合って生きている』ということ。
 『人はひとりで生きているのではなく、周囲の人、過去に関わった人、あるいは直接関係ない人の目に見えない縁で生きている』ということ。
 『現在の自分は周囲の人間や過去の出来事や物で形作られている』ということ。

 我々は、日常を断片として生きているが、実は十年後、二十年後、あるいは死ぬ際になって、その断片が意味を持ってくるのかもしれない。

 そんなことを感じさせてくれる。

 最後にgoo映画の解説に拠れば
 『タイトルの「ゴールデンスランバー」は、ビートルズの「アビーロード」の中の一曲。当時バラバラだったメンバーをつなぎとめようというポールの思いが、本作ではかつての友人達との絆を象徴する存在として使われている』とのこと。

 バラバラな断片が繋がる。
 何とも魅力的なモチーフだ。


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沈まぬ太陽~<果報>という考え方

2011年02月12日 | 邦画
 仏教には<果報>という考え方がある。
 <果>は結果。
 <報>は結果がもたらすもうひとつの結果。

 たとえば、頑張って一流企業に入ったとする。
 これが結果。
 しかし、まわりの人間は優秀な人間ばかりで、たちまち落ちこぼれて窓際族に。
 あるいはノイローゼになったり、不正に手を染めることになったり。
 これが結果がもたらすもうひとつの結果。つまり<報>。

 人はいい結果を出せれば大喜びするが、実は結果にはもうひとつの結果(=報)がついてまわる。
 そのもうひとつの結果は、上に書いた例のように悲惨なものかもしれない。
 だから仏教はこう考える。
 物事は<果>で考えるのではなく、<果報>というセットで考えなければならない。

 さて、「沈まぬ太陽」。
 この作品には様々な<果報>の物語が描写される。

★人件費を削り従業員に過重な労働を強いた国民航空は、効率のいい経営=高い利益という<結果>を得たが、ジャンボ機墜落事故という<もうひとつの結果=報>をもたらしてしまった。

★行天四郎(三浦友和)は組合を裏切り、エリートコースを歩み、常務にまでのぼりつめたが、不正を行い、東京地検に逮捕されてしまった。
 この場合、<果>は出世したことで、<報>は逮捕されたことだ。

★恩地元(渡辺謙)は従業員の労働条件や安全ということにこだわり、経営陣から疎まれ、海外を点々としたが、新会長の国見(石坂浩二)に抜擢され、会長室で会社の改革に取り組むことになった。そして、家族を始め、国見や航空機事故の遺族など、たくさんの絆が出来た。
 この場合、<果>は出世コースから外れたことで、<報>は会長室で改革に携われたこと、たくさんの人との絆が出来たことである。

 恩地と行天、このふたりの<報>を考えた場合、どちらが幸せであろうか? 人生としてどちらが豊かであろうか?
 その答えは作品を見た人の判断に任せるとして、考えたいのは<果報>である。
 つまり……
 いい結果が必ずしも、次にいい結果を生むわけではない。(行天)
 悪い結果であっても、次にはいい結果が生まれるかもしれない。(恩地)
 だから、仮にいい結果が出たとしても、一喜一憂しても仕方がない。

 恩地も行天の生き方を波乗りに例えて、こう感想をもらしていた。
 「波に乗っているやつの方が大変なのかもしれんな。波から落ちないように必死にしがみついていなければならない」

 <果報>という考え方を持つと、人生は結構楽に生きられる。


※今回の<果報>についての考え方は、「こだわりを捨てる」(ひろさちや・著 中公文庫)を参考にしました。

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Shall we ダンス? 自由に熱く!

2011年01月26日 | 邦画
 最近、スポーツジムでのダンスにハマっているため、観る映画は<ダンス映画>が多い。

 この映画「Shall we ダンス?」のでも語られていたが、ステップを踏んで音楽に乗って愉しむこと、つまりダンスって、人間の<原初的快楽>なんですよね。
 やれば絶対に楽しい。
 多くのダンス映画が語っているように、生きているって感じを味わえる。
 頭ばかり使っている現代人の<肉体の復権>。

 この作品の主人公・真面目だけが取り柄のサラリーマン、杉山正平(役所広司)も同じ様な体験を味わった。
 ダンスを始めたきっかけは、ダンス教室の美しい先生・舞(草刈民代)に惹かれたからだが、その動機が次第にダンスの楽しさに変わり、のめりこんでいくことに。
 結果、日常から解放された。
 イキイキとして、杉山の妻などは「あんな主人の顔を見たことがないと」つぶやく。
 もちろん、そんな杉山にも世間の目という日常はついてまわる。
 「いい歳をした中年男がダンス?」「女性の体に触りたいだけだろう」
 こうした世間の目は、人を縛り、不自由にする。
 生きていくことは厄介だ。自由に生きることって大変だ。
 世間の常識に縛られなかった子供の頃は、世界が輝いていたんですけどね。

 その作品で面白い所は、ダンス教師・舞の成長も描かれていること。
 ダンス・コンテストの最高峰ブラックプールで準優勝までいった舞は、ダンス教室で教えることに違和感を持っている。「どうして私が」と思っている。
 しかし、アマチュアダンスコンテストに参加する杉山たちを指導していくうちに、再びダンスへの情熱を取り戻していく。
 それは、おそらく杉山たちの情熱が舞の心に火をつけたからだろう。
 熱い心は伝播して、他人の心も熱くする。
 自分の心が冷えているな、何も感じないな、と思った時は、思いっきり熱いものに触れてみるべき。
 あるいは、舞が杉山たちにダンスを教えたように、他人に何かを与えてみるべき。
 自分が与えたことが他人に伝わり、他人から倍になって返ってくる。
 人はこうやってエネルギーを交換し合って生きていく。

 自由に熱く生きていきたいな、と思うこの頃である。


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CONTROL~犯罪心理捜査~ 安易なドラマづくりはやめよ!

2011年01月12日 | 邦画
 刑事ドラマは数字がとれる。
 主役は旬の松下奈緒。
 設定は「ガリレオ」が受けたから、同じ様なのでいいや。
 みたいな企画意図が見え見えの作品。

 今のテレビドラマは混迷していますなぁ。
 というより、われわれ視聴者の目が肥えたのか?
 もう安易なものにはダマされない。

 推理ドラマとしてはどうだろう?

 通り魔殺人。
 でもあっという間に殺された三人が振り込み詐欺で関係があることがわかっちゃった。
 そして、犯人は簡単に屋根の上で(←なぜ屋根の上?)捕まり、最初と二番目の犯行は自分がやったと証言。
 ならば三番目に殺された男の両親が怪しい、と流れるようなストーリー展開。
 そこには何の葛藤も謎もドラマもない。
 おまけに動機はすごくありきたり。

 唯一の救いは、<後ろから刺したこと>に関する瀬川里央(松下奈緒)と心理学教授の南雲準(藤木直人)のやりとり。

 里央「顔を見られなかった、父親だから」
 南雲「いや、父親なのにだ」

 里央は、父親だから息子の顔を正面から見るのがつらくて、後ろから刺したと考えたが、南雲は最後の最後まで正面から向き合えなかった父親を非難する。
 ここは上手い。
 これがプロの脚本家の仕事だ。
 だが、よかったのはここだけ。

 「踊る大捜査線」は官僚と現場、警視庁と所轄という対立があったから面白かった。警察は会社、警察官はサラリーマンと変わらないという視点も。
 「古畑任三郎」は舞台劇を見るような刑事と犯人との対決があったからすごかった。
 「相棒」は推理ものとしてのクォリティにこだわり続けたからジワジワブレイクした。

 テレビ局の皆さん、安易なドラマづくりはやめて下さい。


※追記
 今期の刑事物で期待なのは、今週土曜日の日テレ「デカワンコ」かな。
 だって設定がブッ飛んでいる!
 やるならこれくらいやって下さい!


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おっぱいバレー~まずは行動!動機なんて何でもいいのだ!

2011年01月09日 | 邦画
 美香子(綾瀬はるか)先生のおっぱいを見たい!

 行動を起こす動機なんて、こういうものなんですね。
 世界平和のため、愛のため、正義のため、そんなことを考えていたらなかなか行動を起こせない。腰が重くなる。
 大事なのは行動する理由をあれこれ考えることではなく、行動すること!!
 自分の心のおもむくままに動いてみること。

 そして行動すれば、いろいろなことが見えてくる。
 この作品で言えば
・一生懸命やることのワクワクする思い。
・負けて悔しい気持ち。
・仲間との絆。

 行動しなければ、これらのことは得られなかった。
 結果、中学時代の素晴らしい思い出になった。
 理由を考えて何もしないことと、おっぱいが見たくて行動すること、どちらが大切かと言えば断然後者なのだ。

 こんなやりとりも面白い。
・一生懸命、練習をやり始めて充実した毎日を送っている男子バレー部員たち。
 おっぱいを見せたくない美香子は彼らを懐柔しようとする。
 「おっぱいがなくても勝ちたくなったんじゃない?」
 すると部員たち。
 「何を言ってるんですか。おっぱいあっての僕たちじゃないですか」

・赴任してきた美香子先生が高村光太郎の詩「道程」を題材にして朝礼であいさつ。
 「わたしは道程が大好きです」
 すると部員たち。
 「童貞が大好き!?」

 美香子と部員たちはこの様な<漫才>を繰り返していく。
 これは教師と生徒のやりとりとしては新鮮。
 また、こういう作品では生徒達の成長が描かれるのがメインだが、この作品では美香子先生の教師としての成長も描かれている。
 これも新鮮。

 さて、この作品の最大のテーマである<部員たちは美香子先生のおっぱいを見られるのか?>
 ネタバレになるので書かないが、実に鮮やかなオチがついている。
 上手い落語のサゲを見ているような感じ。
 このオチを見るだけでも価値がある。

 あとは、ピンクレディやユーミンを始めとする懐かしい70~80年代の音楽。
 綾瀬はるかさんの魅力爆発の微笑ましい青春映画だ。


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踊る大捜査線3 ヤツらを解放せよ!

2011年01月07日 | 邦画
 「踊る大捜査線3 ヤツらを解放せよ!」を観た。
 若干、ネタバレで書いているので未見の方はスルーして下さい。


★さてテーマ。

 「死にたいヤツは死ね。他人を壊したいヤツは壊せ」

 <現代社会の負の心象>をテーマにしている。
 世界の破壊願望だ。
 現実の事件で言えば<酒鬼薔薇星斗事件><オウム真理教事件><秋葉原連続殺傷事件>などに通じるものがある。
 作品で言えば「エヴァンゲリオン」や「20世紀少年」。

 テーマとして狙いはわかるのだが、青島刑事(織田裕二)がこの<負の心象>に十分に立ち向かえていないような気がする。
 実際、事件の真犯人は改心していないし。
 ラストのせりふは「私はまだ他の至る所にいる」ですからね。
 青島の行動と正論は空しく空回りしたのだ。
 青島の正義が<時代の負>に敗北したとも言える。

★今回の決めセリフもイマイチ。
 第1作は「事件は会議室で起きているんじゃない!」
 第2作は「どうしてこんなに血が流れるんだ!」
 いずれも説得力があった。
 青島のせりふに観客は盛り上がった。
 しかし今回は……。
 そうだったのか……という感じ。

 ともかく登場人物が多くて、エピソードもバラバラで全体として消化仕切れていないのだ。
・青島の病気の話なんかはいらないでしょう?
・真下正義(ユースケ・サンタマリア)がラストああなるのも見え見え。
・毒ガスがスカンク? 一体いつのギャグだ?
・テレビシリーズを貫いていた室井さんと青島の関係もどこかに行ってしまった。
・要塞化した新湾岸署の扉が開くオチも肩すかし。
 ドラマとしては、皆が智恵を振り絞って要塞の扉を解除すべきなのにあれですからね。完全に脱力……。
・爆破からの脱出も全くサスペンスがない。
 
 僕の中で「踊る大捜査線」は完全に終わりました。
 青島も歳をとった感じ。
 作品として無惨な姿をさらすのは避けた方がいい。

※追記
 酷評したので若干フォローすると、このゴチャゴチャ感は監督が意図したものだろう。
 様々な登場人物やエピソードを散りばめることで現場の混乱した緊張感を出す。
 この監督の意図がシナリオとしてあまり成功していないからこのような作品になってしまった。
 それと意識したのは、極めて論理的な作品である「相棒」かな?
 おそらく「相棒」とは180度違うことをやりたかったのだろう。


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かもめ食堂~おいしそうな料理と食べる人の笑顔

2010年11月05日 | 邦画
★フィンランドにある小さな日本食食堂「かもめ食堂」。

 ここには様々な人が集まってくる。
 日本かぶれの青年トンミ・ヒルトネン。
 目をつむって世界地図を指さしたらたまたまフィンランドが当たってやってきたミドリ(片桐はいり)。
 空港で荷物を間違えられて探してもらっているマサコ(もたいまさこ)。
 夫が自分から逃げていってしまったことを嘆くフィンランドの婦人。

 彼らはどこか心に空白を抱えている。
 トンミには友達がいないようだ。
 ミドリは自分の居場所を見出せていない。
 マサコは何も持っていない。彼女は紛失した荷物について「そう言えば何か大事なものが入っていたかしら」と思う。
 そして夫に逃げられたフィンランド婦人は「どうして自分が?」と思っている。

 心に空白を抱えた彼ら。
 彼らは「かもめ食堂」に来ることで、その空白を埋める。
 おいしいものを食べて、幸せな気持ちになれる。

★「かもめ食堂」の店主サチエ(小林聡美)はこんな人。

 「人は何かを食べなくては生きていけない。だから食堂をやれば人は集まってくる」
 「おにぎりは自分と父親を結びつけてくれた食べ物。だから食べ物は人と人とを結びつけてくれる」
 「フィンランド人はサーモンが大好きで食べる。日本人も朝の食卓には欠かせないもの。サーモン料理でフィンランド人と絆を作れるのではないか」

 サチエは、フィンランドで一旗あげてやろうという野心いっぱいの人間ではない。
 望んでいるのはあくまで<食べ物を通じて人と人とが繋がり会うこと>だ。

 当初「かもめ食堂」には人が来ない。
 フィンランドの婦人三人組は外から中をのぞくだけ。体の小さなサチエを見て「あれは子供?」と言うくらい。
 しかし、トンミを始め次第に人が集まってくる。
 のぞいていた婦人三人組はコーヒーとシフォンケーキのにおいに釣られてやって来る。
 サチエが作る日本食、トンカツ、カラアゲ、しょうが焼き、おにぎり……これらを食べて顔をほころばせるフィンランドの人たち。
 <食べ物を通じて人と人とが繋がり会う>というサチエの理想はついに実現する。

★この作品、実にのんびり、ゆったりとした映画だ。
 そして
・サチエが作るトンカツやおにぎりなどのおいしそうな料理。
・それを食べる人の幸せそうな笑顔。
 これらを見るだけでも幸せな気分になれる。


※追記
 サチエさんはこんなふうにも考えている。
 「やりたくないことはやらない」
 「物事はずっと同じではいられない。なぜなら人は変わっていくものだから。だから変化を当たり前のこととして受けとめる」
 まさにあるがまま。
 普通、食堂にひとりも客が来なければ、焦ったり宣伝しなくてはと思ってしまうが、サチエはゆったりとしている。
 彼女は自分がおいしいと思うものを作っていれば人は来てくれると信じている。
 またガツガツしておらずゆったりしているから、それを求めている人たちが集まってくる。

※追記
 「自分の名前を漢字で書いてくれ」と頼み、ミドリに『豚身・昼斗念』と書かれてしまう日本かぶれの青年トンミ。
 彼はマサコに「フィンランドの人はどうしてこんなにゆったりしているのかしら?」と問われてこう答える。
 「森があるから」

 いろいろ考えてしまい、ボーッとすることが難しい日本と近くに森があり、ゆったりと過ごせるフィンランド。
 どちらがぜいたくで幸せなのだろうか?


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