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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

ロボジー~必要は発明の母!

2012年09月06日 | 邦画
 『ロボジー』笑いました!
 さすが矢口史靖監督作品!
 特にロボットオタクの大学生・葉子役の吉高由里子さんがいい。
 こういう変な役の女の子をやらせたら、吉高さんが一番。
 というか、福田彩乃さんの物まねのせいで、変な吉高さんのイメージがついてしまっている?

 作品のテーマはふたつ。

★人は誰かに必要だと言ってもらいたい
 ロボジー・鈴木重光(五十嵐信次郎)は仕事をリタイアしてひとり暮らしをしている老人。
 社会との関わりは老人会くらいで、社会的には機能していない。
 僕個人として、せっかく会社を辞めて社会の歯車から抜けたのだから、それを楽しめばいいと思うのだが、人というのはぜいたくなもので、ないものを欲しがり、失われたものを取り戻そうとする。
 鈴木さんの場合は、<人から必要だ>と言われたり、<すごい>と言われたりすること。

 この点、ロボット『ニュー潮風』になったことは鈴木老人にとっては救いだった。
 何しろ小林(濱田岳)らが「あなたが必要だ」と言ってくれるのだから。
 テレビを含めてまわりの人間が、(ロボットの格好であるとはいえ)自分を拍手喝采してくれるのだから。

 一方、もうひとつのテーマは

★ウソから出たマコト
 開発者の小林たちは、『ニュー潮風』の中に鈴木さんが入っていることを隠すために、何とか本物のロボットを作ろうと努力する。
 講演会を装って、葉子らロボットおたくや理学生に意見を聞き、ロボットの知識を吸収していく。
 もし『ニュー潮風』→鈴木さんが中に入っている、という状況に陥らなければ、小林たちはロボットについて学ぼうとしなかっただろう。
 まさに<必要は発明の母>である。
 そして、完全な二足歩行ロボット『ニュー潮風2』が完成する。

 物語のリアリティとしては不十分かもしれないが、何と言っても『ロボジー』はコメディ。
 結局、ウソがバレなくて何とかなったことも結果オーライ。
 少し前なら、ウソがバレて小林たちが反省して、ロボットを真面目に作り出すなんて物語展開になっただろうが、今、それをやると少し古い。
 それに<人間、必死になれば何でも出来る><たとえウソから始まったとしても、行動していけばマコトになる>なんてことを信じたいじゃないですか。


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八日目の蝉~愛を取り戻していく旅

2012年07月20日 | 邦画
 人は、<欠けているもの>を埋めるために生きているのかもしれない。
 野々宮希和子(永作博美)の場合は、愛した男の子供。
 秋山恵津子(森口瑤子)の場合は、奪われた子供と子供と過ごすはずだった時間。
 彼女たちは欠けたものを埋めるために苦しむ。
 希和子は誘拐し、恵津子は他人のような恵理菜(井上真央)を何とか自分の子にしようとする。
 これらはいずれも愛するがゆえの行為である。
 ふたりは<愛する対象>を求めて、あがきながら生きている。

 しかし、希和子たちの<愛の行為>も恵理菜の立場に立ってみると、<エゴ>になる。
 希和子の誘拐もエゴだし、自分の子に戻そうとする恵津子の行為もエゴだ。
 愛するという行為は、他者がエゴを押しつける一面もある。
 恵理菜は<欠けているもの>を埋めようとする希和子たちのエゴの被害者だ。

 だから愛がエゴだと知っている恵理菜は愛を信じることが出来ない。
 誰も愛することが出来ず、むしろ憎んでしまう。

 この作品は、恵理菜が<愛>を取り戻すまでを描いた作品だ。
 旅をして恵理菜は<愛する対象>を見出す。
「もう、この子が好きだ。まだ顔も見ていないのに何でだろう」
「この子にいろいろなものを見せてあげる。大丈夫だと言って、世界で一番好きだって言うよ」
 恵理菜に<欠けているもの>は人を愛する心だった。
 <愛する対象>を見出して、恵理菜の世界は光輝く世界になる。
 愛する喜びを知って、恵理菜は母・恵津子とも希和子とも共感し合えるようになるだろう。
 なぜなら彼女たち三人は、誰かを愛することに喜びを見出す人たちだから。

 最後に希和子が警察に捕まり、恵理菜が保護される時に放ったせりふは感動的だ。
「待って下さい!」
 こう叫んだ後、希和子はさらにこう言う。
「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」
 何というせりふだろう。
 希和子の恵理菜に対する愛情が凝縮された言葉だ。
 これが「もう一度、あの子と話をさせて下さい」「別れを言わせて下さい」といったせりふだったら、すごく陳腐だ。
「元気にしっかり生きるのよ」と叫んでも直接的だ。
 ここは「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」が一番しっくり来る。


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ALWAYS 三丁目の夕日'64~ひとつの時代の終わり。そしてスカイツリーが出来た現在……。

2012年06月26日 | 邦画
 淳之介(須賀健太)は、茶川先生(吉岡秀隆)の所から旅立っていった。
 六子(堀北真希)も、鈴木オートを出て、嫁いでいった。

 淳之介も六子も、茶川先生や鈴木社長(堤真一)の実の子ではない。
 それでも茶川先生たちは、血の繋がっていない<他所の子>を受け入れ、育てた。
 他所の子でありながら、実の子に匹敵するくらいの愛情を注ぎ、深い絆を結んだ。
 社長夫婦は、一人息子の一平(小清水一揮)に指摘されるまで、六子のことを<実の娘>と思い込み、結婚の了承するか否かを迷っていた。青森には六子の本当の両親がいるのに(笑)。

 おそらく東京タワーが出来た時点でのあの時代は、こういう時代だったのだろう。
 テレビだって、近所中が料理や飲み物を持ち寄って、いっしょに力道山を応援していた。
 ところが、この第三作の64年は、少し様子が違う。
 茶川先生の所にもテレビが来て(←白黒ですが)、オリンピックを自分の家でみようとする。
 「いっしょに見て応援した方が楽しい」という妻・ヒロミ(小雪)の説得によって、茶川は鈴木オートでオリンピックの女子バレーを見る。

 少しずつ変わっていく世の中。
 ご近所が次第に遠くなっていく。
 今回六子の恋愛相談に乗り、わざわざ相手のことを病院まで調べにいくような、たばこ屋のおばさん(もたいまさこ)みたいな人もいなくなった。
 そんな変化の象徴が、今作の淳之介と六子の旅立ちだ。

 あの時代が全面的に良かったとは言わない。
 プライバシーがないことや、他人にいろいろ干渉されることがイヤだと考えた人、家族水入らずでオリンピックを楽しみたいと思った人もいただろう。
 しかし、現在のわれわれはこの作品を見て<失われてしまったもの>を痛烈に感じる。
 今は一家に一台ではなく、一部屋に一台テレビがあって、家族すらもバラバラだ。
 都会にいると隣にどんな人が住んでいるかは知らないし、どんなことに悩んでいるかなんてことは、まったくわからない。

 震災があって、東京スカイツリーが出来た現在、われわれはもう一度自分の生活を見直す時期に来ているのかもしれない。


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K-20 怪人二十面相・伝~荒唐無稽で、郷愁があって、浪漫があって

2012年05月16日 | 邦画
 仮面の怪盗、名探偵、サーカス、財閥のお嬢様、泥棒長屋、からくり、電磁波撮影機……
 こういったものにすごく惹かれる。
 これらは、どこかいかがわしくて、荒唐無稽で、非現実で、郷愁があって……、単調で無機質な現実を一瞬忘れさせてくれる。
 江戸川乱歩は、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」と書いたが、現実は何と単調で退屈なことだろう。
 現実には、怪盗も、名探偵も、怪人も、泥棒長屋もない。
 想像で作り上げられた世界こそ、豊かなものなのだ。

 さて、K-20。
 まず、主人公の遠藤平吉(金城武)が泥棒修行をする所がいい。
 平吉は地図に無作為に一本の線を引き、実際に線を引いた場所を走る。
 地図上は平面で簡単に走れるように見えるが、実際はビルや鉄塔が立ちはだかり、車が走る道路があったりして、これらを越えて走って行かなければならない。
 このビルや鉄塔を越えていく訓練が、泥棒の逃走術を養うというわけ。
 実に面白い修行描写だ。
 忍者の修行を思わせる。

 アイテムも登場する。
 泥棒長屋の源治(國村隼)が作ったアイテムで、巻き尺のように鋼の鉄線が収納されていて、使用する時に鉄線が出てくる。
 鉄線をビルの屋上の柵に引っかけることにより、ビルから飛び降りることや、サーカスの空中ブランコの様にビルからビルへとわたることも可能にする。
 スパイダーマンでいう糸のようなもの。
 これにより、平吉の三次元の対応能力は格段に高まった。

 こういう<修行>とか<アイテム>で強くなるのって、<少年>の夢なんですよね。

 ヒロインも登場する。
 羽柴財閥の娘である羽柴葉子(松たか子)だ。
 彼女は、泥棒長屋を本宅ではなく、離れだと思ってしまうようなお嬢様だが、なかなか活動的。
 平吉がピンチになると「平吉さま~~っ!!」と叫び、ヘリコプターに乗って助けに来る。←これ、結構ツボでした!
 こんな描写もあった。
 孤児たちを同情の気持ちを抱く葉子を平吉は「安全な場所にいて哀れんでいるだけの偽善者。自己満足」と非難したが、翌日、葉子は孤児たちのために大鍋で食事を作っている。
 そして、非難した平吉に「ありがとうございました。私のなすべきことが見つかりました」と頭をさげる。
 普通なら、非難されて落ち込む所だが、葉子はひるまない。すぐに行動を起こす。
 苦労を知らない財閥のお嬢様の<おっとり><鷹揚さ>とも言えるが、同時に人としての<器の大きさ>も感じる。

 というわけで『K-20 怪人二十面相・伝』には、懐かしい少年時代の夢が溢れている。
 もっとエロティックであったり、怪人なども出して、いかがわしさを増してほしい感じもするが、江戸川乱歩先生も現代のCG技術で自分の世界が活劇として見事に再現されて喜んでいらっしゃるのではないか。


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プリンセストヨトミ~設定は壮大だが、物語はしょぼい……

2012年05月15日 | 邦画
 「大阪国総理大臣、真田幸一です」
 豊臣家の末裔は生きていて、現代日本には<大阪国>が存在していた。

 面白い発想!
 財政がひっ迫していた明治政府に、大阪国が資金援助を行い、密かに大阪国が認められていた、なんて設定もなかなか。
 どうせ法螺を吹くなら、これくらい大法螺を吹いてくれると心地いい。
 現在の橋下市長の国に対する主張や勢いなどを考えると、もしかしたら<大阪国>って本当にあるのでは、などとも思えてしまう。

 しかし、設定はいいのだが、物語になるとメタメタ。
 リアリティがない。
 <大阪国>の存在を知った会計監査員の松平元(堤真一)が、5億円の国補助金を切る。
 でも、そんな理由で、大阪の人間が立ち上がるのか?
 大阪の人間が仮に100円でも寄付すれば5億なんてお金はすぐに集まるだろうし、<豊臣家への思い>だけで今ある生活基盤を捨て去るなんてことはあり得ない。
 鳥居忠子(綾瀬はるか)が、プリンセストヨトミこと、橋場茶子(沢木ルカ)を拉致したのだって、実際はヤクザの事務所に乗り込むのを阻止しようとしたためで、完全に真田幸一(中井貴一)の勘違い。事態をよく調べもせずに重要な決断を下してしまう真田って、リーダーとしてどうなのか?

 なので、作品世界にはうまく入り込めなかった。

 ただ、<父親と話したことが息子の心に刻まれる>というこの作品のテーマには感じるものがあった。
 確かに僕の場合でも、父親と何気なく話したこと(あるいは母親と話したこと)が生きる指針になっている。
 世の中には膨大な情報があふれているのに、ほんのわずかな時間、親と話したことが心に刻まれるって、実に不思議だ。
 やはり親子だからなのか?

 というわけで「プリンセストヨトミ」。
 壮大なスケールのドラマの割には、心に残ったことはごくわずか。
 設定倒れは否めない。
 作品はもっといろいろなことを感じさせ、考えさせてくれないと……。



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相棒 劇場版2 警視庁占拠!特命係の一番長い夜~「まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」

2012年05月10日 | 邦画
 小野田官房長(岸部一徳)と右京(水谷豊)が最後に交わした会話は次のようなものだった。(以下ネタバレ)

小野田「この国の警察をよくするために、もはや個人がどうのと言っているヒマはないんだから」
右京 「大局的見地というわけですか?」
小野田「わかってますよ。多少やり方が強引ってことは。当然、自覚はあるんだから。自分が全面的に正しいなんて思っていない。そもそも全面的に正しい人間なんてこの世にいない。つまりお前だって間違っている。なのにお前はそれを自覚していない分、質が悪い」
神戸 「それが官房長の正義ですか?」
小野田「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」
右京 「……」

 小野田の言っていることは正しい。
 <正義の定義は立ち位置によって変わる>し、<この世に絶対的な正義なんてない>。
 小野田がやろうとした人事一新による警察の全面改革だって、大きな歴史の流れで見たら正解なのかもしれない。
 右京が真相解明をするによって、警察の改革が頓挫したら、警察はますます腐敗し、官僚的になり、機能しなくなるかもしれない。
 小野田の改革が正解か不正解かは、五十年、百年経ってみないとわからないことだろうが、もし正解であった場合、右京がしたことは正しくなかったということになる。

 小野田がしようとしていることは、小さなものを切り捨て、大きなものを活かすという行為である。
 小さなものを<個人>、大きなものを<組織>や<国家>と言い換えてもいい。
 一方、右京は逆だ。
 大きなもののために小さなものが犠牲になってはいけない、と考えている。
 <組織>や<国家>のために<個人>が踏みにじられ、<真実>がうやむやにされたり、ねじ曲げられたりすることを嫌う。
 今回の事件でいえば、朝比奈圭子(小西真奈美)や八重樫哲也(小澤征悦)の思いだ。

 右京の行動は、ひとりの警察官としては正しい。
 なぜなら個人は小さな存在であり、弱いからだ。簡単に大きなものに踏みにじられる。
 <組織>や<国家>は簡単に<個人>を切り捨てる。
 だから、右京は小さなものを守る。警察手帳を持つ者の責任として。
 権力という大きなものの持つ力には、到底かなわないかもしれないが、警察手帳もひとつの力。
 その力を行使して、弱い小さなものを守らなければならない。

 しかし、何が正義かということになると、小野田の言ったことが正しい。
「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」
 この問いかけに対して右京は何も反論しない。ただ、黙っている。
 右京も<正義の定義は立ち位置によって変わる>し、<この世に絶対的な正義なんてない>ことを理解しているのだ。

 そして、右京と別れて数歩歩いた所で、小野田は殺されてしまう。
 殺害の動機は、左遷させられた個人的な恨み。
 これは皮肉だ。
 なぜなら<組織>や<大義>のために生きた男が、<個人的な恨み>で殺されてしまうのだから。

 小野田にとって右京は、行動を抑制するストッパー役だったのかもしれませんね。
 <組織>のために謀略を行うのを止めてくれる存在。
 行き過ぎになる暴走を「ちょっと待って下さい」と抑制してくれる存在。
 それが最期のせりふ、「殺されるのならお前(右京)に殺されると思っていた……」に繋がる。

 そして右京も。
 小野田の言葉、「正義の定義なんて立ち位置で変わるものでしょう。まさか絶対的な正義がこの世にあるなんて思ってる?」を胸に、小さなものを守る刑事の仕事をまっとうしていくのであろう。


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阪急電車 片道15分の奇跡 ②~美帆と圭一の出会い。「権田原美帆っていいます」

2012年05月09日 | 邦画
 大学生の権田原美帆(谷村美月)と小坂圭一(勝地涼)が出会って、心通わせるシーンが好きだ。

 自衛隊のヘリコプターのことで話が弾むふたり。
 圭一は思いきって自己紹介する。
「俺、小坂圭一。君は?」
「……」
 美帆は答えない。
 圭一は、美帆が<自分のことを警戒しているのだ>と思い、<少し話したくらいで名前を聞くなんて気安すぎる。ナンパみたいだ>と考える。
 だから「ごめん、いいんだ」とごまかす。
 気まずいふたり。
 駅に着くと、そのまま別れて、別々に歩いていく。
 すると美帆。
「あのっ……」
「?」 ふり返る圭一。
「ごんだわら……」
「?」
「権田原美帆っていいます」
 やっと名前を答える美帆。
 そして、圭一に名前を言わなかった理由を話し始める。
 このせりふがいい。

「権田原美帆っていいます。名字を言うとみんな笑うし、ゴンちゃんとかっていつも言われてて、それ、やっぱりちょっとイヤで。大学デビューで心機一転しようと思ったけど、やっぱりゴンちゃんで、しかもあたし、田舎者だからいつもキョロキョロしてて、何か浮いてて。で、さっき名前聞かれて、一瞬、ウソ言おうと思ったんですけど、すぐにウソは出て来ないし、そんなことでウソつくのなんて、親に対して申し訳ないな、とか思ってたら、言葉が何も出て来ないというか、頭が真っ白になって……。ごめんなさい、不愉快な思いをさせて」

 何という誠実な言葉だろう。
 たどたどしいが、美帆の必死に伝えようとする思いが伝わってくる。
 いいせりふというのは必ずしも明快でなくていいんですね。
 的確でキレのある必要はまったくない。
 逆にたどたどしくて無器用なくらいの方が、伝わることがある。

 この長い無器用な美帆の言葉を黙って聞いていた圭一も誠実だ。
 普通なら、「一体、何が言いたいんだ?」と口を挟みたくなるのに、じっと聞いている。
 美帆に正面から向き合おうとしている。
 だから彼はこう返事をする。
「笑わんよ、そんなことで俺は。軍オタ(←圭一は軍事オタクなのだ)の話、ちゃんと聞いてくれて、うれしかったし。笑わんよ、美帆ちゃん」
 圭一は、先程話した<自衛隊のヘリコプターの話>を美帆が真剣に聞いてくれたことが嬉しかったのだ。
 だから、美帆の言葉にも真剣に向き合った。

 こんなふたりだから、絆ができないわけがない。
「よろしく美帆ちゃん」
 と、言った圭一に対し、美帆は
「はい」
 と、笑顔で答える。

 昨日も書いたが『阪急電車 片道15分の奇跡』には、生きていく上で大切なことがたくさん盛り込まれている。


 『阪急電車 片道15分の奇跡①』はこちら


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阪急電車 片道15分の奇跡 ①~まずは与えることから始めよう!

2012年05月08日 | 邦画
 この「阪急電車 片道15分の奇跡」は、さまざまな大切なことを教えてくれる。

★たとえば<話しかける>ということ。
 人は電車に乗る。
 しかし、周囲の人たちはみんな他人で、こんなにたくさんの人がいるのに、孤独だ。
 でも、話しかければ絆が生まれる。
 「大丈夫ですか?」「ありがとう」
 こんなわずかな言葉でも、繋がりを感じることが出来る。
 それは大きく育って、この作品の登場人物たちのように強い繋がりになるかもしれない。
 たったひと言を話しかけるか、かけないかで、その人の生活や人生は大きく変わってくるのだ。

★<与えればエネルギーを与えられる>ということもある。
 萩原時江(宮本信子)は、高瀬翔子(中谷美紀)に「よかったら話を聞かせて」と話しかける。
 さらに時江は、森岡ミサ(戸田恵梨香)に「最低の男ね。別れなさい」と言って、すりむいたミサの膝にバンドエイドを張る。
 時江はこうして翔子やミサにエネルギーを与えている。
 そして、時江からエネルギーを与えられた翔子やミサは他人にエネルギーを与える。
 翔子は、同じ名前でいじめられている小学生の樋口翔子(高須瑠香)に。
 ミサは、主婦の伊藤康江(南果歩)に。
 こうしてエネルギーは人から人へと受け継がれる。
 そしてまわりまわって、自分のもとに帰ってくるかもしれない。
 だから、与えることを恐れたり、惜しんだりしてはいけない。
 あるいは与えることで、すでに人はエネルギーを充電しているのかもしれない。
 翔子は小学生の翔子に、ミサは主婦の康江に「ありがとう」と感謝された。
 そして、この「ありがとう」の言葉が、翔子やミサにさらなるエネルギーを与えた。
 誰でも他人から感謝されたら、うれしい気持ちになりますもんね。力がみなぎった感じにもなる。

★<何気ない出来事が教えてくれる>ということもある。
 ミサはDVの彼氏と別れるべきかで悩んでいる。
 そこへ何気なく聞こえてきた女子校生の会話。
 「あたしの彼氏、バカでさぁ。大学生なのに絹っていう字が読めないの」
 しかし、話を聞いていくと、おバカな彼氏は「彼女の受験が終わるまではエッチをしない」と宣言している誠実な男らしい。
 この話を聞いて、ミサは「あたしよりいい恋愛しているな」とつぶやく。
 そして、DVの彼氏と別れる決心をする。
 目の前を通り過ぎた何気ない女子校生の会話が、悩むミサに解決のヒントを教えてくれたのだ。

 こんなエピソードもあった。
 結婚式の引き出物をどうするか迷っている翔子。
 すると、後ろから男がぶつかって、翔子は引き出物が入った袋を落とし、引き出物が割れてしまう。
 男が後ろからぶつかるというトラブルだったが、これで翔子は引き出物を棄てる決心がついた。
 これも<何気ない出来事が教えてくれる>という事例である。

 このように考えてみると、われわれの日常って案外<不思議>で<素敵>である。
 この<不思議>と<素敵>を味わうためにも、まずは<与える>ことから始めよう。


 『阪急電車 片道15分の奇跡② 美帆と圭一の出会い』はこちら


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GANTZ PERFECT ANSWER~憎しみの連鎖を止めるということ

2012年05月01日 | 邦画
 この作品にはいくつかの隠喩がある。

 まずは、得点・点数社会。
 玄野計(二宮和也)は星人との戦い方、戦果によって得点がつけられる。
 これって、学校や受験での試験と同じ。
 トータル百点を獲れば、<記憶を消されて解放される>か<好きな人を生き返らせる>という特典が得られるのも点数社会の隠喩。
 試験でいい点数をとれば、いい大学・いい企業・いい生活が送れるという現実と同じ。←現代では、この神話もかなり崩れつつあるが。
 いずれにしても玄野たちは、ニンジンを目の前にぶら下げられて走らされる馬と同じなのだ。
 あるいは星人との戦いに負ければ、死んでしまうということも。
 現代社会では勝ち抜いていかなければ、たちまち落ちこぼれて、いわゆる<負け組>になってしまう。
 GANTZの登場人物たちの戦いはそのまま現代人の生活でもある。

 ふたつめは、会社組織や国家。
 玄野たちに戦いを強いるGANTZは、会社組織や国家に他ならない。
 人々は会社に入れば、シェア争いなど、他のライバル会社との競争に勝たねばならない。
 国家は時に<戦争>を起こし、国民を武器を与え戦場に向かわせる。
 黒い球体であるGANTZは不気味な存在であるが、この不気味さは会社組織や国家に他ならない。

 みっつめは<やられたからやり返す>という論理。
 玄野たちは、自分たちが何のために星人と戦っているのか正確には理解していない。
 地球を征服されるのを防ぐため? しかし、それも確かではない。
 唯一、確かなのは星人が「お前たちが最初に戦いを始めたんだ」「殺された仲間の復讐のために戦っている」という言葉。
 これって、現代の<アメリカとアルカイダの戦い>に似ている。
 アメリカがイスラム過激派を暴力で鎮圧したから、9・11が起こしたアルカイダ。
 9・11が起きたからアフガニスタンを攻めたアメリカ。
 この<やられたからやり返す>という論理は、玄野たちと星人との戦いにもそのまま当てはまる。
 いつの間にか戦う大義が霧散して、<やられたからやり返す>という復讐目的の戦いになっている。

 このようにGANTZの世界は現代社会の隠喩である。
 戦いは果てしなく続き、人々は戦いを強いられる。

 一方、この戦いをやめる唯一の方法がある。
 それが玄野が選んだ方法。(以下、ネタバレ)



 <PERFECT ANSWER>
 つまり戦うことを放棄することだ。
 玄野はGANTZとなり、星人との戦いを放棄する。
 死んだ人間を生き返らせ、戦士たちを解放する。

 戦いを放棄して<やられたからやり返す>という憎しみの連鎖を棄てることで、人々は穏やかな生活を取り戻すことが出来る。
 この<PERFECT ANSWER>が全世界に行き渡れば、世界は紛争のない平和な社会になれるのに。
 現在、日本は北朝鮮や中国を仮想敵国として、防衛力の増強などをしようとしている。
 自民党は<自衛隊>を<防衛軍>にしたいそうだ。
 確かに北朝鮮や中国が、将来、GANTZの世界でいう<星人>になる日が来るのかもしれない。
 でも、そんな時、われわれが思い出さなくてはならないのは、玄野が選んだ戦いを放棄するという<PERFECT ANSWER>だ。


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GANTZ~SFヒーローもののパロディですね

2012年04月27日 | 邦画
 <SFアクションヒーローもの>なんですけど、うまく外している。
 何しろ戦うのが、ネギ星人、田中星人、おこりんぼう星人、大仏星人……。
 出撃の時の音楽は、ラジオ体操のテーマ。
 出撃の命令は「行って下ちい」
 そして、星人を倒した時は人々から拍手喝采されることはなく、ただ点数がつけられるのみで、『存在感なし』『乳揺れすぎ』『岸本見過ぎ』といった論評が加えられる。

 玄野計(二宮和也)たちが戦う目的も定かでない。
 GANTZは「地球侵略を企む宇宙人を退治するため」と言っているが、それが本当かどうかわからない。
 GANTZの作り出すゲーム世界・物語世界で遊ばされているような感じさえ受ける。
 玄野たちは何のために自分たちが戦っているのかを知らず、ただ<生き残るため><星人を倒して得られる点数を得るため>だけに戦っている。
 そして合計獲得点数が100点になると、<記憶を消されて解放される>か<好きな人を生き返らせる>ことが出来るらしい。それもGANTZが言っているだけで本当かどうかわからないが……。

 このように『GANTZ』は<SFヒーローアクションもの>のパロディである。
 戦う理由がわからないというのは最近、正統派ヒーローアクションものでも見られるようになったが、ヒーローの戦いぶりに点数がつけられたり、論評が加えられたりすることはない。
 ましてネギ星人、田中星人って……、全然カッコよくない。

 <ファンタジーもの>のパロディでもある。
 ファンタジーものでは、現実の人間が異世界にやって来て悪と戦うというのが常道だが、玄野たちもGANTZに導かれて異世界に連れてこられたような感じだ。

 また、この作品、<力を持ってしまった人間がどのように変貌するか>も描かれている。
 特殊スーツの力で抜群の戦闘能力を持ってしまった玄野。
 彼は「自分には果たすべき役割がある」「ヒーローになるのは自分しかない」「みんなを救い、導くのは自分だ」と自惚れ、過信する。
 現実において無力で、存在感の希薄な人間が力を持った時、どのような心理状態になるかのいい例だが、これもまた従来のヒーロー像へのパロディである。
 ヒーローアクションもの、ファンタジーものの主人公たちは、特殊な力を持った時、玄野と同じように「自分こそが世界を救うヒーローだ」と確信する。スパイダーマンしかり、「ナルニア物語」や「ネバーエンディングストーリー」の主人公しかり。
 しかし玄野の姿を見ていると、正義のために戦おうとしている主人公たちって単に「自分の力に酔って自惚れているだけじゃん」と思えてくる。

 さて本日、続編「GANTZ PERFECT ANSWER」がオンエアされるが、どのような真実が明らかになるのだろう。
 いずれにしてもエンターテインメントは、「ウルトラマン」や「月光仮面」のような単純明快さには戻れないようだ。


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