(長文ご容赦・・・)気の遠くなるくらい昔のこと。自分が入ったデキ立ての中学校には当時校門がなかった(と思います)。で どこでどう決めたのか ある日教師と生徒全員が近くにある川へ一斉に出かけ 当時は豊富だった玉石を一人一個採取?して運び 校門の材料とした…と記憶し?たしか工事はプロがやったかと…。
時が流れ流れて…車で中学の校門前を通過する時チラ見すると 重厚でお墓みたいな石柱を使用し すっかり昭和のイメージから 明治の雰囲気に変貌。想い出の正門どうしたの?…と首を傾げて十数年。
(…ところ替って)
紅葉を見に訪問していた元盛岡藩南部家別邸 現在の盛岡市中央公民館の正門を気まぐれに撮影。
ムム~
ここの門柱には 片側に3本の石柱があったのだけれど…はてィ?…以下長い経過は割愛…両側から2本分譲られ校門自体を改築していたのだった。引っ掛かってたことでも きっかけがあれば その訳が解ることもあり 腑に落ちると かなり愉快なのでした。
(婿取り分家したわが母校の校門には その来歴を表示しているか確認せねば…やめておきます。もう平成の世 時間が経ちすぎました。)
「秋深し石に還りし石仏:福田蓼汀」