プロメテウスの政治経済コラム

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経団連「労働委報告」 「労使一丸」のむなしい願望 「日本的経営」はもはや「夢物語」

2009-01-14 20:30:16 | 政治経済
昨年12月に日本経団連が発表した経営労働政策委員会報告(以下「労働委報告」)は、なんとか労働者の心の離反を食い止めようと異常なまでに「労使一丸」を強調している。どんな優秀な労働力もそれをどの程度会社のために発揮するかは、各人のヤル気にかかっている。ヒトが頭脳のなかにこれまで蓄積してきた知識や能力を会社のためにどのように使うか、ヒトが自分の頭脳の中に新たな知識や能力を会社のためにどのように蓄積していくかは、各々の人格から切り離してコントロールできない。昨今の「派遣切り」「期間工切り」の嵐を間近に体験した労働者は、ますます会社にしがみつく振りをするだろうが、心の中は冷め切っている。どんなに経営者が「労使一丸」を強調しても90年代半ばからの「日本的経営」の解体はもはや元に戻らない。会社が「労使一丸」の物質的根拠を壊したのだから、「労使一丸」はもはや「夢物語」である。

「労働委報告」はいう。「わが国企業は、これまで二度の経済的な危機を労使の努力により跳ね返してきた・・・今回の難局を乗り切るにあたっては、過去の経験・教訓を踏まえ、労使が危機感を共有して一丸となって難局を打開していく姿勢が求められる」「過去のオイルショックや平成不況を乗り越えられたのは、わが国の労使の関係が経済状況や企業実態を重視する成熟したものへと深化してきたからこそといっても過言ではない」と
「労使一丸」とは不当な解雇や賃下げがあっても労働組合が「理解を示し容認する」ということである。たしかに、オイルショック以後の民間大経営の労使を見ていると、「労使協調主義」がさらに「成熟」・「深化」し、ついに「労使一体」=「労使一丸」の域に達したと言えるかも知れない。どこかの組合がストライキをやっているというようなニュースは、久しく聞いたことがない。

「労働委報告」は「日本的経営も変化しつつあるが、守るべきは守るという姿勢をもつことが大切である」とも述べている。
「日本的経営」は日本型開発主義国家の重要な構成要素だった。日本の産業構造・財閥・企業グループなどの研究をした元龍谷大学・中央大学教授の奥村宏さんは、大企業の株式所有構造に焦点をあて、企業グループの形成に伴う、企業間における株式の相互持合を分析し、これを「法人資本主義」と名づけた。たとえば三菱重工業の大株主を調べたら、三菱銀行だとか、三菱商事、三菱化成だとかがたくさんでてくる。そこで三菱商事を調べると、今度は三菱重工とか三菱銀行がまたでてくる。こうしてどこまでいってもぐるぐる回りで、三菱銀行グループが形成される。法人資本主義の体制のもとでは、各会社の経営者は、経営者同士で相互に他社の経営に口出ししないという紳士協定ができるので(総会は白紙委任状を貰う)、株主の短期的な意向を無視できる。日本型開発主義国家のもと政・官・財が一体となって成長第一主義に邁進することになった背景には企業経営者が、短期の株主に支配されないという日本型株式所有構造の特徴があったのだ

法人資本主義のもとで、経営者はまた、従業員を会社の中に取り込むことに成功した。終身雇用の慣行、ライフサイクルを反映した年功処遇、定年退職金や企業内福利厚生は、労働者を生涯にわたる過酷な競争に駆り立てながら会社共同体の一員に取り込んだ。そして企業別労働組合も、パイの確保のために、企業の成長に積極的に協力した。労使協調は当然のことであって、共産党が主張する階級的労働組合は、会社に逆らうものとして、排除すべき敵であった。日本社会全体もこの会社本位主義によって統合され、結婚相手、各種ローンなど、すべてどこの会社の社員であるかでランク評価された。学校教育、就職システムも成長第一の会社本位主義に適合するものとなった。

ところが、日本的経営は、バブル崩壊後の平成不況のなかで、財界によって法人資本主義も日本的労使慣行も完全に破壊された。金融資本の再編・生き残りと資産効率の向上要求のなかで、従来の企業グループによる株式の相互持合いは崩壊したこうして、米系投資家を先頭に、機関投資家、投資信託、ヘッジファンドなどの貪欲な株価至上主義の株主が安定株主に取って代わった。
1995年の日経連の「新時代の『日本的経営』」は、労働者を3つにわけ、正社員として雇用するのは全体の2割とし、8割は不安定雇用化して雇用も解雇も自由にするプランをうちだした。1999年派遣労働を「原則自由化」し、04年には製造現場まで解禁した。「労使一丸」の資格があるのは、2割の長期蓄積能力活用型グループのエリートだけとなった

会社組織は、2割のエリートだけでは動かない。だから、経営者は必死になって「労使一丸」を説くのである。しかし、いまや多くの労働者や労働組合は「労使一丸」ではなく、闘いによってしか雇用も賃金も守れないということを学びつつある。「労使一丸」の「日本的経営」は、もはやはかない願望、「夢物語」となったのだ。

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