プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

橋下主義(ハシズム=ファッシズム)をどう考えるか   民主主義と独裁(その4・完)

2011-11-11 19:14:12 | 政治経済

「大衆扇動・迎合政治」(ポピュリズム)が跋扈する背景には、政治と社会の閉塞感の蔓延があり、その根源には、事態を打開する対抗構想・革新の共同綱領の欠如がある。その間隙を縫ってポピュリスト政治家が、激しく煽ると、自分の頭で主体的に考えず、強いリーダーや非合理的な宣伝やマスコミに簡単に従うB級大衆は、簡単に騙される。

事態を打開する対抗構想・革新の共同綱領と言うは易く難しいのは、社会科学の発達水準の遅れに加えて、各研究者や自覚的市民がバラバラにされ、結集した集団作業をリードする核組織を生み出し得ていないということがある。これに比べ、支配者階級の政策立案力は抜群である。カネがあり、権力があり、御用学者の悪知恵をいくらでも結集できる。大手マスメディアは、支配階級の世論誘導に競って協力してくれる。さらにもともと、かれらの政策目標は至って簡単である。どうすれば、財界・大企業とアメリカの利益追求に貢献するかの1点だけを考えれば良いからである。かたや、対抗構想・革新の共同綱領は、多かれ少なかれ資本主義の市場原理をどこから、どのように制御するかを考えなければならない。グローバル資本主義のもとでの波及効果をすべて読み切ることは不可能である。大きな政策目標を定め、部分的にできるところから実行し、フィードバックしながら、一歩ずつ前に進む以外にない。「ポピュリスト政治家の政策」をちょっと吟味すると、すべて支配階級の利益に奉仕するものであるのは、このためである。彼らのブレーンはみな支配階級に買われたものたちである。

 

そして、政府に、自治体に、あるいは政治家に、「してもらう」ことだけを考える「おまかせ民主主義」、「おねだり民主主義」にどっぷりつかったB級大衆が、マスコミの宣伝を疑い、自分の頭で主体的に考える、そのために一人ひとりが自ら積極的に学習するA級大衆に脱皮することが、対抗構想・革新の共同綱領立案の大前提となる。

最近の身近な事例でいえば、TTP、消費税増税、原発から自然エネルギーへのエネルギー政策の転換もふくめて、こうした課題を国民本位で解決するには、国民一人ひとりが、政府やマスコミにコントロールされることのない、自立した主権者に成長しなければならない。「テレビや新聞はああいうけど、私はホントはこうだと思う」。堂々とそう主張することのできる人間にならねばならないということだ。そういう判断の芯をつくるには、「社会」の仕組みを学問として学ぶ必要がある。「社会科学」を学ぶということだ。そのなかで、遅れた「社会科学」も発展・進歩する。

 

民主主義とは合意による政治であり、話合にもとづく合意によってはじめて動くものだから、もともと決して効率的なものでない。昨今の、何ごとにも効率性を求める風潮が、組織トップの強い「リーダーシップ」を求めることになり、議会の多元的議論を封殺することにつながっているように思われる。効率性を追い求め、強い「リーダーシップ」に頼ることが、橋下のような独裁を生むことにつながっているのだ

しかしいつまでも、ただ話し合いを続ければよいというものでもない。案件ごとに時宜を適確に見極め、議論をまとめて合意に導く術をもったリーダーが必要である。また、民主主義は往々にして無責任体制になりやすい。「みんなで決めたこと」であってもその決定に責任をもつリーダーが必要である。

民主主義における「リーダーシップ」とは、みんなの議論をまとめること、みんなで決めたことを自分の責任として引き受けることである。

 

「トップが決めて引っ張っていってくれ、それがリーダーシップだ」という受動的な態度が、「民主主義が民主義を滅ぼす」道程につながる。橋下氏は「政治はやっぱり独裁」と公言して憚らない。「独裁をやる」などと公言すること自体、民主政治に参加する資格はない。

私たちは、民主主義を有権者が「強力な」リーダー1人を選ぶことに単純化し、民主主義の名のもとに強そうなリーダーにすべて任せておくと言った「思考停止」に陥ってはならない。

浦部法穂・神戸大名誉教授は次のように指摘する。

<橋下徹という人物が、アドルフ・ヒトラーほどの「大物」になるとも思えないが、ヒトラーが権力を掌握し遂には独裁権力者となっていった過程は、「民主主義が民主主義を滅ぼす」ことも現実にあるのだ、ということを私たちに教えている。そして、いま、この日本で、大阪にかぎらずあちこちで、同じ過程が進行中のようにみえる。民主主義と独裁は対立する概念であるが、決して両者無縁のものではない。民主主義のルールに従っているかぎり独裁権力が表れることなどありえない、と考えるのは、歴史に照らして、明らかに誤りなのである。権力とは、人々を支配し服従させることのできる力である。だから、たとえ民意の基礎のうえにたった権力であっても、ひとたび権力として成立した瞬間から、それは人々の意思(民意)そのものではなくなる。そのことを、私たちが十分に自覚しないで、権力への不断の監視を怠ったとき、「民主主義」の結果としての「民主主義」の死滅、という現象が現実化するであろう。

<完>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。