プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

11月10日(木)のつぶやき

2011-11-11 01:07:08 | 政治経済
19:01 from gooBlog production
橋下主義(ハシズム=ファッシズム)をどう考えるか   民主主義と独裁(その3) http://t.co/2bgJGGrk
22:02 from web
米中西部オハイオ州で8日、36万人以上の州公務員の団体交渉権を奪う州法をめぐり、住民投票が実施され、反対が60%を超えて賛成を圧倒し、この州法の廃止が決まった。多くの住民が「労働者の基本的人権にかかわる問題で、将来にわたっても禍根を残す」と考えたようだ。
22:02 from web
アメリカは、財界・大企業の強欲さでは、世界随一の国だが(いまや国内対応だけみると日本が随一かもしれない・・)、公務員と言えば、バッシングしか考えない日本の民度よりは民衆の民主主義感覚は上である。ブルジョア市民革命の経験のない日本の歴史が現代まで重くのしかかる。
22:03 from web
米国勢調査局は7日、2010年の貧困人口を公式基準とは別の形で推計すると、約4910万人、人口比で16・0%に達することを明らかにした(http://t.co/rAgmD66C)。厚生労働省が7月に発表した2010年調査の日本の相対的貧困率も16%。なんだか偶然でない気がする。
22:06 from web
野田首相がTPP参加表明を持ち越した。党の提言が政府に「慎重に判断」するよう求めたので、「慎重に考えた」振りをすることが、必要だったのだろう。 日本が民主主義国家であるなら、TPP交渉に参加しないこと、または、判断を先送りすることを示す必要がある。
22:07 from web
野田首相が急いで交渉参加を表明する理由はただひとつ。オバマに恭順の意を表明することだ。そのことは、野田氏が自分自身を「売国奴」=「米国への隷従者」であると自ら表明することを意味する。それにしても、日本には、売国奴政治家がいかに多いことか。皆、少しずつ分かり始めたようだ。
by torahori on Twitter

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1 コメント

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no will (noga)
2011-11-11 03:34:08
何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れ難い。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
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