プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

本間税調会長辞任  改めて考えるマスメディアの現状とその役割

2006-12-22 20:39:42 | 政治経済
日本の多くのマスメディアが、本来のジャーナリズムの使命である「事実を伝える」「権力を監視する」という二つの原点を放棄してしまっているのでないかといわれて久しい。マスメディアには、①議題設定機能=政治や問題の争点がなにかを明らかにする② 権力監視機能=政府や政治家などの特権階級の行動を監視・批判する③ 解釈・説明機能=事件や社会現象を民衆の目線で解釈・説明する。④世論形成機能=何が望ましいかを提示し民衆のなかに主権者意識を育てるなどの役割がある。しかし、権力に都合のわるい報道には「言論テロ」や「アカ」のレッテル張りが横行し、「自民対民主」という保守政党間の“擬似”討論によって、「議題設定」(「何が問題か」)まで権力に主導権を握られているのが、今日のマスメディアの現状である。

商業ジャーナリズムは、もともとメディア企業として「資本の論理」(コマーシャリズム)と「ジャーナリズムの論理」(公共的機能)の緊張関係のうえに成り立っている。テレビ局の許認可権、情報アクセス、広告料などを通じて権力と癒着することが「資本の論理」にとっては有利である。「ジャーナリズムの論理」を保持する意識的な努力が後退すれば、コマーシャリズムが独り歩きすることになる。
マスメディアと権力との癒着・一体化が本格的に進んできたのには、ここ三十数年来の歴史がある。六〇年代末から七〇年代初頭にかけて国政でも地方政治でも日本共産党が大きく躍進し、地方で革新自治体が人口の43%まで広がった。これをうけて、ときの支配層は危機感を抱いて共産党封じ込め戦略を開始した。いわゆる「自由社会を守れ」キャンペーンである。それ以来メディアの多くは、それに組み込まれる軌跡を描いてきた。小選挙区制導入に手を貸し、いまも二大政党論で、討論の幅を極端に狭め、時代閉塞状況を作り出している(「しんぶん赤旗」2006年7月23日)。

歴史的にジャーナリズムの変質過程には大きく三つのきっかけがある。第一に政府のマスメディア対策。これは六〇年代の弾圧、介入からメディアの「取り込み」へと進化する。六〇年代に自民党が「赤旗」の寄稿者リストを放送局に送りつけて放送に圧力をかけたのは、まさに言論レッドパージであった。メディアの取り込みでは政府審議機関へのメディア幹部の起用やテレビ免許に際しての便宜供与が行われた。第二は、総合情報産業化に伴う企業体質の変化である。権力とのパイプを太くすることで、電波利権獲得や国有地払い下げなど企業競争上、有利な立場を手にしようとする癒着の構造も強まっている。「読売」、「産経」を中心にメディアの一角に強力な改憲推進グループが形成され、「朝日」などの論調を右寄りに引っ張る役割を果たしている。ここでも彼らの常套手段は、「朝日」に対し「アカ」攻撃を武器として使うことである。第三は、テレビの基幹メディア化に伴うメディア環境の変化である。断片情報のはんらんやスポーツ・娯楽情報の肥大化、ワイドショーを通じての物事の極端な単純化など、権力のイベント操作や世論誘導に格好の舞台として利用されている(「しんぶん赤旗」同上)。

小泉流「劇場型政治」を通じて、テレビを中心にマスメディアが徹底して権力の世論操作に利用された。権力の監視機能どころか、共犯者としての役割を演じたのである。社会の矛盾や問題点が山積しながら、ジャーナリズムが機能しないため、問題の根源がどこにあるのか現状打開の方向が見いだせない。こんな中で、7月のNHKスペシャル「急増“働く貧困層”」はいわゆるワーキングプアを取り上げ反響を呼んだ。「努力が足りないという人もいるが、取材に応じてくれた人で、努力しない人は一人もいなかった」印象に残る言葉である。しかし、ワーキングプアの根源には、財界の要求に応える「労働法制」の規制緩和があり、階級闘争によってしか問題が解決しない本質までに迫ることは出来なかった。

今回の本間税調会長を辞任に追い込んだこと、銀行の政治献金再開を許さなかったことは、久々のマスメディアのヒットである。私たちは、マスメディアの自由な言論と批判精神を励ますために、そして心あるジャーナリストを孤立させないよう応援の声を届けたいものだ。

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